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宿帳  作者: 灯野 しおん
第一章 喜助とおきぬ

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第二十七話 娘のこれから

夕餉の膳を片づけると、宿の中は少しずつ静かになっていった。


表の間からは、泊まり客の話し声が聞こえている。明日の道順を確かめているらしい。


戸の隙間を、夜風が細く吹き抜けた。


咲は千と並んで帳場に座り、今日の宿帳を整理していた。


「姉さん、この人、明日は早く出るって言ってたよね」


「ああ。日の出の頃だって」


「じゃあ、おいなりさんも早めに用意しないと」


「そうだね。母ちゃんに言っておこう」


千は帳場の端に置いた地図を広げた。


「この人、坂下まで行くんだって。こっちの道を教えておいたよ」


「茶屋のあるところ?」


「そう。あそこで休めば、少し楽だから」


二人は顔を見合わせて笑った。


その様子を、少し離れたところから喜助とおきぬが見ていた。


「千、そろそろ寝な」


おきぬが声をかける。


「もう少しだけ」


「そのもう少しが長いんだよ」


「あと少し!」


千は地図をたたみ、渋々立ち上がった。


「姉さん、おやすみ」


「ああ、おやすみ」


千が奥へ入っていく。


咲は宿帳を棚へ戻そうとして、父の視線に気づいた。


「父ちゃん、どうしたの?」


喜助は少し間を置いてから言った。


「……咲。話がある」


「話?」


おきぬが、隣に座布団を置いた。


「まあ、こっちへおいで」


咲は手にしていた宿帳を棚に戻し、二人の向かいに座った。


喜助は湯呑みを手元へ引き寄せたが、すぐには口をつけなかった。


「この前、坂下の知り合いが来ただろう」


「うん」


「あの人から、お前の縁談について話があったんだ」


咲は、しばらく父の顔を見つめていた。


「……私の?」


「そうだよ」


おきぬが、いつもと変わらない調子で言った。


「真面目で、働き者の若い人がいるんだってさ。まだ何も決まっていないけど、一度、話を聞いてみないかってね」


咲は膝の上で手を重ねた。


「……私、嫁に行くの?」


思わず口にした言葉に、おきぬが目を細めた。


「まだ、そんな話じゃないよ」


喜助がうなずいた。


「相手のことも知らんうちから、決めるものじゃない。俺たちは、話が来たことをお前に伝えておこうと思ったんだ」


「……そう」


咲はうつむいた。


膝の上で、指先がそっと重なる。


いつか、自分も誰かのところへ嫁いでいく。


そういう日が来ることは、分かっていたはずだった。


けれど、目の前の両親と向かい合っていると、その先の暮らしが急に遠くなった気がした。


「……私、この宿が好き」


ぽつりと、咲が言った。


喜助は何も言わず、娘を見ていた。


「父ちゃんが絵を描いて、母ちゃんが旅人の話を聞いて。清吉さんがいた頃も、今も……ここでいろんな人に会えるのが好きなんだ」


咲の目が、帳場の棚へ向いた。


宿帳が何冊も並んでいる。


「だから、私が嫁に行ったら……この宿は、どうなるの?」


おきぬは、娘の手にそっと自分の手を重ねた。


「宿は、なくならないよ」


「でも……」


「お前がここにいたいと思うなら、その道だってあるだろう」


咲は顔を上げた。


「そんなこと、できるの?」


「できるかどうかは、これから考えることさ。相手がどんな人かも分からないんだからね」


おきぬは笑った。


「私だって、父ちゃんと一緒にこの宿を始めたんだよ」


喜助が隣で、わずかに眉を動かした。


「……俺は、何も言ってないぞ」


「言わなくても分かってるよ」


おきぬがそう返すと、咲は小さく笑った。


いつもの二人だった。


けれど、おきぬはすぐに娘へ向き直った。


「ただね、咲。宿のためだけに、自分の一生を決めるんじゃないよ。お前がどんな暮らしをしたいのか、それも大事なことだからね」


咲は、母の手を見つめた。


働いて、旅人を迎えて、宿帳をつけて。


そうして暮らしていく自分の姿は、いくらでも思い浮かぶ。


けれど、その隣に誰がいるのか。


どんな家で、どんな朝を迎えるのか。


考えようとしても、まだ何も浮かんでこなかった。


「……少し、考えてもいい?」


「ああ」


喜助はすぐに答えた。


「急ぐ話じゃない」


「ゆっくり考えな。お前の人生なんだから」


おきぬは、娘の手を軽く握った。


咲はうなずいた。


その夜、自分の部屋へ戻る前に、もう一度帳場を振り返った。


棚から一冊、宿帳を取り出す。


開いた頁には、父が描いた旅人の顔があった。


その隣には、母の筆跡が残っている。


さらに頁をめくれば、清吉の名があり、自分の描いた似顔絵もある。


幼い頃、父の隣で初めて筆を持った日のことを思い出した。


父の手元を覗き込み、同じように描こうとして、何度も笑われた。


今では、自分にも自分の描き方がある。


咲は筆を手に取り、まだ書き込まれていない頁を開いた。


何か描こうとして、やめた。


筆先から、墨が一滴落ちそうになった。


慌てて紙を離す。


「……いけない」


誰に聞かせるでもなくつぶやき、筆を置いた。


明日も、旅人がやってくる。


朝餉を用意し、道を尋ねられれば教え、おいなりさんを包む。


いつもの一日が始まる。


それでも。


床に就いて目を閉じると、昼間には思いもしなかった問いが、胸の中に残っていた。


自分は、これからどんな暮らしをしていくのだろう。


咲は、まだ答えを知らなかった。

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