第九話 帰ってきた娘
昼を少し過ぎたころ、街道から二人連れの旅人がやってきた。
宿の軒先で、次一が荷を運んでいた手を止める。
先を歩く女が、門口に立つ次一を見つけて顔をほころばせた。
「次一兄さん!」
千だった。
その隣には、新吉がいる。背には風呂敷包み、肩には旅の荷。二人とも日に焼け、草履の紐もすっかり足に馴染んでいる。歩き疲れた様子はあっても、足取りには、かつて関宿を出ていったころにはなかった落ち着きがあった。
「おお、千! 新吉さんも。よく帰ってきたな」
「ただいま!」
千が笑って頭を下げる。新吉も、隣で穏やかに一礼した。
「お世話になります。……いえ、帰ってきた、というのも妙ですね」
「何言ってんだい。ここはお前さんたちの家でもあるんだからね」
奥から顔を出したおきぬが、手を拭きながら笑った。
「ほら、そんなところで立ち話してないで、早く入りな。旅の埃を落としておいで。飯もあるよ」
「おっかぁ、ただいま!」
「はいはい、おかえり。顔を見せておくれ」
おきぬは千の頬を両手で挟むようにして、しばらく眺めた。
「まあ、日に焼けたねえ」
「そう?」
「そうさ。あんた、どこまで行ってきたんだい」
「いろんなところ!」
千が答えると、新吉が横から口を挟んだ。
「いろんなところへ行きましたね。道を間違えたこともありましたし」
「新吉、それは言わなくていいの」
「でも、あのときは千が——」
「言わなくていいってば」
千が新吉の袖を軽く引く。
新吉は笑って口をつぐんだ。
そのやりとりを見て、次一が声を立てて笑った。
「なるほど。二人で旅をしてきたってわけだ」
「そうだよ。おっとうたちにも、たくさん話があるんだから」
千は荷を下ろすと、さっそく懐から包みを取り出した。
「でも、その前に……姉さんは?」
「奥だよ。いとが起きてる」
次一が答えると、千の顔がぱっと明るくなった。
「いと!」
千は荷物を置いたまま、奥へと駆けていった。
*
部屋の中では、咲が座布団に腰を下ろし、膝の上の赤子を抱いていた。
障子から差し込む午後の光が、赤子の頬を淡く照らしている。いとは小さな口を開けたり閉じたりしながら、母の胸元で眠たそうにしていた。
「姉さん!」
「あら、千。おかえり」
咲は顔を上げると、懐かしそうに笑った。
「新吉さんも一緒だね。二人とも、元気そうでよかった」
「ただいま、姉さん。ねえ、いとを見せて!」
「はいはい。起こさないようにね」
咲がそっと赤子の顔をこちらへ向ける。
千は膝をつき、息をひそめて覗き込んだ。
「わあ……」
小さな鼻。閉じたまぶた。握られた手の指は、千の指先ほどしかない。
「こんなに小さいんだねえ」
「もう二月になるよ。少しずつ、重くなってきた」
「二月……」
千は、いとの顔をじっと見つめた。
「私が出ていったときは、まだいなかったんだもんね」
「そうだよ。千が旅をしている間に生まれたんだから」
咲は赤子の背をゆっくり撫でた。
「いと、お客さんですよ。千おばちゃんですよー」
千が、ぴたりと動きを止めた。
「……おばちゃん?」
「そう、おばちゃん」
「姉さん、ひどい!」
思わず声を上げた千に、咲が笑い出す。
「だって、この子から見たら、そうでしょう?」
「まだ若いのに!」
「はいはい。若い千おばちゃん」
「もう、姉さん!」
千は頬を膨らませたが、すぐに自分でもおかしくなったらしい。いとの小さな顔を見て、くすくすと笑い始めた。
「……まあ、いとが大きくなったら、たくさん旅の話をしてあげるからね」
「そうしておくれ。いろんなところを見てきた千おばちゃんのお話だもの」
