第九話 恋人たちは糸で結ばれている
朝になっても、布は机の上にあった。
薄い灰色の布。昨日、奈々香に首へ巻かれたもの。洗って返す。そう言った。
けれど、シンは結局、洗わなかった。水桶の前までは行った。布を手に取り、水に沈めようともした。それなのに、指先が止まった。
洗えば、匂いは落ちる。
それだけのことが、できなかった。
朝食は、ほとんど喉を通らなかった。
米を炊き、味噌汁を作る。湯気が上がる。好きな匂いだ。けれど、飲み込むたびに、身体の奥が少しだけ遅れた。
まだ残っている。
そう思うと、箸が止まる。
シンは茶碗を置いた。腹は減っている。食べられないわけではない。
ただ、身体のどこかが、まだ警戒していた。
机の上の布を見る。返さなければ。いや、違う。返しに行く理由がある。そちらの方が正しかった。
シンは布をたたみ、リュックの中に入れた。洗っていない。
そのことが少し後ろめたかった。同じくらい、安心していた。
山道を下りる。空は晴れていた。
鳥が鳴く。沢が流れる。枝の影が、道の上で揺れている。
いつもの山だった。なのに、歩くたび、背中の近くが気になった。リュックの中に、布がある。
奈々香の匂いが、そこに残っている。シンは何度か、肩紐を握り直した。
街へ近づくほど、喉の違和感は薄くなった。気のせいかもしれない。
けれど、駅前通りが見えた時、呼吸は少しだけ楽になっていた。
信号は動いている。店は開いている。人は歩いている。
形だけなら、何も変わらない。
シンは駅前の広場へ向かった。噴水は今日も止まっていた。ベンチには、誰も座っていない。
時計は午後三時五十一分を指している。奈々香はいなかった。
シンは広場の端に立った。人が通る。誰もシンの顔を見ない。
喉。
手首。
指先。
視線が一瞬ずつ触れては、離れる。けれど今日は、昨日よりも短い気がした。
リュックの中に布があるからだろうか。そう考えて、シンは嫌になった。布はただの布だ。そう思うには、少し遅かった。
シンは駅の入口を見た。奈々香は来ない。
五分。
十分。
人は流れていく。信号が変わる。誰かが笑う。
その笑い声は、すぐに遠ざかった。
シンはリュックに手を伸ばした。布を返す。そのために来た。けれど、返す相手がいなければ、帰るしかない。
そう思った時、広場の脇から女の笑い声が聞こえた。明るい声だった。
駅前の広場の横に、小さな公園がある。
ブランコ。
すべり台。
砂場。
背の低い植え込み。
子どもが遊ぶには狭く、大人が休むには落ち着かない場所だった。
ベンチに、男女が座っていた。恋人同士に見えた。
女は明るい色の上着を着ている。男は黒いジャケットを羽織っている。二人の肩は触れ合っていた。
男が何かを言う。女が笑って、男の腕を軽く叩く。普通の光景だった。
少しだけ、見てはいけないものを見た気がして、シンは視線を戻そうとした。
けれど、女の声がまた聞こえた。
「もう、外でそういうこと言わないで」
「いいじゃん」
「よくないって」
「かわいいのに」
「そういうのが嫌なの」
女は笑っていた。怒っているようには見えない。男も笑っている。
男の手が、女の膝の上に置かれていた。女はそれを払う。男はまた置く。女が、呆れたように笑う。
それだけなら、ただのじゃれ合いだった。
シンは駅の入口へ視線を戻した。奈々香はまだ来ない。
背中のリュックが、少し重い。待っている間、自分の気持ちが人に見える気がした。
期待していること。
少し楽しみにしていること。
来なければ落ち込むこと。
そういうものが、全部、顔に出る気がする。
シンは息を吐いた。
その時、公園の方から、女の声が変わった。
「だから、昨日の話はもういいって」
さっきより低い声だった。
シンは振り返った。ベンチの二人は、まだ同じ距離にいた。
けれど、空気が変わった……
女は笑っていない。男は、女の手首を握っていた。
「誰といたの」
「友達」
「名前は?」
「言ったでしょ」
「聞いた名前と、匂いが違う」
シンは、そこで足を止めた。
匂い……
男は静かに言った。怒鳴ってはいない。むしろ、優しい声だった。
女は顔をしかめる。
「またそれ?」
「違ったよ」
「だから、友達だって」
「友達の匂いじゃない」
「もう、やめて」
女は男の手を振りほどこうとした。男の指は離れない。強く握っているようには見えない。それなのに、女の手首は逃げられなかった。
「痛い」
「痛くしてないよ」
「痛いって言ってる」
「離れようとするからだよ」
男は笑っていた。
口だけで。
その表情を見た時、シンは胸の奥が冷えるのを感じた。どこかで見た笑顔だった。
店員の笑顔。街の人間の笑顔。口だけが、形を作っている。
女は立ち上がった。
「帰る」
「まだ話してる」
「話にならない」
女は背を向けた。その動きが、少しだけ変だった。走ろうとしたのではない。
女の膝が、深く沈んだ。踵が浮く。背中が丸くなる。
身体が、一瞬だけ小さく縮む。次の瞬間、上へ弾けるはずだった。
そう見えた。
けれど、女は跳ばなかった。
足首に、白い糸が絡んでいた。
シンは息を止めた。
糸。
細く、白く、光で微かに反射して見える。それが女の足首に巻きついている。
一本ではなかった。
膝に。
腿に。
反対の足首に。
いつの間にか、いくつもの糸が絡んでいた。
女が振り返る。
「なに、これ」
男は立ち上がっていなかった。ベンチに座ったまま首を傾げ、女を見ている。
