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宿帳  作者: 灯野 しおん
第一章 喜助とおきぬ

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第十五話 所帯

 それから、いくつかの季節が過ぎた。


 清吉は二十四になっていた。


 背も伸び、肩幅も広くなった。


 朝は誰より早く起きて水を汲み、宿の前を掃く。


 客が来れば荷を受け取り、帰る客があれば草履を揃える。


 重い荷物を持った旅人には自然に手を貸し、足の悪い年寄りがいれば、何も言わずに階段を支える。


 もう、宿の仕事を知らない者はいない。


「清吉、裏の薪を頼むよ」


「あいよ」


「清吉、こちらのお客さんにお茶を」


「はい」


「清吉、咲が――」


「またどこかへ行ったか?」


「そう!」


 おきぬの声に、清吉が笑う。


 宿の中を、清吉はよく動いた。


 その日の昼。


 泊まりの客に、本を商う男がいた。


 背負子に本を積み、街道を歩いて商いをしているらしい。


 夕餉のあと、男は茶をすすりながら、ふと清吉を見た。


「おかみさん」


「はい?」


「あの若い衆は、こちらで長いのかい?」


 おきぬが清吉を見る。


「もう、ずいぶんになりますよ」


「そうかい」


 男は感心したように頷いた。


「よく働くねえ」


「そうでしょう?」


 おきぬは、少し嬉しそうだった。


「朝から晩まで、よく動いてくれます」


 喜助が横から言う。


「助かってるよ」


「なるほどねえ」


 本の行商人は、また清吉を見た。


 ちょうど清吉は、別の客の膳を下げているところだった。


「……あれなら、所帯を持たせてもいい頃じゃないかい?」


「え?」


 おきぬが顔を上げた。


 喜助も手を止める。


「所帯?」


「そうさ」


 男は何でもないことのように言った。


「二十四くらいだろう? あれだけ働けるなら、嫁さんをもらっても困らんだろう」


「まあ……」


 おきぬの目が少し輝いた。


 喜助は黙って清吉の背中を見た。


「実はね」


 行商人が声を落とした。


「ひとつ前の宿場町に、宿をやってる家があるんだ」


「へえ」


「そこの娘さんがね。器量のいい娘さんだったよ」


 おきぬが身を乗り出した。


「器量良し?」


「ああ。働き者でもあるそうだ」


「それはいいねえ」


「おい」


 喜助が苦笑する。


「まだ何も決まってないぞ」


「分かってるよ」


 おきぬも笑った。


 けれど、目は楽しそうだった。


「ただ、話を聞くくらいならいいじゃないか」


「そうだな」


 行商人は茶を飲み干した。


「宿同士なら、話も合うだろう。旅人を相手にする仕事だ。嫁いだって、仕事を知らないわけじゃない」


「なるほどねえ」


 おきぬが頷く。


「どんな娘さんなんだい?」


「そうだなあ」


 男は少し考えた。


「俺が見たときゃ、朝から帳場に座ってたよ。客の名前を聞いて、飯の数を数えて、母親と一緒に宿の切り盛りをしてた」


 それを聞いて、おきぬが笑った。


「うちと同じじゃないか」


「だから、いいと思ったんだよ」


 男も笑った。


 そのとき。


「……あの」


 後ろから声がした。


 三人が振り返る。


 清吉が立っていた。


 手には、空になった膳がいくつも重なっている。


「なんでしょう?」


 おきぬが、にこりと笑った。


「聞いてたのかい?」


「……少し」


 清吉の耳が赤い。


「そうかい」


「……所帯って」


「ああ」


 おきぬは平然と答えた。


「嫁さんの話だよ」


「……」


 清吉は、ますます赤くなった。


 行商人が声を上げて笑う。


「まだ早かったかな?」


「いえ……」


 清吉は困ったように笑った。


「そういう話をされたことがなくて」


「そりゃ、そうだろうなあ」


 喜助が言った。


「お前は仕事ばかりしてるからな」


「……そうでしょうか」


「そうだよ」


 おきぬが笑った。


「朝は掃除、昼は客の世話、夜は戸締まり。咲や千の面倒まで見てるじゃないか」


「二人とも、もう大きくなりましたよ」


「それでも、あんたが来ると喜ぶだろ」


 清吉は少しだけ笑った。


「……まあ」


 行商人が茶碗を置く。


「まあ、すぐ決めろって話じゃないさ」


「はい」


「ただね」


 男は清吉を見て言った。


「働き者ってのは、どこへ行っても喜ばれるもんだ」


 清吉は黙って頭を下げた。


「ありがとうございます」


 男が帰ったあと。


 おきぬは、台所で夕餉の片付けをしながら、喜助に言った。


「どう思う?」


「何がだ?」


「清吉の嫁さん」


「……本人が決めることだろ」


「そりゃそうだけど」


 おきぬは少し考えた。


「いい人がいたら、所帯を持たせてやりたいじゃないか」


 喜助は、しばらく黙っていた。


 それから、ふっと笑った。


「あいつがここへ来たのは、まだ十七、八の頃だったな」


「そうだったねえ」


「最初は客だった」


「そうそう」


「それが、いつの間にかうちの人間みたいになった」


 おきぬが笑う。


「いつの間にか、じゃないよ」


「ん?」


「あの子が、ここにいたいと思ったからだろ」


 喜助は答えなかった。


 ただ、遠くで清吉が子どもたちと笑っている声が聞こえていた。


 咲も、千も、もう小さな子どもではない。


 それでも清吉がそこにいると、二人は昔と変わらず寄っていく。


 宿の中にいる時間が、いつの間にか家族の時間になっていた。


 その夜。


 喜助は宿帳を開いた。


 何年も前の頁に、目が止まる。


 そこには、まだ幼かった字で――


 ――清吉。


 その下には、


 ――奉公人として、今日より働く。


 と書かれている。


 喜助は、しばらくその文字を見ていた。


 そして頁を閉じた。


 明日も、清吉は朝早く起きるだろう。


 水を汲み、宿の前を掃き、旅人を迎える。


 その先に、どんな道が続いているのか。


 それは、まだ誰にも分からなかった。


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