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宿帳  作者: 灯野 しおん
第一章 喜助とおきぬ

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第三十話 新しい家族

朝から、宿の中は落ち着かなかった。


台所では、おきぬが煮物の鍋を見ながら、何度も座敷の方を振り返っている。


「千、そっちの膳は並べたかい?」


「並べたよ」


「箸は?」


「ちゃんとある!」


「そうかい。なら、いいんだけどね」


そう言いながら、おきぬはまた膳の数を確かめた。


その様子を見て、咲が笑った。


「母ちゃん、さっきから何度も数えてるよ」


「そりゃあ数えるさ。大事な日なんだからね」


「いつもお客さんを迎えるときと、同じでしょう?」


「同じじゃないよ」


おきぬは、手を止めた。


「今日は、咲が嫁ぐ日なんだから」


そう言われると、咲も何も言えなくなった。


隣で千が、姉の着物の袖を整えている。


「姉さん、こっち、少し曲がってる」


「ありがとう」


千の手は、いつの間にかずいぶん器用になっていた。


小さなころ、関宿の地図を描いては、旅人に道を教えていた妹。


今では、宿の仕事も覚え、母の手伝いも当たり前のようにしている。


「千も、ずいぶん大きくなったねえ」


おきぬが言うと、千は顔を上げた。


「姉さんの方が大きいよ」


「そういう話じゃないんだけどねえ」


おきぬは笑い、咲の肩にそっと手を置いた。


「さあ、支度をしようか」


咲はうなずいた。


鏡の代わりに使っている小さな鏡板に、自分の姿を映す。


いつもの仕事着とは違う着物。


見慣れたはずの顔なのに、今日は少しだけ知らない人のように見えた。


「……変じゃない?」


咲が尋ねると、千は首を横に振った。


「きれいだよ、姉さん」


その言葉に、咲は笑った。


「ありがとう」


やがて、次一がやってきた。


いつもよりきちんとした身なりで、玄関先に立っている。


喜助が迎えに出た。


「よく来てくれました」


「本日は、よろしくお願いいたします」


次一は深く頭を下げた。


喜助も、静かにうなずいた。


「こちらこそ」


短い言葉だった。


けれど、その声には、これまで奉公人を迎えたときとは違う響きがあった。


次一は今日から、この家の者になる。


咲の夫として。


そして、この宿をともに支えていく人として。


婚礼は、身内や親しい者たちに囲まれて、滞りなく進んだ。


おきぬは何度も笑い、千は姉のそばに座っていた。


喜助は、いつもより少しだけ背筋を伸ばし、二人の様子を見守っていた。


祝いの膳を囲み、笑い声が座敷に広がる。


次一は、時折、咲の方を見た。


咲もまた、目が合うたびに少し照れたように笑った。


二人とも、まだ互いのことを知らない。


好きな食べ物も、苦手なことも、これから暮らすうちに知っていくのだろう。


けれど、同じ家で朝を迎え、同じ宿で旅人を迎える。


その始まりが、今日だった。


日が傾くころ、祝いの席もひと段落した。


おきぬは膳を片づけながら、次一に声をかけた。


「次一さん、遠慮はいらないからね。分からないことがあったら、何でも聞いておくれ」


「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」


「そんなにかしこまらなくていいんだよ。これからは家族なんだから」


その言葉に、次一は少し照れたように笑った。


「はい」


喜助は帳場に戻り、宿帳を開いた。


いつものように、旅人の名が並ぶ頁。


そこに、今日からは家族の暮らしもまた、少しずつ重なっていく。


喜助は筆を手にしたが、しばらく何も書かなかった。


今日のことを、どう記せばいいのだろう。


旅人ではない。


奉公人でもない。


この宿で暮らす、新しい家族。


喜助は、頁の端に小さく書いた。


――次一、婿入り。


それから筆を置き、帳場の向こうを見た。


おきぬが咲に何か話しかけ、千が笑っている。


次一は、その輪の中に少し遠慮がちに座っていた。


やがて、咲が次一の隣に腰を下ろす。


二人は何か言葉を交わし、そろって笑った。


喜助は、宿帳を閉じた。


夜、宿の戸を閉めるころには、通りの人影もまばらになっていた。


遠くで犬が吠え、風が軒先を抜けていく。


次一は、初めてこの家の寝床に入った。


隣には咲がいる。


壁の向こうからは、千の寝息が聞こえた。


「……今日から、ここが私の家なんですね」


次一が小さく言った。


咲はうなずいた。


「うん。これから、よろしくね」


「こちらこそ」


しばらく、二人は黙っていた。


やがて咲が、そっと笑った。


「明日の朝は早いよ」


次一も笑った。


「はい。覚悟しています」


二人の声が、静かな部屋に溶けていった。


翌朝も、旅人はやってくる。


釜には火が入り、湯が沸き、おいなりさんが作られる。


宿の暮らしは、変わらず続いていく。


ただ、帳場へ向かう足音が、ひとつ増えた。


それだけのことが、家族にとっては、大きな一歩だった。

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