第二十一話 宿帳の絵
朝の光が、帳場の障子から細く差し込んでいた。
喜助は宿帳を開いていた。
昨夜泊まった旅人の名を書き、その横に、いつものように顔を描いている。
少し眠そうな目。
口元に残る笑い皺。
旅の途中で日に焼けた頬。
喜助は筆を止め、しばらく眺めた。
「父ちゃん」
振り向くと、咲が立っていた。
「なんだ?」
「私も描いていい?」
「何を?」
「旅人さんの顔」
喜助は宿帳を見る。
「これか?」
「うん」
咲は帳場の脇に座った。
「私、父ちゃんより上手でしょ?」
「……」
喜助が咲を見る。
「言うようになったな」
「だって、本当だもの」
おきぬが台所から顔を出した。
「何を言ってるんだい?」
「おっかさん、聞いてよ」
咲が振り向く。
「私、父ちゃんより絵が上手なんだよ」
「まあ」
おきぬが笑う。
「そうかい」
「そうでしょ?」
「どうだろうねえ」
「おっかさんまで」
咲が頬を膨らませる。
喜助は黙って筆を置いた。
「じゃあ、描いてみるか」
「いいの?」
「ああ」
宿帳を咲の前へずらす。
「ただし、旅人さんに見せるんだからな」
「わかってる」
「笑われても泣くなよ」
「泣かないよ」
咲は筆を持った。
小さな手で、ゆっくりと紙の上を動かす。
目を描く。
鼻を描く。
口を描く。
ときどき、顔を上げて思い出す。
「……ここ、もう少しだったかな」
「何が?」
「目」
咲は真剣だった。
おきぬが、その様子を見ながら笑っている。
「咲」
「なに?」
「朝の支度も手伝っておくれよ」
「あっ」
咲が顔を上げる。
「おいなりさん?」
「そう」
「それもやる!」
「絵だけじゃないんだね」
「うん」
咲は筆を置いた。
「私、おいなりさんも作れるよ」
「じゃあ、手を洗っておいで」
「はーい」
咲が走っていく。
喜助は、その後ろ姿を見送った。
「元気だねえ」
おきぬが言う。
「ああ」
「もう、宿の仕事をやりたくて仕方ないみたいだね」
「まだ早いだろ」
「そうかい?」
「宿の仕事は遊びじゃない」
「分かってるよ」
おきぬは笑った。
「でも、あの子はちゃんと見てるよ」
喜助は答えなかった。
宿帳を見る。
そこには、咲が描いた旅人の顔があった。
目は少し大きい。
鼻も少し曲がっている。
口元は、本人よりずっと笑っている。
「……俺より上手いか?」
喜助が呟いた。
「聞こえてるよ」
おきぬが笑う。
「負け惜しみかい?」
「違う」
「そうかねえ」
そのとき、表から声がした。
「おはようございます」
昨夜の旅人だった。
喜助が顔を上げる。
「おはようございます」
旅人が帳場へ来る。
その目が宿帳に止まった。
「おや?」
「これですか?」
咲が戻ってきた。
「私が描いたんです」
「へえ」
旅人は絵を覗き込む。
「これは……俺ですか?」
「そうです」
「似てるなあ」
旅人が笑った。
咲も嬉しそうに笑う。
「本当?」
「ええ。目元なんか、そっくりですよ」
喜助が横から口を挟む。
「本人がそう言ってるだけだ」
「父ちゃん!」
旅人が笑った。
「いやいや、いい絵ですよ」
旅人は宿帳をもう一度見る。
「こういうのを残してくれる宿は、珍しいですね」
「父ちゃんがずっと描いてるんです」
咲が言った。
「へえ。では、これからはお嬢さんが描いてくれるんですか?」
「うん!」
咲は胸を張った。
「おいなりさんも作ります」
「それは楽しみだ」
旅人は笑った。
「じゃあ、また関を通ったら寄らせてもらいますよ」
「待ってます!」
旅人が出ていく。
戸が閉まる。
咲は宿帳を見つめた。
「父ちゃん」
「なんだ?」
「次の人も描いていい?」
「……まあな」
「やった!」
咲は嬉しそうに笑った。
おきぬがその横で、静かに笑っていた。
宿帳には、また一人の旅人の顔が残った。
その隣に、小さな筆跡がひとつ増えた。
まだ父親には敵わない。
けれど。
いつか、この宿帳を開くのは。
咲なのかもしれなかった。




