第2話 苦悩する半仮面《くのうするはんかめん》
新天地のとある記籤室。
私は日籤を引くためにここを訪れた。
引き当てて、目の前に現れたのは一食分夕食セット七枚券だ。超幸せな気分となる券なのだ。
この券を一枚握って食べたいものをその場で願えば、その場に現物が突然現れる優れ物で、この新天地では羨望の的になる券のひとつだ。
――カツン、と重厚な靴底の音が響く。
「おはよう、景! 今朝の日籤かい? ボクはまた運が良くてね、この新しい雅の半臂を引き当ててしまったよ。景は何が当たったんだい?」
現れたのは一等執政官の朱華だった。
朱華は日籤で出現した重厚な錦の上に、複雑な幾何学模様が浮かぶ綾を重ね、透け感のある雅の半臂を優雅に羽織っている。
頭上には一等執政官として支給された一等の金と玉の簪を輝かせている。
私は先程引き当てた一食分夕食セット七枚券を見せた。
「景、おめでとう。よかったね。ボクはね、少し前に今着ている綾や日用品十三点セット券、一昨日は一食分昼食セット三十枚券、昨日は二人分豪華海鮮料理セットの七枚券が出たんだよ。景、券を幾らか譲ろうか?」
「一等執政官閣下、閣下直々のご高配にあずかり、至上の光栄に存じます。
食事券などを賜りますこと、本来であれば恐縮しつつ拝受すべきところではございます。しかしながら、閣下の過分なるお引き立てに甘んじることは、分を弁えぬ不遜の極みであると痛感しております。これ以上のご恩情は、私には重すぎる荷にございます。
此度の身に余る栄誉は辞退させていただきたく存じます。閣下の寛大なるお心にすがり、この無礼をお許しいただけますよう、伏してお願い申し上げます」
このようにその申し出を私は丁重にお断りしたのだった。
「周囲の官吏たちにも分けてやると言ったんだが、なぜかみんな顔を背けたり、断ったりしてね……」
無邪気に首をかしげる朱華。
「一等執政官閣下。私はこれから中央記籤室で大籤の儀がありますから、これにて失礼させていただきます」
「ふふ、相変わらず冷たいな。ボクはこの天意の恵みを、みんなと分かち合いたいだけなのになぁ。それじゃあ、失礼するよ、景」
朱華は寂しそうに微笑むと、眩い光を撒き散らしながら去っていった。私は中央記籤室へ向かうのだった。
◇
「大籤の儀……本日、第五百八十九番」
半仮面の中で声を低く殺し、短く告げる。いつものように大殿の空気が凍りついたように静まり返った。
壇上に進み出たのは、擦り切れた麻布を纏った、新天地下層区の者だ。
「私の番だ。今年こそ良いものが引けますように……!」
私は無機質に、籤を引くよう促す。
「そこの者、速やかに引きなさい」
その者の震える指先が、漆黒の竹籤筒へと伸ばされる。
見物している誰もが唾を飲み込むことすら忘れ、期待と、それを遥かに凌駕する圧倒的な不安に身を震わせている。
一等執政官への特進や白亜の高級豪邸が手に入るかもしれない。あるいは、すべてを剥ぎ取られて赤土服に身をやつすことになるのかもしれない。生殺与奪を完全に握られた人間たちの、張り詰めた精神の軋みが、大殿へ静寂を満たしていた。
カタリ、と乾いた音を立てて竹札が竹籤筒から取り出される。
私はいつものように差し出された竹札の底を確認する。
そこに刻まれた朱文字を目にした瞬間――僅かに私の指先が震えた。そう、一ヵ月前のあの物件なのだ。
「……三等執政官相当の豪邸」
その者は一瞬、自分が息をしていることすら忘れたように硬直した。
次の瞬間、己の運命を理解したその者は、肺を破らんばかりの咆哮をあげた。信じられないものを見る目で竹札を凝視し、身分は変わらないが豪邸が当たったことを理解する。
すると、やがて歓喜の余り、泡を吹くようにして狂ったように笑い転げる。
だが、その歓喜を包み込んだのは、祝福などではなかった。周囲の者たちの眼光が一変する。
張り詰めていた不安は一瞬にして、鼓膜を狂わせるほどのドロドロとした嫉妬と、狂気の殺意へと姿を変えた。
こうして、大籤は今日も変わらず公平に続くのである。
◇
中央記籤室の執務部屋の隅で「ト、ト、ト……」と冷たい水を刻む、大理石の大きな水時計の音。
風もないのに、壁一面の棚に収められた無数の竹籤同士が、チリ……チリ……と微かな音を立てて擦れ合う。もう一方の壁には、全住民の姓名が彫られた玉札と、それぞれの残り奏上回数を示す三本の結び紐。
密告し尽くした者の紐は、ハサミで容赦なく断ち切られて転がっていた。
中央記籤室の役割は、各自が三百六十五日に一度だけ引きに訪れる大籤の儀と、全住民の奏上回数の管理、全土から集まる奏上状の検閲と清書――なのだ。
ここで清書された奏上状が宮廷へと回され、裁きなどが執り行われるのだ。
私は中央記籤官に与えられた部屋へ移動する。わかりやすく言えば部長室のような個室だ。
私は下級官吏の最上位を示す緋色の官服を纏い、最奥の黒漆の椅子に座って分厚い黒檀の卓の上の朱墨に静かに筆を浸していた。白磁の半仮面が、私の目元と感情を冷酷に覆い隠している気分だ。
――私は籤運に恵まれすぎていた。
三年四ヵ月の大籤で、この新天地の中央記籤室における四等執政官相当である中央記籤官の座を引き当て、それだけの歳月が経過しようとしていた。
男も女も存在しないこの新天地において、官職は一等から三十三等までに厳格に分かれている。
一等から三等までの上級権力者には高貴な紫色の官服が与えられ、四等は緋色、五等は赤色、六等七等は緑色、八等以下は青色か白色の質素な官服が支給される。
しかし、雅に比べて質素という程度のものだ。
官服そのものは立場を示す記号に過ぎないが、同時に支給される頭上に挿す簪の材質と意匠の格こそが、絶対的な身分の威を物語っていた。
私の簪は四等相当なので翡翠。しかし、最高位なので光に透かすと、奥底からトロンとした緑が湧き出す、究極のろうかんだ。
どんな優秀な官吏であろうと、半年も経てば他者からの奏上の罠に嵌まる。その後の大籤の気まぐれによって地の底へ叩き落とされることもある。それが、この朝廷のが普通の日常だ。
そんな狂った盤面で、私が三年以上もこの下級最上位の椅子を守り続けていられるのは、奏上が全くなかったことと、偏に己の強すぎる籤運ゆえだった。
だが――それは祝福などではない。
「――中央記籤官殿。本日、全土から届いた奏上状の清書分でございます。お確かめ下さい」
緑色の官服を着た奏上担当の下級官吏が、恭しく絹布の束を分厚い黒檀の卓上に置く。私は無言で頷き、白磁の筆を走らせ始めた。
誰かが誰かを嫉妬し、教養と伏字の中に毒を込める。
それらを吟味し、清廉なものだけを公式な告発状や証拠として清書し、宮廷へ送り出す。
そう、私は中央記籤官の座を引き当ててから、毎日この中央記籤室で勤めているのだ。