黒いジャケットの袖口から、白いものが伸びていた。指先ではない。手首のあたりからだった。
糸は、そこから出ている。
「危ないよ」
男は言った。
「跳んだら」
女の顔から、色が消えた。
シンは動けなかった。
公園の外を、人々が歩いている。誰も見ない。誰も立ち止まらない。
広場では信号が変わっている。店は開いている。人は歩いている。
形だけなら、何も変わらない。
女が叫んだ。けれど、その声は途中で擦れた。
高く、細く、耳の奥を引っかくような音になった。
女の脚が動く。跳ぼうとしている。逃げようとしている。
けれど、糸が引いた。女の身体が、地面へ戻される。膝が不自然な角度で折れた。
それでも、女は倒れなかった。両手を地面につき、また脚に力を入れる。人間の動きではなかった。
そう思った瞬間、男が笑った。
「ほら」
男はゆっくり立ち上がった。思っていたより、背が高い。黒いジャケットが、内側から引っ張られるように歪んでいる。
肩の位置が少しずれていた。
腕が、長い。
指も、長い。
男は糸を引いた。
女の足が揃う。足首と膝と腿が、白い線でまとめられていく。
まるで恋人同士が手を絡め合うみたいに……
「離して」
女が言った。
「離さないよ」
男は優しく答えた。
「恋人でしょ」
その言葉が、公園の空気に沈んだ。
シンは喉が狭くなるのを感じた。
奈々香の声を思い出す。
少し、そのままでいて。
今は、少し同じ匂いだね。
同じだ。
結ばれる。
離れない。
言葉だけなら、どれも優しく聞こえた。
男は女の足元にしゃがんだ。糸を指でなぞる。
足首。
ふくらはぎ。
膝。
まるで、ほどいているようにも見えた。けれど、糸は緩まない。むしろ、少しずつ食い込んでいく。
女のつま先が震えた。
男は顔を近づけた。
靴にではない。
足首に。
女が息を吸う。
「やめ」
最後まで言えなかった。
ぷつ。
小さな音がした。
シンの身体が固まった。聞いたことがある。
夢の中で。
小皿の上で。
口の中で。
黒い点が潰れた時の音。
男の口元は、女の足首に触れていた。噛みついているようには見えなかった。吸っているようにも見えなかった。
薄いものを剥がすように。
中にあるものを、確かめながら引き出すように。
女の脚が大きく跳ねた。
けれど、逃げることはできない。糸が、それを許さなかった。
男の肩がゆっくり上下する。
しゃく。
しゃく。
乾いたものを噛むような音がした。
骨ではない。
肉でもない。
もっと薄いものを、何枚も重ねて噛み切っているような音だった。
食べている。
シンはそう理解した。
理解してしまった。
女の足首の内側から、細いものが出ていた。糸のようだった。
血管のようにも見えた。植物の根のようにも見えた。
一本ではない。束になっている。
男はそれを口元へ運ぶ。
しゃく。
また、音がした。
女の指が、地面を掻いた。爪が砂を削る。擦れた音がする。
公園の外で、誰かが笑った。その笑い声は、こちらに向けられたものではなかった。
誰も、止めない。
誰も、助けない。
見えていないのか。それとも、見ていても何も思わないのか。シンには分からなかった。
男は次に、膝のあたりへ顔を寄せた。女の身体が、また跳ねる。
けれど、糸は緩まない。
足を奪われたものは、跳べない。
その当たり前のことが、ひどく残酷に見えた。
「やめろ」
声が出た。自分でも驚くほど、小さな声だった。けれど、出てしまった。
男の動きが止まった。
シンは息を止める。
公園の外の人々は歩き続けている。女は地面に手をついたまま、肩を震わせている。
男だけが、ゆっくりと顔を上げた。
その顔は、まだ人の形をしていた。けれど、口元だけが違っていた。
唇の端が、少し裂けている。歯は見えない。
代わりに、薄い透明なものが、口の中で何枚も重なっていた。
羽のようにも見えた。
膜のようにも見えた。
男の目が、シンを見た。
顔ではない。
喉。
首筋。
リュックの肩紐が擦れる場所。
シンは一歩下がった。
足元で、小石が鳴る。
男は笑った。
「変な目をするね」
優しい声だった。
「まるで、人みたいだ」
シンは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
逃げろ。
そう思った。
けれど、足が動かない。
男は女の足から口を離し、立ち上がった。白い糸が、袖口から地面へ垂れている。
それがゆっくり動いた。
生きているように。
「でも」
男は首を傾けた。
「中途半端な匂いだね」
リュックの中の布が、急に重く感じた。
奈々香の匂い。
街の匂い。
同じ匂い。
男が一歩、こちらへ動いた。女の足に絡んだ糸が、地面を擦る。
男はもう、女を見ていなかった。
シンを見ている。
いや、嗅いでいる。
シンはようやく足を動かした。
後ろへ。
逃げるために。
その時、背後から、熟れすぎた果実のような匂いがした。
声を出すより先に、白い手がシンの口をふさいだ。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
シンの運命が大きく動き出す第9話でした。
私生活の都合により、次の更新は数日後となります。
※本作は1章最終話までプロットが完成しておりますので、ご安心してお読みしてください。
是非恋と生存を骨の髄までお楽しみください。




