一 眠れぬ夜
眠れなくなって、今夜で十九日になる。
鷹宮玲子は、ベッドの上で身じろぎもせず、天井の暗がりを見つめていた。枕元の時計は午前二時十分を指している。広い寝室には、加湿器の低い音だけがあった。
大学病院の特別病棟を出て、まだ一か月と経っていない。手術は成功だった、と執刀した医師たちは口を揃えた。脳に重い損傷を負った実業家の彼女は、最新の技術によって命を取りとめ、こうして自分の屋敷に戻ってきたのである。
鷹宮玲子は、三十九歳にして、先々代から続く鷹宮グループの会長である。祖父が興した化粧品の小さな会社は、父の急逝で、二十代の玲子が継いだ。それから十余年、不動産と医療機器にまで手を広げ、いまや役員の誰もが、彼女の一言に背筋を伸ばした。大学病院の新棟も、彼女の寄付がなければ建たなかった。脳外科の研究室にいたっては、年間予算の半分近くを「鷹宮財団」が拠出している。
屋敷の使用人たちは、女主人が倒れてからも、変わらず恭しく仕えた。秘書の三宅は、病室にまで決裁書類を運び込み、「会長のご指示がなければ、何も動きません」と頭を下げた。
三か月前の秋の夜、雨の高速道路で、玲子の乗った車は横滑りして壁に激突した。覚えているのは、ワイパーの音と、対向車のライトまでである。気がつくと、白い天井の下にいた。事故の前後の記憶だけが、すっぽりと抜けている。医師は「よくあることです」と言った。
運転手の榊は、その事故で亡くなったと聞かされている。三宅の口からである。長年仕えてくれた男に、玲子はまだ花も手向けていない。
弟の恭一は、グループの専務である。見舞いには来たが、姉の手を握る前に、まず病室の医師の数を数えるような男だった。会長が倒れれば、次の椅子に座るのは自分だ、と周囲はささやいていた。
回診には、雅也教授のほか、助手の梶原という女医が、いつも付き添った。無口で、感情の読めない目をした女である。
「大きな手術のあとには、よくあることです。ストレスと、体の拒絶反応の名残でしょう」
担当医はそう言って、眠剤を増やした。だが薬は効かなかった。目を閉じると、瞼の裏の闇が急に深くなる。その闇の奥から、誰かがこちらを見下ろしている気がするのだ。
ドアが、音もなく開く。
冷たい目が、ベッドの横に立つ。
――そんなことが起こるはずはない。ドアには内側から鍵をかけている。使用人たちは離れで眠っている。理屈ではわかっていた。それなのに、玲子の背中は汗で濡れ、気がつくと上体を起こして、扉のほうを睨んでいた。
何を恐れているのか、自分でもわからない。ただ、恐れている。理由のない恐怖ほど、人を消耗させるものはなかった。
たまに浅い眠りが訪れると、決まって同じ夢を見た。
白い蛍光灯に照らされた、冷たい実験室。地味な灰色の服を着た痩せた女が、背中を丸めて試験管を並べている。顔は見えない。窓の外には銀杏の枯れ枝が揺れ、遠くで踏切の警報機が鳴っている。その女が誰かに見張られていることだけは、夢の中の肌でわかった。
逃げなければ。早く、ここから。
ふいに、遠くから、男の声が降ってくる。
――姫、もう上がっていいぞ。続きは、明日だ。
低くて、深い声だった。やさしいのに、どこか寂しい響きがあった。
その声が誰のものなのか、目を覚ますと、決まって思い出せなかった。
目が覚めるたびに、その焦りだけが胸に残った。女が誰なのかは、思い出せなかった。
昼間もおかしかった。銀座の通りを歩いていて、玲子はふいに振り返る。人の波があるだけだ。それでも、数歩進むとまた振り返る。誰かが、ずっと自分の後ろにいる。
医師はそれを「術後の不安」と呼んだ。玲子もそう思おうとした。思おうとするほど、夜は長くなった。




