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宿帳  作者: 灯野 しおん
第二章 次一と咲

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第九話 帰ってきた娘

 昼を少し過ぎたころ、街道から二人連れの旅人がやってきた。


 宿の軒先で、次一が荷を運んでいた手を止める。


 先を歩く女が、門口に立つ次一を見つけて顔をほころばせた。


「次一兄さん!」


 千だった。


 その隣には、新吉がいる。背には風呂敷包み、肩には旅の荷。二人とも日に焼け、草履の紐もすっかり足に馴染んでいる。歩き疲れた様子はあっても、足取りには、かつて関宿を出ていったころにはなかった落ち着きがあった。


「おお、千! 新吉さんも。よく帰ってきたな」


「ただいま!」


 千が笑って頭を下げる。新吉も、隣で穏やかに一礼した。


「お世話になります。……いえ、帰ってきた、というのも妙ですね」


「何言ってんだい。ここはお前さんたちの家でもあるんだからね」


 奥から顔を出したおきぬが、手を拭きながら笑った。


「ほら、そんなところで立ち話してないで、早く入りな。旅の埃を落としておいで。飯もあるよ」


「おっかぁ、ただいま!」


「はいはい、おかえり。顔を見せておくれ」


 おきぬは千の頬を両手で挟むようにして、しばらく眺めた。


「まあ、日に焼けたねえ」


「そう?」


「そうさ。あんた、どこまで行ってきたんだい」


「いろんなところ!」


 千が答えると、新吉が横から口を挟んだ。


「いろんなところへ行きましたね。道を間違えたこともありましたし」


「新吉、それは言わなくていいの」


「でも、あのときは千が——」


「言わなくていいってば」


 千が新吉の袖を軽く引く。


 新吉は笑って口をつぐんだ。


 そのやりとりを見て、次一が声を立てて笑った。


「なるほど。二人で旅をしてきたってわけだ」


「そうだよ。おっとうたちにも、たくさん話があるんだから」


 千は荷を下ろすと、さっそく懐から包みを取り出した。


「でも、その前に……姉さんは?」


「奥だよ。いとが起きてる」


 次一が答えると、千の顔がぱっと明るくなった。


「いと!」


 千は荷物を置いたまま、奥へと駆けていった。


     *


 部屋の中では、咲が座布団に腰を下ろし、膝の上の赤子を抱いていた。


 障子から差し込む午後の光が、赤子の頬を淡く照らしている。いとは小さな口を開けたり閉じたりしながら、母の胸元で眠たそうにしていた。


「姉さん!」


「あら、千。おかえり」


 咲は顔を上げると、懐かしそうに笑った。


「新吉さんも一緒だね。二人とも、元気そうでよかった」


「ただいま、姉さん。ねえ、いとを見せて!」


「はいはい。起こさないようにね」


 咲がそっと赤子の顔をこちらへ向ける。


 千は膝をつき、息をひそめて覗き込んだ。


「わあ……」


 小さな鼻。閉じたまぶた。握られた手の指は、千の指先ほどしかない。


「こんなに小さいんだねえ」


「もう二月になるよ。少しずつ、重くなってきた」


「二月……」


 千は、いとの顔をじっと見つめた。


「私が出ていったときは、まだいなかったんだもんね」


「そうだよ。千が旅をしている間に生まれたんだから」


 咲は赤子の背をゆっくり撫でた。


「いと、お客さんですよ。千おばちゃんですよー」


 千が、ぴたりと動きを止めた。


「……おばちゃん?」


「そう、おばちゃん」


「姉さん、ひどい!」


 思わず声を上げた千に、咲が笑い出す。


「だって、この子から見たら、そうでしょう?」


「まだ若いのに!」


「はいはい。若い千おばちゃん」


「もう、姉さん!」


 千は頬を膨らませたが、すぐに自分でもおかしくなったらしい。いとの小さな顔を見て、くすくすと笑い始めた。


「……まあ、いとが大きくなったら、たくさん旅の話をしてあげるからね」


