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宿帳  作者: 灯野 しおん
第一章 喜助とおきぬ

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第十六話 坂下の宿

 あの行商人が帰ってからも、おきぬの頭には、あの話が残っていた。


 坂下の宿。


 娘の婿を探している宿。


 清吉なら、あの宿でも働けるだろう。


 そう思うと、気になって仕方がない。


「ねえ、あんた」


 昼餉の片付けを終えたおきぬが、帳場の喜助に声をかけた。


「なんだ?」


「ちょっと、坂下まで行ってこようかと思ってね」


 喜助が顔を上げた。


「坂下?」


「この前の宿さ」


「……やっぱり気になってるんだな」


「そりゃあねえ」


 おきぬは笑った。


「別に、縁談をまとめに行くんじゃないよ。どんな宿なのか、見てみたいだけさ」


「そうか」


「ちょうど仕入れの用もあるしね」


 喜助は少し考えた。


「じゃあ、行ってくればいい」


「咲を連れていくよ」


「ああ」


 喜助は千を見た。


 千は、宿の奥で遊んでいる。


「千は俺と留守番だな」


「そうしておくれ」


 おきぬは咲を呼んだ。


「咲、ちょっとおっかあと出かけるよ」


「どこへ?」


「坂下」


「坂下?」


「そう。泊まってくるからね」


「泊まるの?」


「たまにはいいだろ」


 咲は嬉しそうに笑った。


「うん!」


 その横で、千が顔を上げた。


「私も?」


「千はおとうちゃんとお留守番」


「ええ……」


「お土産、買ってくるよ」


「ほんと?」


「ほんと」


 それでようやく、千も頷いた。


     *


 坂下までの道を、二人で歩いた。


 咲は久しぶりの遠出が嬉しいらしく、道端の草花を見つけるたびに立ち止まった。


「おっかあ、あれ何?」


「知らないよ。帰ったら喜助に聞いてごらん」


「おとうちゃん、知ってるかな」


「さあねえ」


 そんなことを話しながら歩く。


 やがて、坂下宿の町並みが見えてきた。


 旅人の姿が多い。


 馬を引く者。


 荷を担ぐ者。


 宿の前で客を迎える者。


 関とはまた違った賑わいがある。


「おっかあ」


 咲が言った。


「宿がいっぱいあるね」


「そうだねえ」


 おきぬは町を眺めながら歩いた。


 旅籠の軒先。


 帳場。


 働く人の動き。


 客の声。


 どこも似ている。


 けれど、同じではない。


「ここだね」


 おきぬが足を止めた。


 二人は、旅人の顔をして宿へ入った。


     *


「まあ、関からですか」


 女主人が笑顔で迎えてくれた。


「ええ。今日は客としてね」


「どうぞどうぞ。お疲れでしょう」


 通された部屋からは、街道が見えた。


 咲は窓際に座って、行き交う人を眺めている。


「おっかあ」


「なんだい?」


「ここも、うちと同じだね」


「そうだねえ」


「でも、ちょっと違う」


「そうだね」


 おきぬは笑った。


 夕餉の頃になると、宿の中はさらに忙しくなった。


 娘が膳を運び、女主人が客の様子を見て回る。


 おきぬは、何気ない顔をして、それを眺めていた。


 娘はよく働いていた。


 客に声をかけるときも、押しつけがましくない。


 膳を置く手つきも慣れている。


 母親とのやり取りにも、長年一緒に働いてきた者同士の息が合っていた。


 食事を終えた頃、女主人が向かいに座った。


「娘がねえ、ずっとこの宿を手伝ってくれてるんですよ」


「そうなんですか」


「もう、いい歳なんですけどね」


 女主人は少し困ったように笑った。


「そろそろ婿を探さないとと思ってるんです」


 おきぬの手が止まった。


「……婿さんを?」


「ええ」


 女主人は頷いた。


「うちは宿ですからね。できれば、この仕事を一緒にやってくれる人が来てくれたらと思って」