「姉さん、まだ言う!」
今度は、部屋の外で聞いていたおきぬまで笑った。
いとは、みんなの声が聞こえているのかいないのか、小さな手をひらひらと動かした。
千はその手に自分の指をそっと近づけた。
すると、いとの指が、頼りない力で千の指を握った。
「……あ」
千の顔から、からかいへの抗議が消えた。
その小さな手を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
咲も、妹の横顔を静かに見ていた。
「かわいいね」
ようやく千が言うと、咲は目を細めた。
「うん。かわいいよ」
*
夕餉のあと、千は持ってきた包みを広げた。
中から出てきたのは、何枚もの絵だった。
橋のたもとに並ぶ店。川を行き交う船。山の間を抜ける細い道。旅籠の軒先で雨宿りをする人々。見知らぬ土地の市で、籠いっぱいの野菜を売る女。
一枚一枚に、千が歩いてきた道の匂いが残っているようだった。
「これはどこだい?」
喜助が一枚を手に取る。
「ここは、東のほうで泊まった町。朝になると、川沿いに荷を運ぶ人がたくさん通るの。向こうに見える橋はね、思っていたよりずっと大きくて……」
千は絵の端を指でなぞりながら話した。
新吉も隣から身を乗り出す。
「この店の並びは、千が描いたものに、私が見た様子を少し足したんです。実際はもっと人が多くて、荷車が通るたびに道の端へ寄らなければならないほどでした」
「へえ。二人で描いたのかい」
おきぬが尋ねる。
「そう。私が見たものを描いて、新吉が気づいたことを教えてくれるの。反対のこともあるよ。新吉が話してくれたものを、私が描くこともあるし」
「一人で旅をするのとは、また違うんだねえ」
咲が、いとを抱いたまま絵を覗き込んだ。
「うん。道に迷っても、一緒に考えられるしね」
「千が道を間違えたときも?」
「新吉!」
また笑い声が起きた。
新吉は悪びれもせず、千の前に置かれた絵を一枚持ち上げた。
「けれど、あの道を間違えたおかげで、この景色を見つけたんですよ」
そこには、夕暮れの田の向こうに、低い山並みが描かれていた。
空の端には、細く残った茜色。道ばたには、帰り支度をする農夫の姿がある。
喜助は絵を受け取り、しばらく黙って眺めた。
「……いい景色だな」
「でしょう?」
千が嬉しそうに頷いた。
「そのときは、早く宿に着きたいと思っていたんだけどね。夕日がきれいで、二人でしばらく眺めていたの」
「そういう日もあるさ」
喜助は絵をそっと戻した。
「急ぐばかりじゃ、見えないものもある」
千は父の言葉に頷き、絵を一枚ずつ並べ直した。
やがて、次一が宿帳を持ってきた。
「千、この一年のことも、ここに残しておいたらどうだ?」
宿帳には、喜助が描いた旅人の顔があり、おきぬの筆で書かれた短い言葉がある。咲の絵も、千が描いた関宿の道や店の地図も、そこに重なっていた。
千は帳面を受け取り、しばらく紙の匂いを嗅ぐように顔を近づけた。
「うん。描きたいものが、たくさんあるよ」
「また、帳面が賑やかになるねえ」
おきぬが言うと、喜助も小さく笑った。
千は新吉と顔を見合わせた。
「ねえ、新吉。京都の絵も、ここに描こうね」
「そうですね。今度は、私が仕入れに行く店も描いてもらいましょうか」
「もちろん。どんな店なのか、ちゃんと見てくるから」
その言葉に、次一が顔を上げた。
「京都へ行くのか?」
「はい。今度は、私が一人で仕入れを任されることになりました」
新吉はそう答えた。
これまでは父について歩き、商いのやり方を覚えてきた。けれど今度は、自分で本を選び、値を確かめ、仕入れをまとめる。旅の道も、商いの段取りも、自分の判断で進めなければならない。
