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宿帳  作者: 灯野 しおん
第一章 喜助とおきぬ

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第十八話 婿入り

  その日は、宿を休みにした。


 表戸には、客を取らないことを知らせる札を掛けた。


 いつもなら朝から旅人の声が聞こえる頃なのに、宿の中は静かだった。


 喜助は戸締まりを確かめ、おきぬは朝から何度も座敷と台所を行き来していた。


 今日は、清吉の婿入りの日だった。


「おかみさん」


 部屋の中から清吉の声がした。


「なんだい?」


「これで大丈夫でしょうか」


 おきぬが振り返る。


 そこに立っていた清吉を見て、少しだけ言葉を失った。


 紋付袴。


 いつもの着物姿とは違う。


 背筋を伸ばして立つ姿は、もう奉公に来たばかりの少年には見えなかった。


「ちょっと、こっちへおいで」


「はい」


 清吉が近づく。


 おきぬは襟元に手を伸ばした。


「ここ、少し曲がってるよ」


「すみません」


「謝ることじゃないよ」


 指先で襟を整える。


 右を直し、左を直す。


「動くんじゃないよ」


「はい」


「ほら、じっとして」


「はい」


 清吉は言われるままに立っていた。


 おきぬの指が、白い襟をゆっくり整えていく。


「……立派になったねえ」


「そうですか?」


「そうだよ」


 清吉が少し笑った。


「おかみさんにそう言ってもらえると、嬉しいです」


「何言ってるんだい」


 おきぬも笑った。


「ずっと見てきたんだからね」


 ふと、初めて清吉がこの宿へ泊まった日のことを思い出す。


 まだ若く、次の奉公先を探していた少年。


 それがいつの間にか、この宿になくてはならない若者になった。


「……覚えてるかい?」


「何をです?」


「初めてうちに泊まった日のこと」


「もちろん覚えています」


「そうかい」


「あのとき、おかみさんが飯を出してくれたでしょう」


「そんなことまで覚えてるのかい」


「腹が減ってましたから」


 二人で笑った。


 その声を聞いて、咲が顔を出した。


「もういい?」


「まだだよ」


「きれいなのに」


「咲は何でも早いんだよ」


 咲の後ろから、千も顔を出す。


「清吉、変」


「変?」


「いつもと違う」


「今日は婿さんだからね」


 おきぬが言う。


「婿さん?」


 千は首を傾げた。


「清吉は、今日からあっちの宿の人になるんだよ」


「じゃあ、ここにいないの?」


 千の顔が曇る。


 清吉がしゃがんだ。


「千」


「なに?」


「ちゃんと遊びに来るからな」


「ほんと?」


「ああ」


「約束?」


「約束だ」


 千はようやく笑った。


 やがて喜助が声をかけた。


「そろそろ行くぞ」


「はい」


 清吉が立ち上がる。


 おきぬは、もう一度その襟元を見た。


「うん。大丈夫」


 喜助が荷物を持つ。


 咲も一緒に出る。


 千は留守番だ。


「じゃあ、行ってくるね」


「行ってらっしゃい」


 千が小さく手を振った。


     *


 坂下へ着いた頃には、昼を過ぎていた。


 宿の前には、向こうの家族が待っていた。


 主人と女主人。


 そして、清吉がこれから夫婦になる娘。


 清吉は少し緊張した顔で立っている。


 喜助が一歩前へ出た。


「今日は、清吉を連れてまいりました」


「ありがとうございます」


 向こうの主人も頭を下げる。


「こちらこそ、遠いところをありがとうございます」


 喜助は一度、清吉を見た。


 それから、静かに言った。


「こいつは、長いことうちで働いてくれました」


 少し間を置く。


「もう、奉公人というより……息子のようなものです」


 おきぬが隣で小さく頷いた。


 そして二人で頭を下げた。


「どうか、清吉をよろしくお願いします」


「こちらこそ」


 向こうの主人も深く頭を下げた。


「大切にします」


 その言葉を聞いて、清吉が少し俯いた。


