第二十三話 帰ってきた旅人
昼を少し過ぎた頃だった。
街道から、ゆっくりと人が歩いてきた。
笠をかぶり、背には小さな荷をひとつ。
足取りは急いでいない。
宿の前まで来ると、その男は足を止めた。
軒先を見上げる。
それから、しばらく黙っていた。
「……ここだったか」
小さく呟く。
戸を開ける。
「ごめんください」
「はいよ」
帳場にいたおきぬが顔を上げた。
「お泊まりかい?」
「ええ。今夜、一晩お願いしたいんですが」
「もちろん。どうぞお上がり」
男は荷を下ろした。
そして、もう一度、帳場の奥を見た。
「……ずいぶん、変わってませんね」
「そうかい?」
「ええ」
おきぬは首を傾げる。
「うちに来たことがあるのかい?」
「はい」
男は笑った。
「ずっと昔に、一度だけ」
「まあ」
おきぬが目を細める。
「それじゃあ、昔のお客さんかもしれないねえ」
「そうだと思います」
そこへ喜助がやって来た。
「どうした?」
「この人、昔ここに泊まったことがあるんだって」
喜助は男を見た。
男も喜助を見る。
しばらく、互いに黙っていた。
やがて喜助が言った。
「……何年前だ?」
「十年……いや、もっと前です」
「そうか」
喜助は帳場の脇に置いてあった宿帳へ目を向けた。
「名前は?」
男が名を告げる。
喜助は古い帳面を取り出した。
紙を一枚ずつめくっていく。
古い紙の匂いが、ふわりと立った。
「これだ」
指が止まる。
そこには、男の名前があった。
その横には、小さな似顔絵。
まだ若い男が、少し緊張した顔で描かれている。
「……これ、俺ですか?」
「そうだ」
喜助が答える。
「俺が描いた」
男は笑った。
「こんな顔でしたかね」
「もっと若かった」
「やっぱり」
男は絵を見つめた。
おきぬも横から覗き込む。
「まあ、髪がずいぶん黒いねえ」
「今は?」
「白いのが混じってる」
「歳をとりましたから」
「こっちだって同じさ」
おきぬが笑う。
男も笑った。
*
その晩。
男は夕餉を終えると、帳場の前に座っていた。
咲もその隣にいる。
宿帳を開いて、昔の絵を眺めていた。
「これ、父ちゃんが描いたの?」
「ああ」
「上手だね」
咲は絵と男の顔を見比べた。
「でも、今のほうが上手」
喜助が眉を上げる。
「そうか?」
「うん」
咲は笑った。
男が声を立てて笑う。
「娘さんも絵を描くんですか?」
「最近、描きたがってね」
喜助が言う。
「宿帳に描いてるんだよ」
「へえ」
男は咲を見る。
「じゃあ、俺も描いてもらおうかな」
「いいの?」
「もちろん」
咲は嬉しそうに筆を取った。
男が少し姿勢を正す。
「こんな感じ?」
「もう少し、こっち向いて」
「はいはい」
咲が真剣な顔で筆を動かす。
その様子を、おきぬが笑いながら見ていた。
しばらくして。
「できた!」
咲が紙を差し出す。
そこには、今の男の顔が描かれていた。
少し丸くなった輪郭。
目尻の皺。
白くなった髪。
昔の絵とは、ずいぶん違う。
男は二枚を並べて見た。
「……同じ人だな」
そう言って笑った。
「でも、ずいぶん変わった」
「変わるもんだよ」
喜助が言う。
「旅をして、帰ってくればな」
男は、その言葉を聞いて、少しだけ黙った。
「そうですね」
やがて、古い宿帳をそっと撫でる。
「また来てよかった」
おきぬが笑った。
「また来なよ。次は、もっと早く」
「はい」
*
翌朝。
男が荷を背負う。
戸口で、おきぬが包みを渡した。
「これ、持っておいき」
「おいなりさんですか」
「そう」
男は笑った。
「昔も、もらいましたよね」
「そうだったかねえ」
おきぬはとぼける。
「うちじゃ、昔からそうなのさ」
男は包みを大事そうに受け取った。
「ありがとうございます」
「気をつけて」
「また来ます」
男は街道へ出ていった。
しばらく歩いたところで、振り返る。
宿の前には、まだおきぬが立っていた。
その隣に、咲。
二人に手を振る。
おきぬも手を振り返す。
やがて男の姿が、人の往来の向こうへ消えた。
帳場では、宿帳が開いたままだった。
古い絵の隣に、新しい絵が一枚。
同じ人の顔が、二つ並んでいる。
喜助はそれをしばらく眺めていた。
そして、その下に静かに書き足した。
――久しぶりに宿へ戻る。
昔より、少し歳を重ねていた。




