第4話 言葉の毒《ことばのどく》
月明かりが冷たく差し込む深夜の回廊は、昼間の華やかさが嘘のように静まり返っていた。
昼間はあたたかな光沢を放っていた朱塗りの柱も、いまは深い闇を抱えて黒々とした影を落としている。
中庭から吹き抜ける夜風が、昼の残り香である薫香の煙をかすかに揺らし、桃花の甘い香りと混ざり合って鼻腔を突いた。
私は中央記籤室の重い扉を閉ざし、鍵をかけた後、白磁の半仮面をつけたまま静かに回廊を歩いていた。
指先には、昼間に台帳へ清書した無数のポエム――朱華を陥れるための伏字だらけの献辞の感触が、じくじくと冷たく残っている。絹布の台帳に走らせた朱墨の赤い線が、まるで自分の手から流れ出た血のように思えてならなかった。
「……誰だ」
回廊の曲がり角、桃花の影が最も濃く落ちる場所。その静寂を破るように、微かな絹の擦れる音が聞こえた。
私は足を止め、白磁の半仮面の奥から闇を凝視する。
このような刻限に回廊を彷徨う者は、それだけで天意を乱す不審者として告発の対象になり得る。
「……ボクだよ、景」
影の中からゆっくりと姿を現したのは、朱華だった。
数ヶ月前の昼間、大籤で一等執政官を引き当て、日籤で得た息を呑むほど鮮やかな古装を纏っていた人物。
けれど、蒼白な月光の下に立つその姿には、その誇らしげな輝きは一欠片も見当たらなかった。
星屑の細工が施された半臂は崩れるように肩から落ちかけ、高く結い上げていた黒髪からは、一等の金と玉の簪が今にも落ちそうに傾いている。生え際に描かれた色鮮やかな花鈿は汗で滲み、その表情はただ死人のように青ざめていた。
「一等執政官閣下……。このような刻限に、一体何をなさっているのですか。一等執政官ともあろうお方がお一人で歩まれては、明日には不遜な夜歩きとして、奏上が投げ込まれてしまいますぞ」
「そんな決まり、もうどうでもいいんだ……!」
朱華は奈落の底から救いを求めるように、私へ向かって、すがるような一歩を刻んだ。
虚空を彷徨う指先は、恐怖のあまり自制を失って醜く震えている。かつての栄華を象徴していた絢爛たる大袖は、主の没落を嘲笑うかのように、乾いた寂しげな音を響かせるだけだった。
「景、頼む……教えてくれ。今日までの中央記籤室に、ボクに対する奏上はどれくらい投げ込まれた?誰が僕を叩き落とそうとしているんだ……!?乱礼か?それとも、あの二等や三等の者たちか!?」
「一等執政官閣下……中央記籤官に奏上の内容や差出人を漏洩する権限はありません。…………朱華、知っているだろう」
「頼むよ! 僕たちは、あの泥の中で一緒に生きてきたじゃないか!」
朱華の絞り出すような叫びが、しんと静まり返った夜の回廊に重く響き渡った。
――泥の中。
その言葉が引き金となり、私の胸の奥に封じ込めていた古い記憶が鮮やかに蘇る。
数年前、人生の位や住居を一変させる大籤で、私と朱華は揃って住人の最下位の籤を引き当て、新天地の郊外の泥道で土木作業をさせられていた。
日々の食事や衣服などを決める日籤で、当たらない限り着る物も粗末な麻布一枚、食べるものすら満足に得られない過酷な日々だった。
手足は泥とあかぎれで裂け、誰もが自分たちをゴミのように見下していた。
けれど、あの頃の私は白磁の半仮面など被っておらず、互いの無様な素顔を晒しながら、いつかこの不条理な籤の仕組みから抜け出そうと、乾いたパンを分け合って笑い合っていたものだ。
それが今や、朱華は大籤の頂点へ登り詰め、私は数万の運命が集積する中央記籤室で、人の生き死にを機械的に刻む下級官吏の最上位、四等執政官相当の冷酷な中央記籤官を引き当て三年四ヶ月も居座っている。
「一等執政官を引き当てたんだ……歓喜に震えていたんだよ。それの何処が悪い」
剥き出しになった己の恐怖を隠すように、朱華は自身の肩を強く抱きかかえ、激しく身震いした。そして最後の支えを失い崩れ落ちるようにしてその場に膝をつく。
「なのに、ここ数日は頭の中にあるのは恐ろしさだけだ。背後を誰かが歩くだけで、背中に言葉の刃を刺されるんじゃないかと怯えて、息すらまともに吸えない……!こんな絢爛な衣装も、簪も、最初から当たらなければよかった……!今となってはこんなもの、ただの重い呪いなんだ!」
月光に照らされた朱華の瞳から、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。
胸元に刻まれた金糸の牡丹刺繍の上に落ちた涙は、美しい光沢を奪い、染みとなって黒く広がっていった。
私は白磁の半仮面の下で、己の弱音も怒りも外へ漏らすまいと、強く唇を結んだ。
白磁の半仮面を脱ぎ捨て、あの肩を抱き寄せてやりたかった。「逃げろ」と叫びたかった。乱礼が仕掛けた完璧な罠が、すでにあやつの首元に届いているのだとすべてを打ち明けてやりたかった。
けれど――今の私は、感情を捨てた中央記籤官なのだ。
一挙手一投足が周囲の目と奏上によって監視されているこの新天地で、私情を挟めば、私も朱華もまとめて明日の朝には服を剥ぎ取られ、宮廷から郊外へ叩き落とされることは明白だ。
「……朱華」
私は一等執政官へではなく友として努めて声を冷たく殺し、白磁の半仮面越しにあやつを見下ろした。
「狂った獣に追われた時、足を止めて振り返れば、その瞬間に噛み殺される。朱華、わかるか?……わかるだろ!」
「……え?」
「言葉の刃を避ける術も、引き当てた籤を拒む術もこの新天地にはない。……もし本当に命だけは守りたいのなら、審理の朝、奏上が読み上げられた瞬間に一切の弁明を捨てるんだ。それしかないんだ」
「……っ」
「そして、裁きが下るより先に――自らの手でその一等執政官の簪を捨てろ。誇りも位も己で棄てて首を垂れろ。それしか、あいつらの牙から逃れる道はない」
それが、今の私が渡せる唯一の、そして惨すぎる助言だった。この清廉朝廷の籤において、一度引き当てた位を拒むことなど許されないどころかそんなことを考える者などいない。
だが、完璧な言葉の罠を仕掛けられた今、潔白を主張して抗えば天意への反逆として、罪人となり、罪人の服を着せられる。この時の私は、自ら最高位の象徴を脱ぎ捨てて無力さを差し出す――それだけが、朝廷の狂気から罪人とならずに生き延びさせる唯一の抜け道だと思っていたのだ。
朱華は絶望と困惑の入り混じった目で私を見つめ、乾いた笑いを漏らした。
「自ら捨てろ……? せっかく引き当てたこの輝きを自分の手で捨てて、あの最下層の中に自分から戻れというのか……!? そんなの、死んでいるのと何も変わらないじゃないか……!」
「天意に清く、清廉であれ」
私はそれ以外の言葉を思いつかなかった。
私は朱華に背を向けて、歩き出す。静まり返った回廊に、靴底の音だけが虚しく響いた。
朱華の打ちひしがれた視線が、私の背中に突き刺さるのを感じていた。
(――ごめん、朱華。また次の大籤がある。だから……今は生きてくれ)
暗い回廊を一人歩み進める私の指先で、乾いた朱墨の跡が、まるで消えない生傷のように冷たく痛んでいた。




