第二十九話 縁談
朝から、台所がいつもより忙しかった。
「母ちゃん、そんなに作らなくてもいいんじゃない?」
咲が言うと、おきぬは手を止めずに答えた。
「何を言ってるんだい。遠くから来てくれるんだよ。腹いっぱい食べてもらわなきゃ」
「お茶を飲みに来るだけかもしれないよ」
「それでもだよ」
おきぬは鍋の蓋を開け、煮物の具合を確かめた。
「人を迎えるっていうのは、そういうもんさ」
咲は苦笑して、膳に箸を並べた。
いつもと変わらない朝のはずだった。
それなのに、箸の向きを揃え直したり、座敷の畳をもう一度見回したりしてしまう。
自分でもおかしかった。
まだ会ったこともない相手なのに、今日はいつもと同じようには過ごせなかった。
昼を少し過ぎたころ、表から声がした。
「喜助さん、約束どおり連れてきたよ」
帳場にいた喜助が立ち上がった。
「お待ちしていました」
商人の隣に、若い男が立っていた。
「次一です。本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」
次一は深く頭を下げた。
咲も座敷から出て、挨拶をした。
「咲です。遠いところ、ありがとうございます」
顔を上げた次一と、目が合った。
思っていたよりも穏やかな目をしていた。
咲はすぐに視線を落とした。
「さあさあ、立ち話もなんだから。こっちへお入り」
おきぬが二人を座敷へ案内した。
最初は、商人を交えての話だった。
次一は商家の三男として生まれ、幼いころから店の手伝いをしてきたという。奉公先では帳面をつけ、荷の数を確かめ、出入りする人たちの応対もしていた。
「商いは、物を売ればそれで終わりというものでもありませんから」
次一は茶碗を置いて言った。
「また来ていただけるかどうか。結局は、そこが大切なのだと教わりました」
喜助は、静かにうなずいた。
「宿も似たようなものですな」
「そうかもしれません」
次一は、帳場の方へ目を向けた。
開いたままの宿帳が見える。
「こちらが、旅人の方々の記録ですか」
「ええ。父が似顔絵を描いて、私が描き足すこともあります」
咲が答えると、次一は少し身を乗り出した。
「一人ひとり、顔を残しているのですね」
「泊まってくださった方のことを、忘れたくないんです」
口にしてから、咲は少し恥ずかしくなった。
けれど、次一は笑わなかった。
「いいことだと思います」
その言い方が、咲には不思議と心地よかった。
やがて、商人が立ち上がった。
「さて、私はこの辺で。あとは若い二人で話してみるといい」
「もう行くのかい?」
おきぬが尋ねる。
「長居をしても邪魔だろう。帰りに別の店にも寄らなきゃならんのでね」
商人は笑い、喜助たちに頭を下げて出ていった。
座敷には、次一と咲が残った。
少し離れたところで、おきぬが茶を淹れ直している。喜助は帳場へ戻ったが、時折こちらを気にしているようだった。
次一が、咲に向き直った。
「咲さんは、この宿を継いでいかれるのですか」
「……できれば、そうしたいと思っています」
咲は膝の上で手を重ねた。
「私は、この宿で育ちました。旅人の方を迎えるのも、宿帳に顔を描くのも好きなんです。だから、結婚しても、ここに残れたらと思っています」
次一は、ゆっくりとうなずいた。
「それを聞けてよかったです」
「よかった、ですか?」
「はい。私も、これから先、どこで働き、どんな暮らしをしていくのか、考えていたところでしたから」
次一は、少し照れたように笑った。
「商家の三男ですから、いずれは自分の働き場所を見つけ、家を持たなければと思っていました。けれど、ただ家を持てばいいというものでもないのでしょう」
咲は黙って聞いていた。
「ここでなら、宿の仕事を覚えながら、皆さんと一緒に暮らしていける。そう思いました」
「……婿に入ることになりますけれど」
「承知しています」
次一は、落ち着いた声で答えた。
「私にとっては、どこの家に入るかより、そこで誰と暮らし、何をしていくかの方が大切です」
咲は顔を上げた。
「私、まだ知らないことも多いです。宿の仕事だって、父ちゃんに教わっている途中ですし……」
「私も、知らないことばかりです」
次一が言った。
「商家の仕事はしてきましたが、宿のことは、これから覚えなければなりません」
それから、少し笑った。
「お互い、教わりながらやっていけばいいのではありませんか」
咲は、思わず笑みをこぼした。
何もかも分かってから、一緒になるのではない。
知らないことを、これから一緒に覚えていくのだ。
「……次一さん」
「はい」
「私と、一緒にこの宿で暮らしていただけますか」
次一は、まっすぐに咲を見た。
「こちらこそ。どうか、よろしくお願いします」
その言葉を聞いて、咲の胸にあった緊張が、すっとほどけていった。
座敷の向こうで、おきぬがそっと息をついた。
どうやら、聞こえていたらしい。
「喜助さん!」
おきぬの声が飛んだ。
「決まったよ!」
「聞こえている」
帳場から、喜助の返事がした。
「だったら、こっちへおいでよ。これからの話をしなきゃならないだろう」
おきぬは、もう嬉しさを隠そうともしなかった。
喜助が座敷へ戻り、次一に向き合った。
「では、改めて。うちの娘を、よろしくお願いします」
次一は深く頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「それと、うちの宿は思っているより忙しいですよ。朝は早いし、旅人の都合で夜が遅くなることもある」
喜助が言うと、次一は顔を上げた。
「はい。ひとつずつ、覚えていきたいと思います」
「そうですか」
喜助は、ようやく笑った。
「なら、これから一緒にやっていきましょう」
「父ちゃん、まだ明日から働くわけじゃないよ」
咲が言うと、おきぬが声を立てて笑った。
「そうだねえ。まずは婚礼の支度だ!」
「母ちゃん!」
咲の頬が赤くなる。
次一も、つられて笑った。
その声を聞きつけた千が、奥から顔を出した。
「決まったの?」
「決まったよ」
おきぬが答える。
千は次一の前にちょこんと座った。
「じゃあ、次一さん。この町のこと、私が教えてあげるね」
「それは心強いですね」
「坂下へ行く道も、関地蔵も、おいしいお団子のお店も知ってるよ」
「お団子の店まであるのかい」
「あるよ!」
千が胸を張る。
咲は妹を見て笑った。
さっきまで、これからの暮らしがどうなるのか分からなかった。
けれど、今は少しだけ、その先が見える気がした。
次一がこの宿へ来る。
一緒に働き、旅人を迎え、宿帳を開く。
いつか二人で、どんな顔を描こうかと話す日も来るのだろう。
夕方、次一が帰るころには、通りに長い影が伸びていた。
咲は戸口まで見送りに出た。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。お会いできてよかったです」
次一は、少し照れたように笑った。
「帰ったら、父と母に話そうと思います。いいご縁に恵まれたと」
咲は頬を赤らめ、うつむいた。
「……はい」
「きっと、喜んでくれると思います」
次一はもう一度、宿の方へ目を向けた。
「これから、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ」
次一が通りを歩いていく。
その背中が角を曲がるまで、咲は見送っていた。
「咲」
後ろから、おきぬの声がした。
「いつまで見てるんだい」
「もう、母ちゃん」
咲が振り返ると、おきぬはにこにこしていた。
「さあ、戻っておいで。明日から、いろいろ忙しくなるよ」
台所からは、夕餉の支度をする音が聞こえていた。
宿の一日は、いつもどおりに暮れていく。
けれど、この家に新しい家族が加わる日が、もう遠くない。
咲は暖簾をくぐり、いつもの匂いのする家へ戻った。




