第3話 天意に清く清廉であれ《てんいにきよくせいれんであれ》
私は中央記籤官に与えられた個室に入る。
「……また、これか」
ミシリ、と老木が悲鳴をあげるような音がした気がする。
絶え間なく追加される絹布の束。その圧倒的な重量に、分厚い黒檀の卓すらもわずかに沈み込んでいるように見えた。いや、沈み込んでいるのは私の精神かもしれない。
「――中央記籤官殿。こちら、本日、全土から届いた一等執政官閣下への奏上状の清書分でございます」
緑色の官服を着た下級官吏が、恭しく絹布の束を卓上に積み上げる。
この清廉朝廷において、異様なのは数の多さがそのまま民意となり、ひいては反論不能な天意へとすり替わることだ。
たった一人の人間を叩き潰すために、何万枚もの悪意の絹布が重なり合う。その絹布の束の山こそが、この清廉朝廷における絶対の正義であり、不義を断つ断罪の刃となるのだ。
奏上において、直接的な誹謗中傷は清廉を乱す不敬として禁じられている。ゆえに、ここに書かれているのはすべて、伏字での糾弾や指摘なのだ。
『朝儀において、某は〇〇の者が袖の中に不吉な文様が書き込まれたものを隠しているのを目撃した。あれは天意を呪うおまじないではないか』
『大籤の直前、〇〇の者は不吉な歌を口ずさんでいた。天意を侮辱する〇図は明白である』
『〇〇の者は日籤を高雅なる披露。浅ましい虚〇心ではないか』
『〇〇の者は日籤で引き当てたものを配下へ〇〇。〇〇することは〇〇から天意への冒涜ではないか』
確証など、どこにも見当たらない。あるのは自分より良い思いをしている奴を引きずり下ろしたいという醜い欲望だけだ。
しかし、この清廉朝廷においては、数が集まり、一度公式の文書として清書されれば、どれほど不条理な言いがかりであっても絶対の真実として裁きの場に引きずり出されるのだ。
厚い黒檀の机を埋め尽くす絹布の山を前に、私は先日の無邪気な朱華の顔を思い浮かべた。
最高位の栄誉と白亜の豪邸を手に入れたはずの朱華に突きつけられているのは、死よりも冷酷な静寂だ。
これだけの数の奏上文で包囲されてしまえば、もう朱華に逃げ場はない。
弁明のために口を開けば天意への冒涜とされ、黙っていれば罪の承認とみなされる――そんな逃げ場のない状況になるだろう。
朱華は一等執政官に上り詰めたまさにその瞬間から両手を縛られ、喉をかき切られたも同然なのだった。
栄華の頂点で、声を出すことすら許されず凍りつく朱華の姿が目に浮かぶ。
私はため息を呑み込み、白磁の筆を朱墨の壺へ深く浸した。ぽたり、と赤い雫が垂れる。
朱墨の朱は、罪の証。そして、犠牲者の血の色だ。
私は機械的に腕を動かし、伏字と悪意を、公式の絹布の台帳へ寸分違わず清書していく。一筋の朱文字を引くたび、朱華の無形の枷が、刻一刻とその身を縛り、息の根を止めんとするかのようであった。
私がやっているのは、記録ではない。
正義の皮をかぶった言葉の刃を研ぎ、誰かの背中に突き立てる手伝いだ。
指先に付着した朱墨が、まるで取れない血の跡のように、じくじくと冷たく痛んでいた。
私は白磁の半仮面を直すと、機械的に腕を動かし、悪意の羅列を公式の絹布の台帳へ写し取っていった。
どれほどの時間を、その不毛な清書に費やしただろうか。
ふと視線を彷徨わせた窓の外は、すでに燃え盛る朱と夜の黒が融け合う、濃密な黄昏に染め上げられていた。その残光に追われるようにして、室内に落ちる影がじわじわと、まるで生き物のようにその身を伸ばし始めている。
「――相変わらず、熱心なことだね。中央記籤官、白景殿」
静寂を破って掛けられた声に、私の運ぶ筆先がぴたりと止まる。
振り返ると、そこには質素な白色の官服を纏った九等執政官の乱礼が立っていた。
私は完璧な刺繍が施された緋色の官服の袖を翻す。