「なるほどねえ」


 おきぬは何でもない顔で頷いた。


「宿を継いでもらうなら、仕事を分かってくれる人がいいでしょうね」


「そうなんですよ」


 女主人がため息をつく。


「働くのが嫌いじゃなくて、旅人を相手にすることを苦にしない人。そんな人がいたらいいんですけどね」


 そのとき、娘が空いた膳を下げに来た。


「お母さん、これはこちらでいい?」


「ああ。ありがとう」


 娘は、おきぬたちに軽く頭を下げた。


「ごゆっくりしてくださいね」


 そして、また忙しそうに戻っていった。


 おきぬは、その背中を見送った。


 ――清吉なら。


 そう思った。


 この宿なら、きっとやっていける。


 宿の仕事も分かっている。


 朝から晩まで働くことも苦にしない。


 人と話すのも上手だ。


 何より、あの子は人のために動ける。


 ここに来れば、きっと大切にしてもらえる。


 そう思った。


 けれど。


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 清吉が、この宿にいる姿を想像してしまった。


 朝早く起きて、水を汲む。


 宿の前を掃く。


 客の荷物を運ぶ。


 咲や千に呼ばれれば、仕事の手を止めて相手をする。


 夜になれば、最後に戸締まりを確かめる。


 そんな姿が、もう何年も当たり前のようにそこにある。


 いなくなったら。


 宿は回る。


 自分も喜助も、きっとやっていける。


 それでも――。


「おっかあ」


 隣から声がした。


「……ん?」


 咲が、おきぬを見ていた。


「どうしたんだい?」


「ううん」


 咲は少し考えてから、おきぬの手を握った。


「何だい?」


「なんでもない」


 そう言ったけれど、咲は手を離さなかった。


     *


 翌朝。


 二人は関へ戻る道を歩いていた。


 しばらく黙って歩いたあと、咲が口を開いた。


「おっかあ」


「なんだい?」


「清吉、あの宿に行くの?」


 おきぬの足が、ほんの少し止まった。


「……どうしてそう思うんだい?」


「昨日、おっかあがずっとあの宿を見てたから」


「そうかい」


「清吉がいなくなったら、困る?」


 おきぬは、少し笑った。


「困るよ」


「やっぱり」


「でもね」


 おきぬは、咲の手を握った。


「清吉が、自分で行きたいって言ったら……」


 そこで一度、言葉を切った。


「行かせてあげたいね」


「寂しい?」


「そりゃあ、寂しいよ」


 おきぬは笑った。


「ずっと一緒に働いてきたんだから」


 咲は黙って歩いた。


 少ししてから、また聞いた。


「じゃあ、清吉が行きたいって言ったら?」


「うん」


「おっかあ、泣く?」


「……さあねえ」


 おきぬは空を見上げた。


「泣くかもしれないね」


 咲は、おきぬの手をぎゅっと握った。


「じゃあ、私がいるよ」


「……何だい、それ」


「おっかあが寂しいとき、私がいる」


 おきぬは何も言えなかった。


 ただ、握られた小さな手を、握り返した。


「そうだね」


 やがて、静かに笑った。


「ありがとう」


 関の町が、少しずつ近づいてくる。


 まだ、何も決まっていない。


 清吉は、この話を知らない。


 あの宿の娘も知らない。


 それでも、おきぬの胸には、一つの思いが残っていた。


 ――この子が幸せになるなら。


 そのときは、送り出してやらなければならない。


 たとえ、自分が寂しくても。


 おきぬは隣を歩く咲を見た。


 いつの間に、こんなことを考えられるようになったのだろう。


 少し前まで、清吉の後ろを追いかけていた小さな娘だった。


 人は、いつの間にか大きくなる。


 そして、いつか旅立っていく。


 そのことを、おきぬは初めて、少しだけ寂しく思った。


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