五 見えない足音
夕刊でそのニュースを読んだ瞬間、涼子の体に、冷たいものが走った。
――逃げた。捕まっていない。
そして、彼女は気づいた。この一か月、自分を眠らせなかったものの正体に。
医師の言った「ストレス」ではなかった。拒絶反応でもなかった。ドアの向こうの闇。冷たい目。振り返らずにいられなかった足音。あれは、彼女の脳の奥底に、記憶より深いところに刻まれていた予感だったのだ。
雅也という男が、どれほど冷たい人間か。自分が「失敗作」であることを、あの男が知っていることを。そして、いつか自分を消しに来るであろうことを。
涼子の脳は、涼子よりも先に、それを知っていた。
夜になると、恐怖はいっそう形を持った。
玄関のチャイムが鳴り、誰もいない。電話が鳴り、受話器の向こうで、ただ息づかいが聞こえる。路地を歩けば、後ろの足音が、自分の歩調に合わせて止まる。
警察の保護を勧められ、屋敷の前には若い警察官の古賀が立つようになった。涼子は窓から彼に会釈をした。それでも、闇が消えるわけではない。眠れない夜が、ただ続くだけだった。
古賀は、無口な青年だった。ある夜、窓越しに、温かい缶コーヒーを差し入れてくれたことがある。「うちの母も、眠れない人でして」と、照れくさそうに言った。涼子は、その素朴さにだけは、疑いを向けなかった。
そんな夜、毎朝来る若い看護師の結城が、体温計を差し出す手のなかに、小さく折った紙片を忍ばせた。涼子が広げると、鉛筆の走り書きがあった。
〈ここから逃げてください。誰も信じないで〉
看護師は、顔を上げなかった。足早に部屋を出ていき、翌日から、その姿を見なくなった。
涼子は紙片を握りしめた。雅也の手の者が、まだ身の回りに潜んでいるのだ。そう思うと、いっそう誰も信じられなくなった。
ただ三宅だけは、変わらなかった。涙ぐんだ目で「会長、わたくしだけは最後までお側におります」と言った。その言葉に、涼子は救われた。
専務の恭一が屋敷を訪れたのは、その翌日である。「姉さん、財団の金を洗うなど、正気ですか」と、声を荒らげた。涼子は、この弟こそ、雅也と通じているのではないかと疑った。
ひとつだけ、気づかないふりをしていることがあった。屋敷の使用人たちが、ときおり、示し合わせたように同じ瞬間に目を伏せるのだ。
その夜、数日ぶりに、涼子は十分ほど、ソファで気を失った。
夢のなかで、実験室は夜だった。作業台に突っ伏して眠る、灰色の女。その背後に、長身の白衣の男が立っている。男の手に、細く光るものがあった。針だ。
男は、眠る女の首筋へ、ゆっくりと身を屈めた。
叫び声で、目が覚めた。
白衣の男の顔は、最後まで見えなかった。涼子は、それが雅也だと信じた。