「初めての独り立ちです」
そう言いながらも、新吉の声には、気負いすぎたところがなかった。
「それで、千も一緒に行くのかい」
おきぬに聞かれ、千は当然のように答えた。
「うん。一緒に行くよ。京都はまだ、ちゃんと見たことがないもの」
「私も、千が一緒なら心強いです」
新吉が言った。
「それに、千が描いてくれたら、私が見落としたものにも気づけるでしょう」
「任せて」
千は胸を張った。
咲は二人を見ながら、いとの背をそっと撫でた。
「二人とも、いい顔になったね」
「そう?」
「うん。旅に出る前より、ずっと」
千は少し照れたように笑い、新吉のほうを見た。
新吉も、何も言わずに笑い返した。
その様子を、喜助は宿帳を閉じながら眺めていた。
娘が一人、家を出ていった。
けれど、こうして帰ってきた。
今度は夫と二人で、新しい道へ向かおうとしている。
宿の中では、夕餉の片づけをする音がしていた。廊下の向こうでは、いとが小さく声を上げ、咲があやす声が聞こえる。
千は旅の絵を丁寧に包み直した。
明日は、また出発だ。
*
翌朝。
軒先には、朝の冷たい空気が残っていた。
新吉は荷を背負い、千は絵を入れた包みを肩に掛けている。二人で道具を確かめ、草履の紐を結び直した。
おきぬが握り飯ならぬ、いつものいなり寿司を包んで持ってきた。
「ほら、道中で食べな。お腹が空いたまま歩くんじゃないよ」
「ありがとう、おっかぁ」
千は受け取って、包みを大切に荷の中へしまった。
喜助は門口に立ち、二人を見ていた。
「京都へ行くんだったな」
「はい。まずは仕入れ先を回って、本を選んできます」
新吉が答える。
喜助は、街道の先へ目を向けた。
「このごろは、京のほうも物騒な話が聞こえてくる。誰が何を企んでいるのか、何を信じればいいのか、わからんことも多い」
いつもの穏やかな声だったが、言葉の終わりには、わずかな重みがあった。
「噂を聞いても、すぐに信じるな。知らない者の言葉に乗せられるな。人の多いところでは荷にも気をつけろ。商いも大事だが、何より二人とも無事に帰ってくることだ」
「はい」
新吉が、まっすぐに頷いた。
千も父の前へ一歩進み、頭を下げる。
「気をつけるよ、おっとう」
「千。お前もだぞ」
「わかってるって」
「その返事が一番心配なんだ」
「もう、おっとうまで!」
千が頬を膨らませると、おきぬが横から笑った。
「ほらほら、二人とも。道中で喧嘩するんじゃないよ」
「喧嘩なんてしないよ」
「そうですね。千は道を間違えたときくらいです」
「新吉!」
新吉は笑いながら、千の荷がずれているのを直してやった。
千も、彼の肩に掛かった紐を引き上げる。
慣れた手つきだった。
「じゃあ、行ってくるね」
千が言った。
「行ってまいります」
新吉も頭を下げた。
喜助とおきぬ、咲と次一が、門口に並んで二人を見送った。
千は何度か振り返り、そのたびに手を振った。新吉は隣で歩調を合わせている。
やがて二人の姿は、朝の街道を行く人々の中へ紛れていった。
喜助は、しばらくその先を見つめていた。
「……また、絵が増えるねえ」
おきぬが隣で言った。
「ああ」
喜助は頷いた。
「どんな京を描いてくるだろうな」
街道の向こうから、荷を積んだ馬の鈴が聞こえてきた。
宿の朝は、いつもどおりに始まっている。
けれど、千が旅先で見た景色は、やがてこの宿帳に加わるだろう。
そしていつか、ここを訪れた誰かが、その絵を覗き込みながら、自分の旅の話をするのかもしれなかった。




