第二十五話 娘の顔
朝の帳場に、秋の風が入り込んでいた。
戸口を少し開けておくと、通りを行く人の声がよく聞こえる。
荷を担いだ男の掛け声。
馬の蹄が石を叩く音。
隣の店から聞こえる、包丁の音。
いつもの関宿だった。
咲は帳場の隅で、宿帳を開いていた。
昨日泊まった旅人の顔を、紙の上に描いている。
昔は、父の隣に座って筆を持つだけだった。
今は、旅人が帰ったあとでも、その顔を思い出して描ける。
眉の形。
笑ったときの目尻。
少し曲がった口元。
喜助が黙って見ていると、咲は筆を置いた。
「どう?」
「……似てる」
「父ちゃんより?」
「そこは言わんでいい」
咲が笑う。
その声を聞いて、おきぬが奥から顔を出した。
「朝っぱらから、また張り合ってるのかい」
「張り合ってないよ」
「そうかい」
おきぬは笑いながら、茶を置いた。
そのときだった。
表から、女の声がした。
「まあ……咲ちゃん?」
咲が顔を上げる。
以前にも泊まったことのある客だった。
「久しぶりだねえ」
「お久しぶりです」
咲が頭を下げる。
女は咲の顔をしばらく見ていた。
「まあまあ。すっかり大きくなって」
「そう?」
「そうだよ。前に会ったときは、まだ帳場の下から顔を出してたじゃないか」
「そんなに小さかった?」
「小さかったとも」
女は懐かしそうに笑った。
そして、ふと咲の手元を見る。
「それ、あんたが描いたのかい?」
「うん」
「へえ……」
女は宿帳を覗き込んだ。
そこには、昨日の旅人の顔がある。
「上手だねえ」
「父ちゃんに教えてもらったの」
咲がそう言うと、喜助は黙って茶を飲んだ。
「それなら、いい宿を継ぐねえ」
何気ない言葉だった。
けれど。
咲の手が、ほんの少し止まった。
女は気づかず、荷物をまとめ始めた。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「お気をつけて」
咲は立ち上がり、いつものように頭を下げる。
おきぬが包んでいたものを差し出した。
「これ、お帰りに」
「まあ、おいなりさんかい」
「うちの決まりだからね」
「嬉しいねえ」
女は笑って、包みを受け取った。
戸口を出る前に、もう一度振り返る。
「また来るよ」
「うん。また来てね」
咲が手を振る。
女の背中が通りの向こうへ消えていった。
しばらくしてから、おきぬが口を開いた。
「……大きくなったねえ」
「何が?」
「咲がさ」
咲は少し照れたように笑った。
「千だって大きくなってるよ」
「千の話じゃないよ」
おきぬは咲の顔を見る。
母親の目だった。
小さかった頃の娘を知っている目。
初めて歩いた日も。
初めて言葉を話した日も。
熱を出して眠れなかった夜も。
全部、知っている。
それでも。
いつの間にか、目の前の娘は、自分の知らない顔をするようになっていた。
旅人と話すときの顔。
宿帳に筆を走らせる顔。
妹の千を叱るときの顔。
そして、時々。
遠くを見るような顔。
「……ねえ、喜助」
「ん?」
「咲も、いつかは嫁に行くんだろうねえ」
喜助の手が止まった。
「……そうだな」
短い返事だった。
おきぬは笑った。
「なんだい。父親ってのは、もっと何か言うもんじゃないのかい」
「何を言えばいい」
「さあねえ」
二人とも黙った。
帳場の向こうでは、咲が宿帳を片づけている。
紙を重ねる音。
筆を洗う水の音。
その向こうから、千の声が聞こえた。
「姉さん、それ私の地図!」
「あ、ごめん」
「もう!」
いつもの姉妹の声だった。
喜助は、ふっと笑った。
そして、古い宿帳に目を落とした。
最初の頃の自分の字。
おきぬの字。
清吉の名前。
咲の名前。
千の名前。
ページをめくるたびに、人が増えている。
旅人が増え。
家族が増え。
この宿で生きる時間が増えている。
「……まだ、早いだろ」
喜助がぽつりと言った。
おきぬは隣で笑った。
「そうかもしれないねえ」
けれど。
その日の夕方。
西日が帳場へ差し込んだとき。
おきぬは、咲の横顔を見ていた。
もう子どもの顔ではない。
そう思った。
それは少し寂しくて。
それ以上に、嬉しいことだった。




