第十九話 便り
清吉が坂下へ婿入りしてから、しばらく経った頃。
昼を少し過ぎた頃、一人の旅人が宿へ入ってきた。
「ごめんください」
「はい、ただいま」
おきぬが帳場から顔を出す。
「お一人ですか?」
「ええ。今夜、泊めてもらえますか」
「もちろんですよ」
旅人の荷物を受け取り、部屋へ案内する。
夕餉の支度をしていると、その旅人がふと思い出したように声をかけた。
「おかみさん」
「はい?」
「こちらのおいなりさんが美味しいと聞きましてね」
「まあ」
おきぬは笑った。
「どこでそんな話を?」
「坂下で宿を取ったんですがね」
その言葉に、おきぬの手が止まった。
「坂下?」
「ええ。そこの若い旦那さんに、関へ行くなら、いい旅籠があるって教えてもらいまして」
「……若い旦那さん?」
「清吉さん、とおっしゃいましたが」
おきぬの顔が、ぱっと明るくなった。
「まあ!」
その声を聞いて、奥から咲が顔を出した。
「どうしたの?」
「清吉の話だよ」
「清吉?」
千もやって来る。
旅人が笑った。
「ご存じの方でしたか」
「ええ。うちで長いこと働いてくれていたんですよ」
「そうでしたか」
旅人は懐から一通の封書を取り出した。
「それでね」
「はい」
「これを預かってきました」
おきぬは、差し出された手紙を見つめた。
封には、見慣れた字で、
**喜助さん
おきぬさん**
とだけ書かれている。
「……清吉だ」
咲が言った。
「清吉の字?」
「そうだよ」
おきぬは手紙を受け取った。
「ありがとうございます」
「いえいえ。坂下で、こちらへ行くと言ったら頼まれましてね」
「わざわざ、ありがとうございます」
「こちらこそ。おいなりさんの話を聞いて、楽しみにして来たんです」
旅人は笑った。
「清吉さんも、よく働いていましたよ」
「そうでしょう」
おきぬは嬉しそうに笑った。
「昔から、働き者でしたからねえ」
旅人が部屋へ向かったあと、おきぬは手紙を大切そうに両手で持った。
「旦那さん」
「なんだ?」
「清吉からだよ」
「そうか」
喜助が帳場へやってくる。
咲と千も、いつの間にか二人のそばに座っていた。
「開けようかね」
「ああ」
おきぬが封を開く。
中には、何枚かに折った紙が入っていた。
喜助が受け取る。
「俺が読むか」
「お願い」
喜助は紙を広げた。
そして、読み始めた。
――喜助さん、おきぬさん。
坂下の旅籠で、元気にやっています。
こちらの仕事にも、ようやく慣れてきました。
毎日忙しくしていますが、女房も元気です。
喜助の声が、少し柔らかくなる。
――関を離れてから、もうしばらく経ちました。
最初は、何をしても落ち着きませんでした。
朝になれば、旦那さんの宿の戸を開ける音が聞こえるような気がして、夕方になると、おかみさんが飯の支度をしている姿を思い出しました。
おきぬが小さく笑った。
「まあ……」
喜助はそのまま読み続ける。
――それでも、少しずつ、この宿での暮らしにも慣れてきました。
そして。
子供が生まれました。
男の子です。
「まあ!」
おきぬが声を上げる。
「男の子?」
咲も目を丸くする。
「清吉に赤ん坊が?」
「そうだよ」
千が嬉しそうに笑った。
「赤ちゃん?」
「そう」
喜助は続きを読む。
――初めて抱いたときは、こんなに小さなものを、自分が守っていくのかと思いました。
嬉しいのに、少し怖くもあります。
俺に父親が務まるのかと思うこともあります。
でも。
――俺も、旦那さんのような父になりたいと思っています。
喜助の声が、そこで止まった。
静かな帳場に、街道を行く馬の音だけが聞こえる。
おきぬは、黙って喜助を見た。
喜助は少し照れたように笑って、続きを読んだ。
――それから、おかみさん。
疲れたときには、おかみさんの笑った顔を思い出します。
そうすると、もうひと働きしようと思えます。
いつも忙しい宿の中で、笑っているおかみさんを見ていると、俺も頑張らなきゃと思っていました。
あの頃は、そんなことを口にするのが照れくさくて言えませんでしたけど。
おきぬは、黙ったまま手元を見た。
目元を指でそっと拭う。
「……もう、あの子ったら」
喜助が少し笑う。
「何だ」
「こんなこと、手紙に書くんじゃないよ」
「嬉しいくせに」
「嬉しいよ」
おきぬは笑った。
「嬉しいに決まってるじゃないか」
喜助は、また手紙に目を落とした。
――いつか関へ行くことがあれば、また宿へ寄ります。
そのときは、俺の子も連れていきます。
その子にも、あの宿のおいなりさんを食べさせてやりたいと思っています。
清吉。
最後の一文字を読み終えると、喜助は静かに紙を折った。
誰も、しばらく口を開かなかった。
やがて、咲が言った。
「清吉、お父さんになったんだね」
「そうだねえ」
おきぬが答える。
「ちゃんと、お父さんになったんだよ」
千が首を傾げた。
「男の子、どんな子かな」
「まだ生まれたばかりだからねえ」
「いつ来る?」
「いつか、連れてくるって書いてあったよ」
「じゃあ、おいなりさん作らなきゃ」
おきぬが笑った。
「そうだね」
その日の夕方。
旅人の夕餉を用意する。
飯を炊き、汁を作り、膳を整える。
そして最後に、おいなりさんを包む。
今日も泊まった客、皆の分だ。
「清吉も、向こうでこうやって作ってるのかねえ」
おきぬが言った。
「たぶんな」
喜助が答える。
坂下の宿でも。
こちらの宿でも。
街道を行く旅人のために、同じように飯を炊いている。
それを思うと、不思議と胸が温かくなった。
夜。
客たちが寝静まったあと、喜助は帳場に座った。
目の前には、今日届いた手紙。
その隣には、古い宿帳。
喜助はページをめくった。
そこに、清吉の名がある。
あの日、旅人として泊まった若者の名前。
何年ものあいだ、この宿で働いた若者の名前。
そして今は、坂下の宿で父親になった男の名前。
喜助はしばらくその名を眺めていた。
やがて筆を取り、名前の横に小さく書き足した。
――坂下にて、元気に暮らす。
それだけだった。
筆を置く。
喜助は、静かに宿帳を閉じた。
街道の向こうには、坂下がある。
そこにも、ひとつの宿がある。
今日もきっと、旅人を迎えている。
そしていつか。
清吉が息子を連れて、この宿の戸を開ける日が来るのだろう。
その日には、きっと。
おいなりさんを、少し多めに作っておこう。