 娘が隣に立つ。


「これから、よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 清吉も頭を下げた。


 まだ少しぎこちない。


 それでも、二人とも笑っていた。


 その日の夕方から、祝いの膳が並んだ。


 酒が出る。


 煮物が出る。


 焼いた魚が出る。


 いつも旅人に出している料理とは、少し違う。


 今日は清吉のための膳だった。


 喜助は酒を一口飲んで、


「向こうでも、よく働けよ」


と言った。


「はい」


「ただな」


「はい」


「働きすぎるな」


 清吉が笑う。


「旦那さんに言われるとは思いませんでした」


「お前は働きすぎるからな」


 おきぬも笑った。


「ほんとだよ」


 皆で笑った。


 やがて夜が更けていった。


     *


 祝いの席が終わったあと。


 宿の中が静かになった。


 おきぬは、なかなか眠れずにいた。


 部屋を出る。


 廊下の先に、清吉がいた。


「眠れないのかい?」


「……おかみさんも?」


「そうみたいだね」


 二人で並んで座った。


 外では、夜の街道を歩く人の足音がする。


「明日になったら」


 清吉が言った。


「本当に、ここで働くんですね」


「そうだよ」


「なんだか、まだ変な感じがします」


「そうだろうねえ」


 おきぬは少し笑った。


「でも、すぐ慣れるよ」


「はい」


 しばらく沈黙が続いた。


「……おかみさん」


「なんだい?」


「今まで、本当にありがとうございました」


「何言ってるんだい」


「俺を拾ってくれたのは、旦那さんとおかみさんです」


「拾った覚えはないよ」


「でも、俺にとってはそうです」


 おきぬは何も言わなかった。


 しばらくして、静かに言う。


「明日からは、ここがお前の家だよ」


 清吉が顔を上げる。


「……はい」


「だから、ちゃんと大事にしな」


「はい」


「それから」


「はい?」


「たまには帰っておいで」


 清吉は笑った。


「はい」


     *


 翌朝。


 朝餉をいただいて、関へ戻る支度をした。


 宿の前で、清吉が見送る。


 おきぬは最後に清吉の顔を見た。


「元気でね」


「はい」


「ちゃんと飯を食べるんだよ」


「はい」


「働きすぎるんじゃないよ」


「はい」


「困ったことがあったら、いつでも帰っておいで」


「……はい」


 清吉の声が少し震えた。


 咲が最後に清吉の袖を引いた。


「清吉」


「ん?」


「いつ帰ってくる?」


「そうだな」


 清吉は少し考えた。


「おいなりさんを作る日にでも帰ろうかな」


「ほんと?」


「ああ」


「じゃあ、帰ってきてね」


「約束だ」


 清吉は笑った。


 やがて、喜助が歩き出した。


 おきぬも続く。


 咲もその隣を歩く。


 少し進んだところで、おきぬが振り返った。


 清吉がまだ立っている。


 その隣には、新しい家族がいる。


 清吉は深く頭を下げた。


 おきぬも、小さく頭を下げた。


 そして、前を向いた。


「……行っちゃったね」


 咲が言った。


「そうだねえ」


「寂しい?」


 おきぬは少し考えた。


「寂しいよ」


「そっか」


「でもね」


 おきぬは笑った。


「坂下に、清吉のいる宿ができたと思えばいいのさ」


 咲は少し考えて、


「うん」


と頷いた。


 街道の先に、坂下の町がある。


 そこには、今日から清吉の新しい暮らしがある。


 関へ戻れば、こちらの宿にも旅人が待っている。


 明日になれば、また戸を開ける。


 旅人を迎える。


 飯を出す。


 おいなりさんを包む。


 いつもの一日が始まる。


 けれど。


 宿から旅立った一人の若者のことを、この家の誰も忘れない。


 そして清吉もまた。


 これから先、旅人を送り出すたびに思い出すだろう。


 自分もまた、ひとつの宿から送り出された旅人だったことを。


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