第十一話 僕の匂いと君の匂い
朝になっても、音は残っていた。
しゃく。
しゃく。
目を開ける前から、耳の奥で鳴っている。
小屋の中は静かだった。
窓の外で鳥が鳴いている。
沢の音もする。
風が枝を揺らす音もする。
山はいつも通りだった。
けれど、その静けさの底に、昨日の音が沈んでいた。
シンは布団の中で、しばらく動けなかった。
首元には、薄い灰色の布が巻かれている。
奈々香の布。
返すはずだったもの。
外せなかったもの。
それで隠されたもの。
シンは指先で布に触れた。
柔らかい。
ただの布だ。そのはずだった。
けれど、外す気にはなれなかった。
外せば、何かに見つかる気がした。
昨日の男に。
街の誰かに。
それとも、自分の中に残っている何かに。
シンは身体を起こした。
布が喉に触れる。
その感触だけで、昨日の奈々香の指を思い出した。
口をふさがれた手。
息を少なくしろと言った声。
飲み込んで、と言った声。
あの時、怖かった。
男が怖かった。
白い糸が怖かった。
女の脚が引きずられる音が怖かった。
それでも、奈々香が来た時、少しだけ安心した。
そのことを思い出すたび、胸の奥が重くなる。
女が食べられていた。
助けを求めていたかもしれない。
まだ生きていたかもしれない。
それなのに、自分は奈々香の匂いに包まれて、助かったと思った。
その事実が、一番気持ち悪かった。
シンは布をほどこうとした。
指が結び目に触れる。
少し引けば、外れる。
簡単だ。
けれど、手は止まった。
外せなかった。
「……何してるんだ」
声に出した。返事はない。
小屋の中には、シンしかいない。
なのに、奈々香の匂いがする。
薄く。
近く。
逃げ場をふさぐように。
朝食は作れなかった。
米を研ぐ気にもなれず、水だけを飲んだ。
喉を通る。
昨日より、飲み込みやすかった。
それが嫌だった。
布を巻いているからなのか。
奈々香の匂いがあるからなのか。
それとも、身体がもう慣れ始めているのか。
考えたくなかった。
シンは椅子に座った。
行かない方がいい。
そう思った。
昨日、奈々香は言った。
今日は、まっすぐ帰って。
言われた通りにした。
なら、今日は行かなくていい。
行く理由はない。
布を返す理由ならある。
昨日のことを聞く理由もある。
けれど、それは全部、街へ行くための言い訳に思えた。
シンは首元の布を握った。
昨日のあと、奈々香はどうしたのか。
片づけることがあると言った。
あの男と、また話したのか。
あの女は、どうなったのか。
知りたくなかった。
知りたくないのに、知らないままでいることの方が怖かった。
シンは立ち上がった。
リュックを背負う。
中には何も入れない。
買うものはない。
本当は、返すものもない。
布は、まだ首にある。
小屋の戸口で、一度足が止まった。
行くな。
そう思った。
行ったら、戻れなくなる。
そうも思った。
それでも、足は山道へ向いた。
街へ近づくほど、身体が少し軽くなる。
そのことが、また嫌だった。
駅前通りは、昨日と同じだった。
信号は動いている。
店は開いている。
人は歩いている。
形だけなら、何も変わらない。
シンは、公園の方を見ないようにした。
けれど、視線は勝手に向いた。
小さな公園。
ブランコ。
すべり台。
砂場。
背の低い植え込み。
古いフェンス。
昨日、女の靴が転がっていた場所。
何もなかった。
靴もない。
糸もない。
血もない。
引きずられた跡もない。
砂場の端には、落ち葉が二枚あるだけだった。
シンは息を止めた。
きれいすぎる。
何もなさすぎる。
昨日のことが、夢だったように見える。
けれど、耳の奥ではまだ音がしていた。
しゃく。
しゃく。
「来たんだ」
声がした。
シンは振り返った。
奈々香が立っていた。
白いワンピース。
黒い髪。
いつもと同じ顔。
昨日と同じ姿だった。
それなのに、昨日と同じには見えなかった。
シンは何を言えばいいのか分からなかった。
怒るべきなのか。
逃げるべきなのか。
問い詰めるべきなのか。
礼を言うべきなのか。
どれも違う気がした。
奈々香はシンの首元を見た。
布を見て、少しだけ目を細める。
「外さなかったんだ」
「……外せませんでした」
「うん」
奈々香は責めなかった。
笑いもしなかった。
ただ、分かっていたみたいに頷いた。
