試演
逃げ場はなかった。
「ほら、こっち!」
クラリスが手を引く。抵抗する間もなく、暗い通路の奥へと連れて行かれる。後ろからついてくるヴェラの足音が重なる。
やがて、開けたところに出た。小さな舞台のように見えるが、客席はない。ただ、どこまで続いているのかわからないほど上に高い空間が広がっている。
「ここ、いいでしょ?」
クラリスが嬉しそうにくるくると回る。
「試すのにちょうどいいの!」
何を、とは言わなくてもわかってしまう。
「さあ、立って」
舞台の中央を指して、にこにこと笑っている。
「大丈夫だよ、ちょっと感じるだけだから!」
安心させるみたいに軽い声で言ってくるが、その言葉が逆に不安を強める。
「じゃあ、始めるよ」
空気が変わった。次の瞬間、何かが押し寄せた。形のないものが一気に流れ込んでくる。
笑い声。歓声。怒声。嘆き。ざわめき。全部が混ざり合って、押しつぶすように流れ込んでくる。立っているのがやっとだった。
嬉しいと感じた瞬間に、気持ち悪さが込み上げる。楽しいはずなのに、どこかで拒絶している。感情が混ざって崩れる。
「……あれ?」
少しだけ驚いたようなクラリスの声がする。
「普通はどれかに寄るんだけどなあ」
流れ込むものがさらに増える。形容しがたい感情が、ぐちゃぐちゃに混ざっていく。でも、どれか一つに染まることはなかった。
「…はは」
クラリスの笑い声が小さく聞こえた。
「すごいね、ほんとに。全部入るんだ」
その言葉に何かが確定する。その瞬間だった。
視線を感じた。強く、はっきりと。
反射的に顔を上げる。どこまでも続くように見える天井。暗闇。
何も見えないはずなのに、そこにいるとわかる。何かがこちらを見ている。
観察するように。値踏みするように。
「……?」
「…セラ?何見てんだ」
視線に気づいているのは自分だけのようだ。
その瞬間、すべてが止まった。流れ込む感情も、何もなかったかのように、ぴたりと。
ただ、視線だけが残っている。
「……終わり?」
クラリスがいつもの調子で首をかしげる。
ヴェラは何かを悟ったように、ただこちらを見ている。
「やっぱりさ」
クラリスはいつものように笑いながら言う。
「面白いね、セラって」
その一言が、やけに重く響いた。
壊れなかったことが安全じゃないと気付くには、そう時間はかからなかった。




