第二十八話 まだ見ぬ人
朝の台所に、甘辛い醤油の匂いが漂っていた。
おきぬが鍋の中の煮汁を確かめ、火を少し弱める。
「咲、そっちの飯はどうだい?」
「もう少しで炊けるよ」
咲は釜の蓋をずらし、湯気の向こうを覗いた。
隣では千が、煮上がった油揚げを広げている。
「姉さん、これ、破れちゃった」
「じゃあ、それは私たちの分だね」
「ええ、もったいないよ」
「破れたって、おいなりさんはおいなりさんだよ」
おきぬが笑うと、千もつられて笑った。
朝餉を終えた旅人たちが、荷をまとめて表へ出てくる。
「お世話になりました」
「道中、お気をつけて。おいなりさんも持っておいきよ」
おきぬが竹の皮に包んだいなりを渡す。
旅人は礼を言い、街道へと歩いていった。
その背中が通りの人波に紛れるまで、咲は戸口に立って見送っていた。
旅人は、また別の土地へ向かう。
この宿に残る自分は、これからどんな暮らしをしていくのだろう。
そんなことを考えるようになったのは、縁談の話が出てからだった。
「姉さん?」
千の声に振り返る。
「どうしたの?」
「今、ぼんやりしてた」
「そう?」
「うん。おいなりさんの数でも数えてた?」
「もう、違うよ」
咲が笑うと、千は首を傾げた。
「……あの話、考えてるの?」
咲は、すぐには答えなかった。
千は姉の隣に腰を下ろし、片づけかけの宿帳をそっと引き寄せた。
「姉さんがいなくなったら、私が旅人の顔を描くのかな」
「どうして、そうなるの」
「だって、姉さんはお嫁に行くかもしれないんでしょう?」
「まだ決まったわけじゃないよ」
「うん。でも、もしそうなったら?」
千の指先が、宿帳の端をなぞった。
「私は、関宿の地図を描いていたいな。どこに何があって、どの道を行けばいいか。旅人に聞かれたら、ちゃんと教えてあげたい」
咲は妹の横顔を見た。
「千らしいね」
「姉さんだって、姉さんらしいことをすればいいんだよ」
千は、何でもないことのように言った。
「何それ」
「だって、姉さんは旅人の顔を描くのが好きでしょう?」
咲は宿帳を開いた。
そこには、父の描いた顔があり、自分が描き足した顔がある。おきぬの短い書きつけも、清吉の名前も残っている。
何人もの旅人がここに泊まり、出立していった。
そして、この宿で暮らす家族も、少しずつ変わってきた。
「……そうだね」
咲は小さく答えた。
「私も、もう少し考えてみる」
その日の昼過ぎ、表から聞き覚えのある声がした。
「喜助さん、いるかい?」
以前、縁談の話を持ってきた商人だった。
喜助が帳場から顔を出す。
「これは、また。今日はどうしました」
「この間の話だがね。先方も、ぜひ一度会ってみたいと言っているよ」
喜助は、手にしていた筆を置いた。
「そうですか」
「次一という若い男でね。商家の三男だ。店では帳面のことも、荷の扱いも覚えてきた。口数は多くないが、仕事は真面目にする男だよ」
「それで、今は?」
「次の奉公先を探しているところだ。本人にも話してみたら、こちらの宿に興味を持ってくれてね」
商人は、少し声を落とした。
「咲さんがこの宿を大事にしていることも伝えた。婿に入ることになるかもしれないが、それでも一度、話をしてみたいそうだ」
喜助はしばらく考え、それからうなずいた。
「本人がそう言っているなら、ぜひ来てもらいましょう」
奥から、おきぬも顔を出した。
「それで、いつ頃になるんだい?」
「近いうちに。都合のいい日を聞いて、また知らせるよ」
「待ってるからね。せっかく来てくれるんだ、ゆっくり話をしたいねえ」
商人が帰ると、おきぬはさっそく喜助の隣に腰を下ろした。
「次一、か」
「そうだな」
「どんな人だろうね」
「会ってみなければ分からん」
「そりゃそうだけどさ」
おきぬは、帳場の向こうにいる咲を見た。
「咲にも、ちゃんと話しておかないとね」
「もう聞いているよ」
咲が答える。
「次一さんという人が、会いに来てくれるんでしょう?」
「ああ。そうだよ」
喜助は娘を見た。
「無理に決めることはない。会って、話をして、それから考えればいい」
咲はうなずいた。
「うん。私も、一度会ってみたい」
口にしてみると、不思議と胸のつかえが少し軽くなった。
まだ見ぬ人が、どんな顔をしているのか。
どんな声で話し、どんなふうに笑うのか。
自分の知らない暮らしをしてきた人と、これからのことを話す。
考えると、少し落ち着かない。
けれど、怖いだけではなかった。
夕方、咲は帳場に座り、宿帳の新しい頁を開いた。
筆を持ち、何かを書こうとして、やめた。
まだ、名前を書くときではない。
その人がどんな人なのか、まだ知らないのだから。
通りの向こうから、旅人の呼び声が聞こえた。
「今夜、二人泊めてもらえるかい」
喜助が立ち上がり、おきぬが奥から返事をする。
千は地図を広げたまま、旅人に道を尋ねられるのを待っていた。
いつもの宿の一日が、また始まる。
その中に、近いうち、新しい出会いがひとつ加わる。
咲は筆を置き、戸口へ向かった。
今度来る人の顔は、どんなふうに描こう。
そんなことを考えながら。