「そうしておくれ。いろんなところを見てきた千おばちゃんのお話だもの」


「姉さん、まだ言う!」


 今度は、部屋の外で聞いていたおきぬまで笑った。


 いとは、みんなの声が聞こえているのかいないのか、小さな手をひらひらと動かした。


 千はその手に自分の指をそっと近づけた。


 すると、いとの指が、頼りない力で千の指を握った。


「……あ」


 千の顔から、からかいへの抗議が消えた。


 その小さな手を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。


 咲も、妹の横顔を静かに見ていた。


「かわいいね」


 ようやく千が言うと、咲は目を細めた。


「うん。かわいいよ」


     *


 夕餉のあと、千は持ってきた包みを広げた。


 中から出てきたのは、何枚もの絵だった。


 橋のたもとに並ぶ店。川を行き交う船。山の間を抜ける細い道。旅籠の軒先で雨宿りをする人々。見知らぬ土地の市で、籠いっぱいの野菜を売る女。


 一枚一枚に、千が歩いてきた道の匂いが残っているようだった。


「これはどこだい?」


 喜助が一枚を手に取る。


「ここは、東のほうで泊まった町。朝になると、川沿いに荷を運ぶ人がたくさん通るの。向こうに見える橋はね、思っていたよりずっと大きくて……」


 千は絵の端を指でなぞりながら話した。


 新吉も隣から身を乗り出す。


「この店の並びは、千が描いたものに、私が見た様子を少し足したんです。実際はもっと人が多くて、荷車が通るたびに道の端へ寄らなければならないほどでした」


「へえ。二人で描いたのかい」


 おきぬが尋ねる。


「そう。私が見たものを描いて、新吉が気づいたことを教えてくれるの。反対のこともあるよ。新吉が話してくれたものを、私が描くこともあるし」


「一人で旅をするのとは、また違うんだねえ」


 咲が、いとを抱いたまま絵を覗き込んだ。


「うん。道に迷っても、一緒に考えられるしね」


「千が道を間違えたときも?」


「新吉!」


 また笑い声が起きた。


 新吉は悪びれもせず、千の前に置かれた絵を一枚持ち上げた。


「けれど、あの道を間違えたおかげで、この景色を見つけたんですよ」


 そこには、夕暮れの田の向こうに、低い山並みが描かれていた。


 空の端には、細く残った茜色。道ばたには、帰り支度をする農夫の姿がある。


 喜助は絵を受け取り、しばらく黙って眺めた。


「……いい景色だな」


「でしょう?」


 千が嬉しそうに頷いた。


「そのときは、早く宿に着きたいと思っていたんだけどね。夕日がきれいで、二人でしばらく眺めていたの」


「そういう日もあるさ」


 喜助は絵をそっと戻した。


「急ぐばかりじゃ、見えないものもある」


 千は父の言葉に頷き、絵を一枚ずつ並べ直した。


 やがて、次一が宿帳を持ってきた。


「千、この一年のことも、ここに残しておいたらどうだ?」


 宿帳には、喜助が描いた旅人の顔があり、おきぬの筆で書かれた短い言葉がある。咲の絵も、千が描いた関宿の道や店の地図も、そこに重なっていた。


 千は帳面を受け取り、しばらく紙の匂いを嗅ぐように顔を近づけた。


「うん。描きたいものが、たくさんあるよ」


「また、帳面が賑やかになるねえ」


 おきぬが言うと、喜助も小さく笑った。


 千は新吉と顔を見合わせた。


「ねえ、新吉。京都の絵も、ここに描こうね」


「そうですね。今度は、私が仕入れに行く店も描いてもらいましょうか」


「もちろん。どんな店なのか、ちゃんと見てくるから」


 その言葉に、次一が顔を上げた。


「京都へ行くのか?」


「はい。今度は、私が一人で仕入れを任されることになりました」


 新吉はそう答えた。


 これまでは父について歩き、商いのやり方を覚えてきた。けれど今度は、自分で本を選び、値を確かめ、仕入れをまとめる。旅の道も、商いの段取りも、自分の判断で進めなければならない。


