第十七話 清吉の返事
おきぬと咲が坂下から戻ってきた日の夕方。
清吉は、いつもと変わらず宿の前を掃いていた。
「清吉」
おきぬが声をかける。
「はい」
「ちょっと、いいかい?」
「はい」
清吉は箒を壁に立てかけた。
その顔を見て、おきぬは少し迷った。
話すと決めて帰ってきたのに、いざ本人を前にすると、言葉が出てこない。
「どうしたんです?」
「いや……」
おきぬは苦笑した。
「あんた、今夜ちょっと話があるんだけどね」
「俺に?」
「そう」
清吉は不思議そうな顔をした。
「何か、ありました?」
「悪い話じゃないよ」
そう言ってから、おきぬは少し考えた。
「ただね。あんたのこれからの話だ」
清吉の表情が変わった。
*
夜。
客たちがそれぞれの部屋へ戻ったあと。
帳場には、喜助とおきぬ、そして清吉が座っていた。
千はもう眠っている。
咲は少し離れたところで、何かをしているふりをしながら、こちらを気にしている。
「この前、泊まりに来た本の行商人がいただろう?」
「はい」
「あの人から聞いた話なんだけどね」
おきぬは、坂下の宿のことを話した。
娘がいること。
宿を継いでくれる婿を探していること。
娘も宿の仕事をよく手伝っていること。
おきぬが実際にその宿へ泊まってきたこと。
清吉は、黙って聞いていた。
「……そうですか」
「うん」
おきぬは清吉の顔を見る。
「すぐに返事をしろって話じゃないよ」
喜助も口を開いた。
「お前がどうしたいか、それだけだ」
「俺が……」
「ああ」
清吉は膝の上で手を組んだ。
しばらく、何も言わなかった。
外では、夜の街道を歩く旅人の足音が聞こえている。
一人。
また一人。
やがて、その音も遠ざかっていった。
「……正直に言ってもいいですか」
「ああ」
喜助が頷いた。
「最初に聞いたときは、嫌でした」
おきぬが少し目を伏せる。
「そうかい」
「この宿を離れるのが、嫌だと思いました」
清吉は、ゆっくり言葉を続けた。
「旦那さんも、おかみさんも、俺をずっと置いてくれました」
喜助は黙っている。
「俺が何も知らない頃から、仕事を教えてくれて……」
清吉が笑った。
「咲も千も、俺がいるとすぐ寄ってきますし」
その言葉に、おきぬが少し笑った。
「そうだねえ」
「だから……」
清吉はそこで言葉を止めた。
そして、少しだけ俯いた。
「ここを出るって考えたら、寂しいです」
誰も何も言わなかった。
おきぬも、喜助も。
ただ、清吉の言葉を待った。
「でも……」
しばらくして、清吉が顔を上げた。
「俺も、もういつまでも若い奉公人じゃないんですよね」
「……そうだな」
喜助が静かに答えた。
「実家に戻ったときも、親父もお袋も、何も言いませんでしたけど……」
清吉は少し笑った。
「俺が帰ってきたら、喜んでくれました」
農家の家。
三男として生まれた自分。
兄がいる。
弟もいる。
自分がいなくても、家は続いていく。
それでも。
「母親が、飯を食わせながら言ったんです」
清吉の声が少し柔らかくなる。
「『あんたも、いつか自分の家を持たなきゃね』って」
おきぬが黙って聞いている。
「そのときは、まだ先のことだと思ってました」
清吉は、膝の上の手を見た。
「でも……」
顔を上げる。
「今なら、少し分かる気がします」
「何がだい?」
おきぬが尋ねた。
「親父もお袋も、俺がちゃんと所帯を持って、元気に暮らしてるって分かったら……安心するんじゃないかって」
おきぬの目が、少し潤んだ。
清吉は続けた。
「それに……」
「それに?」
「旦那さんやおかみさんにも」
清吉は二人を見た。
「いつまでも俺の面倒を見てもらうんじゃなくて、俺も自分の家を持って、ちゃんとやってるところを見せたいと思います」
「清吉……」
「だから」
清吉は少し照れたように笑った。
「悩みますけど……」
そして、はっきりと言った。
「所帯を持つことを、考えてみたいです」
おきぬは、何も言えなかった。
嬉しい。
それなのに、胸の奥が寂しい。
喜助がそんなおきぬを見て、静かに言った。
「それじゃあ」
清吉を見る。
「話を進めてみるか?」
清吉は一度、息を吸った。
「……はい」
それから、もう一度。
「その話、進めてもらってもいいでしょうか」
「分かった」
喜助が頷いた。
おきぬも、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、今度また向こうへ話をしに行こうかね」
「お願いします」
その声を聞いて、隣の部屋にいた咲が、そっと顔を出した。
「清吉」
「ん?」
「行っちゃうの?」
清吉は、少し驚いた顔をした。
それから、しゃがんで咲と目を合わせた。
「まだ、何も決まってないよ」
「でも、行くかもしれない?」
「……そうだな」
咲は黙った。
そして、清吉の袖を小さくつまんだ。
「そっか」
それだけ言った。
清吉は、その小さな手を見た。
「咲」
「なに?」
「俺がいなくなっても、遊びに来るからな」
「ほんと?」
「ああ」
「千も?」
「もちろん」
咲は少し考えてから、
「じゃあ、いい」
と言った。
その言葉に、清吉は笑った。
けれど。
その笑顔の奥にも、少しだけ寂しさがあった。
まだ何も決まっていない。
明日も清吉は、いつも通り朝早く起きる。
宿の前を掃く。
客を迎える。
荷物を運ぶ。
そして夜になれば、戸締まりをする。
けれど。
今日からは、その「いつも通り」の向こう側に、別の道が見えていた。
清吉はその夜、なかなか眠れなかった。
自分の家。
所帯。
知らない娘。
知らない宿。
そして、この宿。
いくつものことを考えながら、天井を見つめていた。
やがて、外から風が吹いた。
障子が、かすかに鳴った。
清吉は目を閉じた。
まだ決まっていない。
けれど。
自分で一歩、進むことを決めた夜だった。




