欠片
床に手をついたまま、しばらく動けなかった。視界が少しずつ戻ってきても、体の奥に残っている感覚が消えない。
軽さも、重さも、冷たさも。
もう流れ込んではいないはずなのに、どこかに引っかかっている。
「ほんっと壊れないね」
すぐ近くで声がした。顔を上げると、クラリスがしゃがみ込んでこちらを覗き込んでいた。
相変わらずの笑顔だが、その目だけが少し鋭い。
「ねえ。今のどうだった?」
問いかけられても答えが出てこない。言葉にしようとすると、さっきの感覚が浮かび上がってくる。
「答えられないか」
突然の低い声に視線を上げると、ノクスが立っていた。
「…十分だ」
それだけ言って、視線が外れる。息が少しだけ楽になる。
「えー、もう終わりか」
クラリスが立ち上がって、少し不満そうに、それでも楽しそうに笑っている。
「もう少し見たかったのにな」
その言葉が妙に引っかかった。
何を?考えようとして、やめる。考えたくない。
「…大丈夫?」
クラリスが手を伸ばす。触れるか触れないかの距離で止まり
「ま、平気そうだね」
そのまま引っ込める。
最初から支える気はなかったみたいに。
ゆっくりと立ち上がる。足の感覚を確かめながら、一歩踏み出す。
そのとき、視界の端で何かが動いた。反射的にそちらを見る。
照明の届かない、舞台の外。そこに、何かがある。
人に見えたが、はっきりしない。輪郭があいまいで、揺れている。
ただ、そこにある気配だけが濃く残っている。
さっき感じたものと似ているのに、もっと静かで重い。
「……?」
クラリスは何も言わずこちらを見ている。
でも、舞台外の存在には気づいていない。
「どうしたの?」
答えられない。視線が外れない。
その時__
「見るな」
鋭く、はっきりとした拒絶に反射的に振り向く。
ヴェラがいつの間にか、すぐ近くに立っている。
苛立った顔で、こちらを睨んでいた。
「そっちは…」
言いかけて言葉を切る。
「…見るな」
命令というより、警告に近い声だった。
次の瞬間、腕を強く掴まれた。無理やり視線が外れる。
「あれは舞台に出すもんじゃねぇ」
吐き捨てるように言う。
はっきりとした嫌悪が混じっていた。
それ以上は何も言わない。けれど、それで十分だった。
「…見えているのか」
ノクスの声だった。
その言葉ではっきりとわかる。これを見ているのは、自分だけだ。
「へ?」
クラリスが首をかしげる。
その横で、ノクスの視線だけが、こちらを捉えている。
暗がりの中の何かはいつの間にか消えていた。
けれど、確かにそこにあったものが、消えたとは思えなかった。
「行くぞ」
ノクスの声。それだけで体が動く。
振り返ることはできなかった。
あの場所に、まだ何かが残っている気がして。




