完成
戻る途中、誰も喋らなかった。
クラリスだけは退屈そうに靴先を鳴らしていたけれど、その音さえ妙に遠く聞こえる。
頭の奥に、まだ暗がりが残っていた。
照明の届かない場所。
輪郭の曖昧な“何か”。
見てはいけないものだった気がするのに、完全には目を逸らせなかった。
「……なに、その顔」
不意に、クラリスがこちらを覗き込んできた。
笑っている。いつも通り、眩しいくらいに。
「なんかずっと静かじゃない?」
軽い声。何も知らない声音だった。
答えようとした瞬間、暗がりの感覚が蘇って、喉の奥が詰まった。
楽しそうに首を傾げる。悪意はない。
本当に、ただ気になっているだけみたいに。
「クラリス」
ヴェラの低い声が落ちる。
制止するみたいに。
けれどクラリスは「あは、ごめんごめん」と軽く笑っただけだった。
その空気を切るように、
「舞台の外を見たか」
ノクスの声が響く。
息が止まりそうになる。
黒い輪郭が、静かにこちらを見ていた。
「……あれ、何なの」
気づけば、そう口にしていた。
ノクスは少しだけ沈黙する。
その間、ヴェラが小さく舌打ちした。
「聞くな」
苛立ちを押し殺したみたいな響きだった。
けれど、ノクスは止まらない。
「舞台に不要だった感情だ」
静かな声が落ちる。
「不要だった……感情?」
うまく理解できない。
ノクスは淡々と続ける。
「このサーカスの演目は感情なのは知ってるだろう。そして、クラリスやヴェラは」
「その感情そのものだ」
明らかに苛立った声でヴェラが割り込む。
「形になれなかった感情。見世物にならなかった感情。舞台に上げるには曖昧すぎたもの」
暗がりが脳裏に浮かぶ。
沈むような感覚。
胸に残る重さ。
「孤独、諦め、虚無、執着——そういったものは観客を熱狂させない」
クラリスが「へぇ」と興味なさそうに笑う。
まるで、ステージ外の感情など、どうでもいいと言うように。
「だから捨てた」
ノクスの一言は、驚くほど冷たかった。
ヴェラが顔をしかめる。
「……最初からそういうルールだ」
吐き捨てるような声。その奥に僅かな嫌悪が混じっている。
「でも、お前は違う」
ノクスの視線がこちらへ向く。
「歓喜も、怒りも、恐怖も。そして、本来捨てられるはずだった感情すら拒絶しない」
ぞくり、と背筋が冷えた。
「お前は壊れない」
ノクスが一歩近づく。
ゆっくり迫ってくる。
「だから、お前は完成した」
完成。
その言葉に、胸の奥がざわつく。
違う。そんな綺麗なものじゃない。
怖い。
苦しい。
逃げたい。
ぐちゃぐちゃな感情が消えないだけだ。
「……それの、何が完成なんだ」
気づけば、声が出ていた。
クラリスが少しだけ目を丸くする。
ヴェラは黙ったままこちらを見ていた。
ノクスだけが冷静だった。
「感情は本来、矛盾するものだ」
低い声が落ちる。
「だが人は、それを不要として切り捨てる」
暗がりが浮かぶ。
舞台に上がれなかった感情たち。
捨てられたもの。
「お前は捨てなかった」
ノクスが言う。
「だから、完成した」
その瞬間、はっきりわかった。
ノクスは、何も理解していない。
この苦しさも。
恐怖も。
消えない感情の重さも。
ただ“完成”と呼んでいるだけだ。
胸の奥が、冷たくなる。
ここにいてはいけない。
その感覚だけが、妙にはっきり残っていた。




