四 告発、そして消えた男
涼子は、すぐには動かなかった。
自分が誰なのかを確かめる手立てすら失ったまま、人を告発できるものではない。彼女は三宅に命じて、鷹宮財団の帳簿を取り寄せさせた。会長の権限であれば、誰も拒めなかった。
帳簿を読み切るのに、一週間かかった。財団から大学病院の脳外科研究室へ、五年間で十二億円。使途の欄にはどれも「基礎研究費」とあるだけで、領収の裏づけは、ほとんど残っていなかった。金の流れの先には、雅也圭吾の名があった。
次に、涼子は雅也本人に会った。回診に来た彼に、浅野涼子という名を、何気なく口にしてみたのである。
雅也は、表情ひとつ変えなかった。
「どなたのお名前でしょう。お疲れで、混乱しておられるのかもしれませんね」
そう言って、やさしく微笑んだ。その微笑みの冷たさに、涼子は確信した。
それでも、彼女は三日ほど迷った。浅野涼子として訴え出れば、鷹宮玲子という地位を失う。会社も、屋敷も、名前も。だが、失うものを数えるたびに、夢のなかの灰色の背中が、こちらを振り返った。
四日目の朝、涼子は秘書の三宅に命じて弁護士の久世を呼び、新聞記者の水無瀬を屋敷に招き、検察庁へも出向いた。帳簿と、病院の記録と、彼女自身の証言。誰もが神妙な顔で話を聞き、メモを取り、深く頷いた。不思議なほど、抵抗がなかった。
数日のうちに、世間は騒然となった。違法な人体実験。身寄りのない者を使った記憶の書き換え。大学病院の闇。
警察が動いた。指揮を執ったのは、警部補の日高だった。だが、令状を持った捜査員が研究室に入ったとき、そこにはもう雅也圭吾の姿はなかった。研究費の口座は空になっていた。数億円の金とともに、あの物静かな教授は、煙のように消えていたのである。




