三 死者たちの証言
建物を出ると、門の脇の小屋から、老いた守衛が懐中電灯を向けた。堤という名札を胸につけた男は、玲子の顔を見るなり、湯呑みを取り落とした。
「あんた……S-17の……生きて……」
言いかけて、堤は口をつぐんだ。
「明日の昼に来なさい。知っていることを、話そう」
翌日の昼、守衛小屋は閉まっていた。堤は、前夜のうちに、裏山の斜面から転落して亡くなっていた。足を滑らせた事故だと、警察は言った。
玲子は、病院の事務局で長年、研究室の人事記録を預かってきた事務員の岸本を、屋敷に呼んだ。岸本は、怯えた顔で首を振った。
「お話しできません。ですが、記録は残してあります。明日、お持ちします」
翌朝、岸本は、自宅の浴室で倒れているのを発見された。事故死だった。人事記録の保管棚は、空になっていた。
探偵を使って、元研究員の森下の居場所を突き止めたのは、その三日後である。公衆電話の向こうで、森下は早口に言った。
「あの研究室の人間は、みんな消されている。会おう。踏切の前で。夕方に」
約束の夕方、玲子が踏切の向こうから見ていると、遮断機の前に立っていた男が、後ろから誰かに押されたように、線路へ倒れ込んだ。警報機の音が、闇を裂いた。
三人が、一週間のうちに死んだ。偶然であるはずがなかった。確かな証拠は、すべて、死者とともに消えた。
残ったのは、断片だけだった。堤の言いかけた「S-17」。岸本が震える声で口にした「浅野さんの……」。森下の最後の電話にあった「涼子ちゃんは……」。
つなぎ合わせれば、ひとつの名になった。
浅野、涼子。
だが、それが自分の名であると、確かめる者は、もういない。
事故の記録を繋いでみたのは、そのあとである。
事故のことは、玲子にもぼんやりと覚えていた。雨の夜、車が横滑りし、そこで記憶が途切れている。周りの者は「大事故だったが、会長は運がよかった」と言った。
ところが、事故から手術までの三日間が、ぽっかりと空白になっていた。搬送の記録も、診療の記録も、その三日分だけが、どこにも見当たらない。
鷹宮玲子の脳は、本当に助かったのか。助からなかった実業家の記憶を移し替える先が、必要だったのではないか。選ばれたのが、身寄りのない浅野涼子の身体ではなかったか。
仮説は、恐ろしいほど整っていた。整いすぎている、と玲子は思った。
その夜、玲子は鏡の前で髪をかき上げた。耳の下から後頭部にかけて、薄く白い傷痕が走っている。毎朝、通いの看護師が髪を結い上げながら、薬を塗ってくれる傷だった。医師たちは「脳の手術の痕です」と言った。
試しに何も考えず、メモ用紙にペンを走らせてみた。
気がつくと、〈S-17〉と書いていた。夢のなかで見た、あの角ばった小さな字だった。
次に「鷹宮玲子」と署名してみた。何千枚もの書類に書いてきたはずの、流麗な字。だが、どこかよそ行きに見えた。
誰かの字を、上手に真似ている者の字だった。
確証は、死者とともに消えた。ならば、その名を、仮の名として呼ぶしかなかった。その夜から、女は、鏡のなかの他人を、涼子と呼ぶことにした。
その夜、夢は、はじめて女の横顔を見せた。
髪を後ろでまとめた、若い女だった。作業台の上には、小さなケーキがひとつ。ろうそくが、一本だけ立っている。壁のカレンダーの〈4/17〉に、赤い丸がついていた。
――ほら、姫。吹き消して。願いごとは、ひとつだけだぞ。
女が息を吸い込み、ろうそくの炎が揺れたところで、涼子は目を覚ました。
四月十七日。何の日付なのか、どれだけ調べても、手がかりひとつ出てこなかった。




