第十話 息をしないで…
声を出すより先に、白い手がシンの口をふさいだ。細い指だが華奢ではない。
シンは振り返ろうとした。だができない。もう片方の手が、背中のリュックごと身体を引く。後ろへ。公園の端へ。
植え込みと古いフェンスのあいだに、シンは押し込まれた。
背中が金網に当たる。肩が枝に触れる。口はふさがれたまま。すぐ近くで、奈々香の匂いがした。
「声、出さないで」
耳元で、奈々香が言った。昨日までと同じ、柔らかい声だった。けれど、その声は笑っていなかった。
シンは息を吸おうとした。口元を塞ぐ指が、少しだけ強くなる。
「ゆっくり」
奈々香は言った。
「少しだけでいい」
意味が分からなかった。けれど、逆らえなかった。
シンは口をふさがれたまま、鼻から細く息を吸った。奈々香の匂いが入ってくる。
甘い。
近い。
濃い。
喉の奥に残っていたものが、蠢いた気がする。吐きそうになる。奈々香の手は離れない。
「飲み込んで」
その言葉に、シンの身体が固まった。
飲み込む。さっき見たもの。足首に顔を寄せる男。
白い糸。
しゃく。
しゃく。
乾いた音。
飲み込んではいけないものまで、飲み込まされる気がした。
それでも、シンは喉を動かした。胃の奥が縮む。吐き気は、かろうじて引いた。
公園の方で、糸が地面を擦る音がした。
ざり。
ざり。
シンは目だけを動かした。
植え込みの隙間から、公園が見える。男が立っていた。黒いジャケットの肩が、少し歪んでいる。袖口から白い糸が垂れていた。その先に、女の脚が絡め取られている。
女は地面に手をついたまま、動いていなかった。生きているのか死んでいるのか分からなかった。
男は、こちらを見ていた。
正確には、見ているように見えた。
顔ではない。
シンが押し込まれている場所のあたり。
見つかっている。
そう思った瞬間、喉が鳴りそうになった。奈々香の指が、さらに強くなる。
「息をしないで」
奈々香が言った。
そんなの無茶だ…
息をしないと死ぬ。
そんな当たり前のことを、奈々香は分かっていないように聞こえた。声は冷たく、いつもより低い声だった。
シンは、ほんの少しだけ息を止めた。
男が一歩、こちらへ動いた。女の脚に絡んだ糸が、地面を引きずる。
ざり。
白い線が砂の上を走る。
公園の外では、人々が歩いている。誰も見ない。誰も止まらない。
「さっき、いたよね」
男が言った。優しい声だった。
誰に言ったのか分からなかった。シンにか。奈々香にか。それとも、この植え込みに向かって言ったのか。
奈々香は答えなかった。シンの口をふさいだまま、じっとしている。
その手は震えていない。息も乱れていない。まるで、こういう時にどうすればいいのか、最初から知っているみたいだった。
男が近づく。一歩。また一歩。
袖口から垂れた白い糸が、地面に触れた。ゆっくりと向きを変える。
探している。
匂いを探している。
そう分かった。
シンはリュックの肩紐を握った。中には、布がある。洗わなかった布。奈々香の匂いが残った布。
奈々香は、その手を見た。そして、音を立てないようにリュックを開けた。中から、薄い灰色の布を取り出す。
シンは目を見開いた。奈々香は何も言わなかった。
布を広げる。それを、シンの首元にかけた。
昨日と同じように。
ただ、昨日よりもずっと近く。
布が喉に触れる。奈々香の指が、その上から軽く押さえた。
シンの首筋。
リュックの肩紐が擦れる場所。
街の人間が何度も見ていた場所。
そこを、布が覆った。
匂いが濃くなる。甘さで、息が詰まりそうだった。
男の足音が止まった。
「消えた」
男が言った。
シンは息を止めたまま、目だけを動かした。
消えた。
何が?
