第5話 嫉妬という名の正義?《しっとというなのせいぎ?》
今日の中央記籤室の朝は、凍りつくような緊張感とともに訪れた。
高天から垂れ下がる無数の灯籠が柔らかな光を投げかけているというのに、室内の空気は氷のように冷たい。
床を低く這う上質な沈香の煙が、まるでこれから行われる過酷な儀式を予告するように、ゆらゆらと黒漆の机脚を舐めていた。
私は下級官吏の最上位たる黒漆の椅子に座り、卓の上に置かれた朱墨の壺に静かに筆を浸していた。
部屋の隅で「ト、ト、ト……」と冷たい水を刻む、大理石の大きな水時計の音が響く。
風もないのに壁一面の棚に収められた無数の竹籤が、チリ……チリ……と微かな音を立てて擦れ合うように聞こえる。
もう一方の壁一面には、全住民の姓名が彫られた玉札と、それぞれの残り奏上回数を示す三本の結び紐。
すでに今月の三回を使って密告し尽くした者の紐は、ハサミで容赦なく断ち切られている。
各地の日籤が行われる記籤室から吸い上げられた無数の人生の息遣いと、朝廷の中枢を蠢く陰惨な執念が、この部屋には満ちているように感じた。
「――中央記籤官殿」
彫刻の施された重厚な大扉が開き、青色の官服を着た官吏が入ってきた。
乱礼の配下にあたる十四等執政官だ。その口元には、清廉さを装った下品な微笑が張り付いている。
「本日は奏上状を納めに来たぞ。我が配下の者共が、朝廷の清廉を保つために書き上げた真摯な申し立てである」
官吏は恭しく礼を執ると、三枚の絹布を私の卓上に置いた。
この清廉朝廷において、一人がその月に提出できる奏上の上限は三回と定められている。乱用を防ぎ、私怨による無秩序な告発を抑制するための絶対の法だ。
「これは、受付官に提出せよ。……おい、十七等受付官。受付せよ」
しかし――その法には、あまりにも致命的な欠陥が存在する。その官吏が去ると同時に、示し合わせたかのように次々と青色の官服の官吏たちが中央記籤室へと足を踏み入れてきた。一人、また一人。
官吏らは無言で私に深々と頭を下げ、各自の三枚の絹布を受付の卓へ置こうとする。私その都度、受付官へ提出するように促す。
一人あたり月三回。
だが、それが十人集まれば三十回、百人集まれば三百回の弾劾となる。個人に課された制限など、組織立った者たちの前には何の盾にもなりはしないのだ。卓の上に置かれる絹布を見つめながら、私は白磁の半仮面の下で深く息を吐き出した。
乱礼の手口は、あまりにも巧妙だった。自らは指一本動かさず、部下の官吏たちの奏上状を一斉に使わせることで、一等執政官である朱華を袋小路へと追い込んでいく。
前日までに、私のもとへ運ばれた一枚の絹布を取り出し、そこに躍る文字に目を滑らせた。悪意のある洗練されたアンハッピーポエムだ。
『一等の座に就きし朱華の振る舞いは、まさに誇大妄侈。身の程を超えて身を飾り立てる姿は、天意を愚弄するに等し。ああ、どうかあの高慢な羽を毟り取って私と同じ、かつての分相応なる地へ引きずり落としてくれませんか』
これ見よがしに贅沢をし、身の程を超えて過剰に飾り立てていることを非難するポエムだ。
次の絹布たちにも同様にアンハッピーポエムが踊る。
『その言動には実質がなく、ただの阿奢浮華なり。うわべの華やかさで民の目を惑わすは、朝廷の害悪と知るべし。誰かを呪うための、生贄の色だったのか』
『燦然たる衣装を纏おうとも、その本質は金泥木彫。見掛け倒しの木くずに一等の大権を委ねるは、恥辱以外の何物でもなし。暗闇の中で分相応に安らかであるように』
『大殿に咲き誇る一等の衣は、その実、己の内面腐敗を覆い隠すための美辞麗句の虚飾、そのものなり。これみよがしの美の裏から漂う不吉な死臭を、某の鼻腔は確かに捉えたり』
熟語の並びは、不気味なほどに酷似していた。