白磁の半仮面を被る私へ向けて、乱礼はただ毒のように甘やかな笑みを浮かべていた。
「九等執政官、乱礼殿……。何の用だ。本日の記籤業務は間もなく終了する」
白磁の半仮面の奥から低く殺した声を向ける私に、乱礼は机の上の絹布の束の山を、愛おしげに細い指先でなぞってみせた。
乱礼はかつて二等執政官だったが、少し前に引いた大籤で九等執政官へ転落したのだ。
「用? もちろん、業務の助けに来たのさ」
深淵から響くようなその声は、うっとりとするほど滑らかで、同時に首筋に氷の刃を押し当てられたような錯覚を抱かせるようだった。
乱礼は迷いのない足取りで私の卓へと近づくと、懐から一枚の折り畳まれた絹布を取り出した。
上品な薫香が漂うその絹布を目にした瞬間、私の背筋に冷たい悪寒が走る。
「……それは」
「私の、今月分の最後の一枚だよ。中央記籤官、白景殿」
乱礼は愉悦を隠そうともせず、細い指先で絹布をトントンと卓の上に滑らせた。
「今月の奏上は、これでちょうど三回。……いやあ、待ったかいがあったよ。朱華殿が数ヶ月前の大籤で一等執政官を引き当てたのに、それからの行いでみんなから弾劾されるまさにその瞬間をね」
「……」
「見給え、この見事な文面を。あやつが過去に詠んだ詩、籤を引く際のほんの僅かな指の震え、そして、あやつが秘かに持っていた古びた文様……。すべてを天意への反逆として完璧に繋ぎ合わせた、至高の奏上状だ。これ一枚で、あの美貌という名の権力を笠に着た、傲岸不遜なあやつは、一等執政官どころか栄華の頂から、奈落の深淵へと突き落とされる。ふふふ」
「……」
「これほど美しい呪詛の数々だ。一人で清書していては、中央記籤官のその綺麗な指先が朱墨で腐ってしまうだろう?私も手伝おうか!」
乱礼のその双眸には、激しい憎悪や怒りの欠片さえも宿ってはいなかった。
そこに湛えられているのは、ただ冷徹なルールという盤面を見下ろし、詰みを発見し狂いなく王手をかけるような、純粋で、それゆえに酷薄な盤上の愉悦と思われた。
「さあ、清書しておくれ、中央記籤官。君のその綺麗な手で。それが朝廷の清廉を守るということであり、正義の執行なんだろう!」
乱礼が囁く言葉は、白磁の半仮面の奥へ毒のようにじわじわと浸透していった。
私は震える指先で、出された絹布を開いた。
『清廉朝廷の無垢なる静寂において、一等の〇〇が纏う極彩虚飾は、天意の白を侵食する淫美なる毒なり。調和を乱し、己を飾り立てる姿は、天意への不〇を絵に描いたが如し』
吐き気のするようなアンハッピーポエムを差し出しながら、乱礼は、私の逃げ場を完全に塞ぐように決して覆らぬ鉄則という名の刃を突きつけてくる。
そこに躍る伏字と悪意の羅列――。朱華を完全に社会的抹殺へ追い込むための、逃げ場のない罠が完璧に組み上げられていた。
これを清書すれば、朱華は終わる。かつて同じ泥をすすり、生きてまた会おうと誓い合った数少ない友が、私の引く文字によって壊されていくのだ。
「九等執政官、乱礼殿。この奏上は、受付官に提出となる。……おーい、受付官。受付せよ」
処理するため私は急いで受付を呼んだ。
「中央記籤官様、受付時間をとおに過ぎております」
「九等執政官、乱礼殿。受付時間を過ぎているそうだ。明日出直して、受付へ出してくれ」
私は乱礼へ絹布を突き返した。乱礼はそれを受け取り、不服そうに部屋を出て行った。
「……天意に清く、清廉であれ……」
喉の奥で引きつる声を絞り出し、私は再び、白磁の筆を赤い墨壺へと浸した。一筋の朱文字を引くたび、朱華の首にかけられた見えない縄が、ギチギチと締め上げられていくような錯覚に襲われた。指先にこびりついた朱墨が、まるで生傷のように激しく痛む。
今日もまた、私の引いた一筋の血の線が、誰かを地獄へ叩き落とすのだ――。