自分の匂いか。山の匂いか。人の匂いか。
奈々香は、まだ口をふさいでいる。その手のひらの下で、シンは声を殺した。
男は少し黙った。それから、鼻で笑うような音を出した。
「隠した?」
奈々香は答えない。
男の顔が、こちらへ向く。口元だけが裂けている。薄い透明なものが、重なって揺れている。
羽のようにも見えた。
膜のようにも見えた。
その口で、さっき女の足を食べていた。
しゃく。
しゃく。
音が、まだ耳に残っている。
男は植え込みの前まで来た。
近い。近すぎる。
枝の隙間から、黒いジャケットの裾が見える。袖口から垂れた糸が、地面に触れている。その糸の先が、ゆっくりと左右に揺れた。
シンは足を動かせなかった。
奈々香の身体が、わずかに前へ出る。シンをフェンス側に押し込むように。
守っている。
そう見えた。
けれど、檻の奥へしまわれているようにも感じた。
「白いの」
男が言った。
奈々香を呼んでいる。
奈々香は、やっと口を開いた。
「食事中に、よそ見しない方がいいよ」
いつもの声だった。柔らかい。穏やか。けれど、少しだけ冷ややかだった。
男は植え込みの前で止まった。
「見たんだよ」
「誰が?」
「さっきの」
「さっきの?」
「人みたいな目をしたやつ」
「そう」
「食事中に見られるの、好きじゃないんだけど」
「なら、公園で食べなければいいよ」
男は少し黙った。
公園の外では、人々が歩いている。誰もこちらを見ない。誰も騒がない。女の声も、もう聞こえない。
「ここ、空いてたから」
「空いている場所と、食事をする場所は違う」
「見られなきゃ同じでしょ」
「見られた」
「だから探してる」
「食べ方を間違えたからだよ」
奈々香の声は変わらなかった。
男の糸が、少し動いた。葉の上を、白い線が滑る。
シンは口をふさがれたまま、息を止めた。
「なら、どこにいるの」
男が言った。
「もういない」
「匂いがあった」
「今はない」
「でも、白いの」
男の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「君の匂いが強い」
奈々香は笑わなかった。
「そう」
「隠す理由があるの?」
「ないよ」
「じゃあ、どいて」
「どうして?」
短い言葉だった。
それだけで、空気が重くなった。
男は動かない。奈々香も動かなかった。シンだけが、動けなかった。
胸が痛い。息を止める限界が近づいている。
鼻から少しだけ息が漏れた。奈々香の手のひらが、それをすぐに押さえる。
男の頭が、ぴくりと動いた。
終わった。
シンは思った。
男の糸が、植え込みの枝に触れる。白い線が、葉の上を滑る。こちらへ伸びてくる。
奈々香の指が、シンの首元の布を強く押さえた。匂いが、さらに濃くなる。
シンの視界が少し滲んだ。
男の糸が止まる。
すぐ目の前。
葉一枚の向こう側。
そこで、糸は迷うように揺れた。
「変だな」
男が呟いた。
「ここに、いた気がしたのに」
奈々香は言った。
「食べかけが冷めるよ」
食べかけ。
その言葉で、シンの胃が縮んだ。
女の脚。
足首。
白い糸。
しゃく。
音が戻る。
シンは吐きそうになった。けれど、吐けなかった。
奈々香の手が、まだ口をふさいでいる。
男はしばらく黙っていた。それから、小さく笑った。
「白いのは、相変わらず細かいね」
「あなたが雑なだけ」
「そうかい?」
「そうだよ」
会話だけなら、普通だった。少し癖のある知り合い同士が、どうでもいいことで言い合っているように聞こえた。
だから余計に、怖かった。
男は一歩下がった。糸が植え込みから離れる。
黒いジャケットの裾が揺れる。白い糸が地面を擦る。
ざり。
ざざり。
女の身体が、少し引きずられた。
シンは目を閉じた。見てはいけない。そう思った。
けれど、音は消えなかった。
しゃく。
少し離れた場所で、また音がした。
奈々香の手が、ようやくシンの口から離れた。
シンは息を吸った。吸いすぎて、咳き込む。
奈々香がすぐに指を口元へ当てた。
「まだ」
シンは咳を殺した。喉が痛い。胸が痛い。目に涙が滲んでいる。
奈々香はシンの首元の布を直した。昨日と同じ手つきだった。けれど、今は優しさよりも、手際のよさが目立った。
「大丈夫?」
奈々香が聞いた。
シンは答えられなかった。その言葉を、今は聞きたくなかった。
大丈夫。
そう言えば、話が終わる。終わってしまう。
けれど、大丈夫ではなかった。
シンは震える息を吐いた。
「あれは」
声が掠れた。
「あれは、何ですか」
奈々香はすぐには答えなかった。
公園の方を見ると男の背中が見える。しゃがんでいる。また、食べている。
公園の外では、まだ人が歩いているのに誰も止まらない。
「見ない方がいいもの」
奈々香は言った。
「そういう意味じゃないです」
「うん」
奈々香は頷いた。
「そういう意味じゃないのは、分かってる」
「じゃあ」
「でも、今は言わない」
シンは奈々香を見た。
白いワンピース。黒い髪。整った顔。
昨日までと同じ姿。なのに、同じには見えなかった。
「どうして」
「言ったら、シンが声を出すから」
「出しません」
「出すよ」
奈々香は静かに言った。
「さっき、出した」
何も言い返せなかった。
やめろ。
あの小さな声。あれだけで、男は気づいた。
この街では、人間らしい反応をするだけで、見つかる。
シンは首元の布に触れた。まだ巻かれている。奈々香の匂いがする。