直接的な暴言や死ね、降りろといった品のない言葉は一切使われていない。教養と故事成句で巧みに包み隠された毒――完璧に計算されたアンハッピーポエムだ。
だが、攻め口はそうした直接的な攻撃だけにとどまらなかった。次に手に取った絹布には、さらに陰湿な言葉が並んでいた。
『朱華殿の佇まいは実に見事な無瑕白玉であり、天意を敬う姿は清廉そのものに見える。……ゆえに恐ろしい。これほどの白玉にほんの僅かでも傷や曇りがあれば、それは朝廷全体の致命的な汚名となる。一等の完璧さを求められる今、些細な過ちすら断じて許されるべきではない』
非常に静かで理知的だからこそ、書き手が朱華殿を絶対に破滅させてやるという狂気が、静かに、しかし確実に伝わってくるポエムだ。
『一等執政官たる大志を抱き、刻木為鵠の如く懸命に大役に扮しておられる努力は認めよう。だが、所詮は背伸びしたアヒルの如き身の程知らず。形ばかり真似たところで、天意を騙せるものではない』
必死に職務を全うしようと背伸びをすればするほど、周囲からは神を騙す大罪人として見做されるという、逃げ場のない努力の否定が生む絶望に満ちたポエムだ。
『同僚たちの忠告に耳を貸さず、冷たく突き放すその態度はまさに木人石心。情を捨てた冷酷な者が頂点に座すは、民の悲嘆を呼ぶばかりなり。孤城閉のごとし』
朱華を孤独な暴君として周囲に印象づけ、外側からじわじわと味方を奪って外堀を埋めていくような、非常に理知的で陰湿な政治的悪意に満ちたポエムだ。
『一等の者が誇示せし絢爛は、上辺を取り繕った幻影鍍金に過ぎず。ひとたび風が吹けば崩れ去る砂上楼閣の虚飾を天意と偽るは、朝廷の清廉を泥に塗れさせる行為なり』
「……くっ」
感情を遮断する半仮面の裏側で、骨が軋むほどに奥歯が噛み締められ、鋭い痛みがこめかみへと駆け抜けた。
褒め称えるフリをして極限までハードルを上げ、身動きを封じる『無瑕白玉』。
努力を「出来損ないの背伸び」と嘲笑う『刻木為鵠』。
そして、孤立した態度を「血も涙もない」と非難する『木人石心』。
どれほど巧妙で、どれほど邪悪な言葉の網か。
一枚であれば単なる嫉妬による偏執的な意見として処理することもできる。だが、これが何十通、何百通と重なれば話は変わる。
中央記籤室に集積された同意見の奏上は、客観的に朝廷の総意として昇華され、公式な罪として裁きの場へ持ち出されるのだ。
朱華を罰するのは、刃でも毒薬でもない。
私が今からこの絹布に走らせる、一筋の朱墨だ。
数万の運命が集積するこの中央記籤室で、人の生き死にを機械的に刻む下級官吏の中の最高位、中央記籤官――その権限と義務が、いま私の手を通して友の首を絞める絞首縄へと変貌していく。
私に逃げ場はない。
私が清書を拒めば、私自身が天意を阻害した反逆者として明日の朝には服を剥ぎ取られる。そして、代わりの別の者が中央記籤官として淡々と朱墨を走らせるだけのことだ。
チリ……チリ……。
棚の竹籤が、嘲笑うかのようにかすかな音を立てたように聞こえる。私は感情を殺し、冷たくなった指先で白磁の筆を走らせた。
皮肉なほど流麗な毛筆の字で、朱華を糾弾する四字熟語を一つひとつ清書していく。
尖った筆先が文字を深く刻むたび、まるですり潰した硝子を呑み込んだかのように、喉の奥がじりじりと焼けつく痛みに苛まれた。
日が傾き、高天の灯籠の光が濃い影を落とし始める頃、卓の上の膨大な清書が完成した。
朱華を弾劾するための公式の絹布。
そこには、一等執政官の資格剥奪と、宮廷における弁明の儀の言い渡しが明確に刻まれていた。
見事に詰んでいる。
朱華がどのような弁明をしようとも、この数の清廉朝廷の総意を覆す術はない。
私は完成した朱墨の文書を静かに引き出しへと収め、白磁の半仮面の上から冷たい両手で顔を覆った。
暗い室内に、ただ沈香の毒々しい甘い香りだけが重く立ち込めていた。