「初めての独り立ちです」


 そう言いながらも、新吉の声には、気負いすぎたところがなかった。


「それで、千も一緒に行くのかい」


 おきぬに聞かれ、千は当然のように答えた。


「うん。一緒に行くよ。京都はまだ、ちゃんと見たことがないもの」


「私も、千が一緒なら心強いです」


 新吉が言った。


「それに、千が描いてくれたら、私が見落としたものにも気づけるでしょう」


「任せて」


 千は胸を張った。


 咲は二人を見ながら、いとの背をそっと撫でた。


「二人とも、いい顔になったね」


「そう?」


「うん。旅に出る前より、ずっと」


 千は少し照れたように笑い、新吉のほうを見た。


 新吉も、何も言わずに笑い返した。


 その様子を、喜助は宿帳を閉じながら眺めていた。


 娘が一人、家を出ていった。


 けれど、こうして帰ってきた。


 今度は夫と二人で、新しい道へ向かおうとしている。


 宿の中では、夕餉の片づけをする音がしていた。廊下の向こうでは、いとが小さく声を上げ、咲があやす声が聞こえる。


 千は旅の絵を丁寧に包み直した。


 明日は、また出発だ。


     *


 翌朝。


 軒先には、朝の冷たい空気が残っていた。


 新吉は荷を背負い、千は絵を入れた包みを肩に掛けている。二人で道具を確かめ、草履の紐を結び直した。


 おきぬが握り飯ならぬ、いつものいなり寿司を包んで持ってきた。


「ほら、道中で食べな。お腹が空いたまま歩くんじゃないよ」


「ありがとう、おっかぁ」


 千は受け取って、包みを大切に荷の中へしまった。


 喜助は門口に立ち、二人を見ていた。


「京都へ行くんだったな」


「はい。まずは仕入れ先を回って、本を選んできます」


 新吉が答える。


 喜助は、街道の先へ目を向けた。


「このごろは、京のほうも物騒な話が聞こえてくる。誰が何を企んでいるのか、何を信じればいいのか、わからんことも多い」


 いつもの穏やかな声だったが、言葉の終わりには、わずかな重みがあった。


「噂を聞いても、すぐに信じるな。知らない者の言葉に乗せられるな。人の多いところでは荷にも気をつけろ。商いも大事だが、何より二人とも無事に帰ってくることだ」


「はい」


 新吉が、まっすぐに頷いた。


 千も父の前へ一歩進み、頭を下げる。


「気をつけるよ、おっとう」


「千。お前もだぞ」


「わかってるって」


「その返事が一番心配なんだ」


「もう、おっとうまで!」


 千が頬を膨らませると、おきぬが横から笑った。


「ほらほら、二人とも。道中で喧嘩するんじゃないよ」


「喧嘩なんてしないよ」


「そうですね。千は道を間違えたときくらいです」


「新吉!」


 新吉は笑いながら、千の荷がずれているのを直してやった。


 千も、彼の肩に掛かった紐を引き上げる。


 慣れた手つきだった。


「じゃあ、行ってくるね」


 千が言った。


「行ってまいります」


 新吉も頭を下げた。


 喜助とおきぬ、咲と次一が、門口に並んで二人を見送った。


 千は何度か振り返り、そのたびに手を振った。新吉は隣で歩調を合わせている。


 やがて二人の姿は、朝の街道を行く人々の中へ紛れていった。


 喜助は、しばらくその先を見つめていた。


「……また、絵が増えるねえ」


 おきぬが隣で言った。


「ああ」


 喜助は頷いた。


「どんな京を描いてくるだろうな」


 街道の向こうから、荷を積んだ馬の鈴が聞こえてきた。


 宿の朝は、いつもどおりに始まっている。


 けれど、千が旅先で見た景色は、やがてこの宿帳に加わるだろう。


 そしていつか、ここを訪れた誰かが、その絵を覗き込みながら、自分の旅の話をするのかもしれなかった。

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