第二十四話 姉妹
昼を過ぎた頃。
帳場の脇に、一枚の紙が広げられていた。
墨で引かれた一本の道。
その両側に、家や店、橋や井戸が小さく描かれている。
道の途中には、ところどころ名前が書かれていた。
「千、また描いてるのかい」
おきぬが覗き込む。
「うん」
千は筆を動かしながら答えた。
「ここ、ちょっと狭いから、こっちに寄せたほうが分かりやすいかな」
「何の絵なんだい?」
「関宿の道」
「道?」
「うん。旅人さんが迷わないように」
おきぬは紙を眺めた。
関宿の街道。
宿の位置。
道が曲がるところ。
井戸の場所。
少し離れたところには、寺の絵まで描いてある。
「いつの間に、こんなものを……」
おきぬが呟いた。
「旅人さんに聞かれるから」
千は顔を上げた。
「坂下はどっちですか、とか。関地蔵はどこですか、とか」
「それで描いたのかい」
「口で説明するより、こっちのほうが分かるもの」
その言葉に、おきぬは少し笑った。
「そうかい」
帳場の奥では、喜助が黙って二人の話を聞いていた。
*
そこへ、旅装の男が入ってきた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
おきぬが迎える。
「今夜、泊めてもらえますか」
「もちろん。どうぞ荷物を置いておくれ」
男が荷を下ろす。
しばらくしてから、ふと思い出したように尋ねた。
「こちらから坂下へ行くには、どの道を通ればいいんでしょう?」
「街道をそのまま――」
おきぬが答えかけたときだった。
「こっちです」
千が紙を持ってきた。
「ここが、この宿です」
指先で小さく印をつける。
「ここから街道をまっすぐ行って、ここを曲がります」
「ほう」
「その先に橋があります。橋を渡ったら、あとは道なりです」
男が紙を覗き込む。
「これは、ずいぶん分かりやすいな」
「千が描いたんですよ」
おきぬが言う。
「お嬢さんが?」
「はい」
千が頷く。
「こっちは関地蔵です」
紙の端に描かれた小さな堂を指す。
「旅の途中で寄る人も多いです」
「そうか」
男は感心したように頷いた。
「じゃあ、ここも見ていこうかな」
「時間があれば、こっちも」
千が別の場所を指した。
「茶屋があります。そこの団子がおいしいって、旅人さんが言ってました」
「おいきぬさん」
喜助が笑う。
「いつから、うちの娘が宿の案内役になったんだ」
「知らないよ」
おきぬも笑った。
「でも、頼もしいじゃないか」
男が紙を見ながら言う。
「これ、もらってもいいかい?」
千は一瞬、喜助を見る。
喜助が頷く。
「いいんじゃないか」
「じゃあ……」
千は紙を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう。助かるよ」
男は丁寧に紙を折った。
「旅の途中で、こんな案内をもらえるとは思わなかった」
「また関宿へ来たら、教えてください」
「何を?」
「どこへ行ったか」
千が言った。
「そしたら、また描き足せるから」
男は目を細めた。
「それは楽しみだ」
*
夕方。
旅人が宿を出る前に、千は別の紙を広げていた。
今度は道ではない。
小さな絵がいくつも並んでいる。
団子。
餅。
街道沿いの店。
宿場の町並み。
「これは何だ?」
咲が覗き込んだ。
「関宿のもの」
「食べ物ばっかりじゃない」
「旅人さん、よく聞くから」
「食べ物のこと?」
「うん」
千は笑った。
「どこに行ったら、おいしいものがあるかって」
「千、食べることばっかり考えてない?」
「姉さんだって、旅人さんの顔ばっかり描いてるじゃない」
「私は宿帳に残すの」
「私だって残すの」
千は紙を指で叩いた。
「関宿のことを」
咲は少し黙った。
それから、妹の紙をもう一度見た。
「……いいね」
「でしょ?」
「うん」
咲は笑った。
「じゃあ、私も一緒に描こうかな」
「いいよ」
「でも、私のほうが上手だからね」
「姉さんだからって、負けないよ」
二人の声が帳場に響いた。
*
夜。
帳場の灯りの下で、喜助は昼間の紙を眺めていた。
関宿の道。
旅人が歩く道。
店のある場所。
人が立ち寄る場所。
その隅には、千の小さな字が並んでいる。
「ずいぶん詳しくなったな」
喜助が言った。
千が顔を上げる。
「旅人さんに教えてもらったの」
「そうか」
「知らないこと、いっぱいあるから」
喜助は頷いた。
その向かいでは、咲が今日の旅人の顔を宿帳に描いている。
父親の隣で、人の顔を描く娘。
その少し離れたところで、町の道を描く妹。
おきぬは二人を眺めながら、湯飲みを口に運んだ。
「姉妹でも、違うもんだねえ」
喜助が笑う。
「同じじゃなくていいさ」
咲が筆を止める。
千も顔を上げる。
「父ちゃん」
「なんだ?」
「千の地図、宿帳に入れてもいい?」
喜助は少し考えた。
「……いいんじゃないか」
千の顔が明るくなる。
「ほんと?」
「ああ。ただし、ちゃんと日付を書いておけ」
「うん」
千は嬉しそうに頷いた。
咲が宿帳の隣を少し空ける。
そこへ千が紙を置いた。
人の顔の隣に。
一本の道が伸びている。
関宿を通り、遠くへ続いていく道だった。
宿帳に、またひとつ。
この町を生きる者の記録が増えた。




