第二十六話 縁談の話
昼過ぎ、旅籠の前を通り過ぎる風に、乾いた葉が一枚転がっていった。
通りには、伊勢へ向かう旅人の姿がある。
荷を背負った男たちが、軒先で道を尋ねていた。
「坂下へ行くには、この道でよろしいか」
「ええ。そのまま進んで、道が分かれるところを右へ」
千が描いた地図を広げ、咲が指で道筋を示した。
「この先に茶屋があるから、そこで一休みしてもいいですよ」
「ほう、詳しいねえ」
「妹が描いたんです。関宿のことなら、よく知っていますから」
千は少し離れたところで、聞こえないふりをしていた。
けれど、口元が笑っている。
旅人たちは礼を言い、通りへ出ていった。
その背中を見送っていると、入れ替わるように一人の男がやってきた。
五十をいくらか過ぎたくらいだろうか。
旅装ではあるが、荷は小さく、歩き方にも急ぐ様子がない。
「こちらに、喜助さんはいらっしゃるかね」
「父ちゃんですか。おりますよ」
咲が奥へ声をかける。
喜助が帳場から顔を出すと、男は懐かしそうに笑った。
「久しぶりだな。覚えているかい」
喜助は男の顔をじっと見た。
「……おお。久しぶりですな」
男は以前、坂下の旅籠に出入りしていた商人だった。
しばらく顔を見なかったが、今はあちこちの宿場を回り、商いを続けているという。
二人は茶を飲みながら、近頃の道の様子や、旅人の数について話した。
やがて男は、咲が帳場のそばで宿帳を整理しているのに気づいた。
「おや。あの小さかった子が、もうこんなに大きくなったのか」
「咲です。娘も、宿の手伝いをするようになりまして」
喜助がそう答えると、男は感心したようにうなずいた。
「しっかりした娘さんだ。さっきも、道を尋ねていた旅人に丁寧に教えていたよ」
「千の地図がよくできているんです」
咲が顔を上げた。
「私が描いたんじゃないよ」
「そうだったね」
千が横から口を挟む。
男は楽しそうに笑った。
「いい姉妹だな」
それから、何気ない調子で言った。
「ところで、喜助さん。咲さんは、もう縁談を考える年頃じゃないのかね」
帳場の空気が、ほんの少し変わった。
喜助は茶碗を置いた。
「……そういう話は、まだ」
「いや、急かすつもりはないんだ。ただな、うちの知り合いに、若い男がいてね」
男は声を少し落とした。
「真面目で、手先も器用だ。商家にいたこともあるし、人付き合いも悪くない。今は身の振り方を考えているところらしい」
「ほう」
「もし、いい相手を探しているのなら、一度話をしてみてもいいんじゃないかと思ってね」
喜助はすぐには答えなかった。
男も、それ以上は勧めなかった。
茶を飲み終えると、いつものように礼を言い、宿を出ていった。
戸口から風が入り、帳場の紙をかすかに揺らした。
咲は何も知らない顔で、宿帳を重ねている。
千は地図を折りたたみ、棚へしまった。
いつもと変わらない午後だった。
けれど、おきぬは、喜助がさっきから妙に黙っていることに気づいていた。
「……何かあったのかい」
喜助はしばらく考えてから、話を聞かせた。
おきぬは、咲のいる方へ目をやった。
娘は、帳場の隅で筆を洗っている。
水の中で墨がゆっくりとほどけていく。
「そうかい」
おきぬは、それだけ言った。
「どう思う」
「どうって……」
おきぬは困ったように笑った。
「咲のことだもの。まずは、どんな人なのか聞いてみないとねえ」
「そうだな」
「それに、咲がどう思うかもある」
喜助はうなずいた。
しばらく二人で、娘のいる方を見ていた。
咲は筆を拭き終えると、宿帳を抱えてこちらへ来た。
「父ちゃん、これ、しまっておくね」
「ああ。頼む」
咲は二人の顔を見比べた。
「……何かあった?」
「何もないよ」
おきぬが答えた。
「そう?」
「そうさ。夕餉の支度を手伝っておくれ」
「うん」
咲は宿帳を棚へ戻し、奥へと入っていった。
その背中を見送りながら、おきぬが小さく息をついた。
「大きくなったと思ったら、こういう話も来るんだねえ」
喜助は帳場の棚に目を向けた。
幾冊もの宿帳が、背を並べている。
そこには、旅人たちの顔がある。
生まれた子の名前がある。
遠くへ旅立った清吉の便りも、あの紙の中に残っている。
この宿で過ごした人たちの時間が、少しずつ重なっていた。
「……咲は、どうしたいだろうな」
喜助がつぶやいた。
おきぬは、すぐには答えなかった。
やがて、いつもの明るい声で言った。
「聞いてみればいいじゃないか。あの子だって、もう自分の考えがあるだろうさ」
喜助は、うなずいた。
その晩、夕餉の膳を囲む姉妹は、いつもと変わらずにぎやかだった。
千が今日道を尋ねてきた旅人の話をし、咲がそれを聞いて笑う。
おきぬは二人の椀に汁をよそい、喜助は黙って飯を食べている。
まだ、何も決まってはいない。
けれど、娘たちが知らないところで、季節は少しずつ先へ進んでいた。




