二 鏡のなかの他人
最初に違和感を覚えたのは、指だった。
洗面所の明かりの下で、玲子は自分の手を見つめた。細く長い指。左手の中指に、小さな硬いたこがある。ペンだこにしては位置が妙だった。何かを長く握り続けた者の、あの癖のついた指だ。
――ピペット。
なぜ、そんな言葉が浮かぶのだろう。実業家として会社を動かしてきた自分は、そんな道具を握ったことはないはずだった。
その夜、夢は少し先へ進んだ。
灰色の服の女は、相変わらず背中を向けている。女は冷凍庫の扉を開け、霜のついた箱に貼られた白いラベルを見る。〈S-17〉。手書きの、角ばった字だった。
そのとき、背後の扉が開き、若い男の声が呼んだ。
――姉さん。親父が、待ってるよ。
女は、振り向かなかった。ただ、ラベルの文字を、指でなぞった。
目が覚めても、その字が瞼の裏に残っていた。銀杏。踏切。S-17。どれも、鷹宮玲子の人生には一度も出てこない言葉のはずだった。
三日目の夢では、女が廊下の突き当たりの扉の前に立った。暗証番号の錠。女の指が、迷いなく四つの数字を叩く。〇、四、一、七。
玲子は跳ね起きた。右手の指先が、闇のなかで、同じ順に動いていた。
朝になって、玲子は秘書に命じた。大学病院の周辺で、窓から銀杏の木が見え、近くに踏切のある古い建物を探してほしい、と。秘書は怪訝な顔をしたが、半日で答えを持ってきた。あまりに早い、と玲子は思った。病院の裏手、私鉄の線路沿いに、いまは使われていない第二研究棟がある。
夕暮れ、玲子はひとりでその建物の前に立った。裏口の扉に、古い暗証錠がついていた。
試すつもりはなかった。指のほうが先に動いた。〇、四、一、七。
錠は、乾いた音を立てて外れた。
廊下には埃の匂いと、かすかな消毒用アルコールの匂いが残っていた。突き当たりの更衣室に、錆びたロッカーが並んでいる。そのひとつに、〈S-17〉の札が下がっていた。扉は、鍵もなく開いた。埃は、不自然なほど薄かった。
中には、色褪せた緑のストラップのついた名札が、ひとつだけ残されていた。写真は剥がれかけ、名前の欄は、刃物で削り取られたように潰れている。読み取れるのは、所属欄の教授の名だけだった。
雅也圭吾。玲子の主治医団を率いる、あの物静かな脳外科教授である。やさしい声の男で、術後、毎朝のように病室へ顔を見せ、「経過は順調です」と微笑んでいた。
玲子は、ロッカーの前に立ち尽くした。ここが自分の場所だったのか。それとも、誰かが仕組んだ悪質な悪戯なのか。判断するには、材料が足りなかった。