「これ」
シンは言った。
「何なんですか」
「布だよ」
「そういう意味じゃ」
「うん」
奈々香はまた頷く。
分かっている。
そんな顔だった。
「シンは、まだ山の匂いが強いから」
「だから、隠したんですか」
「うん」
「俺を?」
「うん」
迷いのない返事だった。
シンは喉が狭くなるのを感じた。
「どうして」
奈々香は少しだけ首を傾けた。
「見つかったら、困るから」
「俺が?」
「うん」
「奈々香さんが?」
奈々香は、そこでほんの少し黙った。
それから言った。
「どっちも」
その答えは、優しく聞こえた。けれど、安心はできなかった。
どっちも。
それは、シンを心配しているようにも聞こえた。同時に、自分の都合を守っているようにも聞こえた。
シンは公園の方を見た。
女の姿は、植え込みに隠れてよく見えない。けれど、黒いジャケットの背中はまだ動いている。
しゃく。
しゃく。
小さいのに、はっきり聞こえる。
「助けないんですか」
言ってから、シンは自分の声が震えていることに気づいた。
奈々香は表情を変えなかった。
「今出たら、シンが見つかる」
「そうじゃなくて」
「そうだよ」
奈々香は言った。
「今は、それが一番大事」
シンは言葉を失った。
一番大事。
その言い方が、あまりにも自然だった。まるで、順番を確認しているだけみたいだった。
火が弱ければ薪を足す。水が足りなければ汲みに行く。見つかりそうなら、隠す。
そこに、女を助けるという選択肢は入っていない。
けれど、シンは何もできなかった。何もできないまま、奈々香の後ろに隠れている。そのことが情けなかった。
それ以上に、奈々香が来た時、安心してしまったことが嫌だった。
女が食べられている。男はまだそこにいる。それなのに、自分は奈々香の匂いに包まれて、少しだけ助かったと思っている。
シンは自分の胸の内側を見たくなかった。
「シン」
奈々香が名前を呼んだ。
小さく。近く。
「今は、動かないで」
シンは動けなかった。
動かないのではない。
動けなかった。
奈々香はそれを分かっているように、シンの手首を取った。
手を繋ぐのではなかった。握るのでもなかった。
ただ、逃げ出さないように、位置を確かめるように。
指が手首に触れる。街の人間が何度も見ていた場所。そこを、奈々香の指が覆った。
「帰ろう」
奈々香は言った。
「でも」
「今日は、帰ろう」
二度目の声は、少しだけ強かった。
シンは公園を見た。
男の背中。白い糸。女の靴。
片方だけ、砂場の端に転がっている。
シンは目を逸らした。
奈々香に手首を取られたまま、歩き出す。公園から離れる。駅前の広場へ戻る。
人は歩いている。信号は動いている。店は開いている。
何も起きていないみたいだった。
シンの耳には、まだ音が残っていた。
しゃく。
しゃく。
奈々香は何も言わない。ただ、シンの手首を離さない。
街の端まで来たところで、シンはようやく口を開いた。
「布」
奈々香が振り返る。
「返すために、来ました」
「うん」
「返します」
シンは首元の布に手をかけた。外そうとする。
けれど、奈々香の手がそれを止めた。
「まだ持ってて」
「どうして」
「シンは、まだ見つかりやすいから」
昨日と似た言葉だった。けれど、昨日とはまったく違って聞こえた。
見つかりやすい。
何に。
誰に。
どうして。
シンは聞けなかった。
聞いたら、答えが返ってくる気がした。そして、その答えを聞いたら、もう戻れない気がした。
山道の入口で、奈々香は立ち止まった。
「今日は、まっすぐ帰って」
「奈々香さんは」
「片づけることがあるから」
片づける。
その言葉に、シンは何も言えなかった。
奈々香はいつものように、少しだけ笑った。
「大丈夫」
シンはその言葉を聞いて、胸の奥が冷えた。
大丈夫。
便利な言葉。終わらせる言葉。隠す言葉。
奈々香の口から出ると、それは少しだけ違う意味に聞こえた。
「シン」
奈々香が言った。
「今日は、眠れると思うよ」
「どうしてですか」
「疲れたでしょ?」
それは間違っていなかった。けれど、それだけではない気がした。
シンは布を巻いたまま、山道へ入った。
数歩進んで、振り返る。奈々香はまだ街の端に立っていた。
白いワンピース。
黒い髪。
その奥に、駅前の公園がある。
人が歩いている。信号が変わる。店は開いている。
何も起きていない街の形をしている。
シンは山へ向かった。
首元の布が、歩くたびに肌に触れる。
喉。
首筋。
リュックの肩紐が擦れる場所。
そこを、奈々香の匂いが覆っている。
見つかりやすいから。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
小屋へ戻る頃には、空が暗くなっていた。
扉を開ける。中は冷えている。
シンはリュックを下ろし、椅子に座った。
布は、まだ首に巻いたままだった。
外せなかった。
外せば、何かに見つかる気がした。それが街のものなのか。山のものなのか。それとも、自分の中に残っている何かなのか。
分からなかった。
窓の外で、虫が鳴いていた。
小さく、細く、途切れずに。
シンは首元の布を握った。
奈々香が来た時、安心した。
その事実が、吐き気よりも深いところに残っていた。
耳の奥で、まだ音がしている。
しゃく。
しゃく。
その音が、いつまでも消えなかった。