それだけで、シンの胸の奥が少し緩む。
そのことが、また嫌だった。
「昨日の」
シンは言った。
声が思ったより掠れていた。
「昨日の人は」
奈々香は公園の方を見た。
「もういないよ」
「死んだんですか」
奈々香はすぐには答えなかった。
風が吹いた。
奈々香の髪が少し揺れる。
「それを聞いて、どうするの?」
「……分かりません」
「助けたかった?」
シンは黙った。
助けたかった。
そう言えば、少しはましな人間に見える気がした。
でも、言えなかった。
本当に助けたかったなら、昨日の自分はもっと動けたはずだった。
声を出しただけで、動けなかった。
奈々香の後ろに隠れた。
安心した。
シンは自分の手を見た。
何もしていない手だった。
「助けたかったと、思います」
奈々香はシンを見た。
「思う?」
「分からないです」
シンは正直に言った。
「怖かったです。助けたいとも思いました。でも、奈々香さんが来た時、少し安心しました」
言ってしまった。
胸の奥に残っていたものが、声になって出た。
「女の人が、あんなことになっていたのに」
喉が詰まる。
「俺は、安心しました」
奈々香は何も言わなかった。
責めない。
慰めない。
否定もしない。
ただ、聞いていた。
それが余計に苦しかった。
「最低ですよね」
奈々香は少しだけ首を傾けた。
「どうして?」
「どうしてって」
「シンは、生きてる」
奈々香は静かに言った。
「生きているものが、助かって安心するのは普通だよ」
普通。
その言葉が、シンの中に落ちた。
街の普通。
奈々香の普通。
自分の知っている普通。
どれの話なのか分からなかった。
それでも、責められなかったことに、シンは少しだけ救われてしまった。
「奈々香さんは」
シンは顔を上げた。
「怖くないんですか」
「何が?」
「あの男です」
奈々香は少しだけ考えるように目を伏せた。
「怖くないよ」
あまりに簡単に言われて、シンは息を止めた。
「どうして」
「私は、この街の人だから」
その言葉は、普通の自己紹介みたいだった。
けれど、シンにはそう聞こえなかった。
この街の人。
昨日、女の足を食べていた男。
それを見ても止まらない人たち。
何もなかったように片づけられた公園。
その中に、奈々香もいる。
「あの人は、奈々香さんを襲わないんですか」
「普通はね」
「普通は」
「うん」
奈々香は軽く頷いた。
「昨日みたいに、食事中じゃなければ」
シンの胃が縮んだ。
食事。
昨日と同じ言葉。
奈々香はそれを、当たり前のように言った。
「慣れてるんですか」
奈々香はシンを見た。
「あれに?」
「……はい」
「ううん」
奈々香は少しだけ公園を見た。
「この街に」
答えになっているようで、なっていなかった。
けれど、シンはそれ以上聞けなかった。
「やめさせようとは、思わないんですか」
「公園では、やめた方がいいと思う」
「そういう意味じゃないです」
「うん」
奈々香は頷いた。
「でも、シンの意味では、たぶん言えない」
「どうして」
「私とシンで、見えているものが違うから」
それは、説明になっていないようで、少しだけ説明になっていた。
シンは公園を見た。
きれいな砂場。
誰も座っていないベンチ。
揺れていないブランコ。
ここで昨日、何かが食べられていた。
けれど、奈々香はそこを怖がらない。
避けもしない。
ただ、場所が悪かったと言う。
その慣れ方が怖かった。
「これ」
シンは首元の布に触れた。
「まだ持っていた方がいいんですか」
「うん」
「どうして」
「まだ、あなたの匂いが強い」
奈々香は言った。
「山の匂いですか」
「それもある」
「他には」
奈々香はシンの喉元を見た。
布に覆われた場所。
リュックの肩紐が擦れる場所。
街の人間が何度も見ていた場所。
「人の匂い」
シンは息を止めた。
人の匂い。
それがこの街で、どういう意味を持つのか。
もう少しだけ、分かってしまっていた。
「消した方がいいんですか」
「消すというより、隠した方がいい」
「どうして」
「見つかるから」
「誰に」
奈々香は答えなかった。
答えないことが、答えのようだった。
シンは首元の布を握った。
柔らかい。
ただの布だった。
けれど、昨日はこれで見つからなかった。
奈々香がいなければ、隠れられなかった。
そう思うと、布が少しだけ重くなった。
「俺は」
シンは言った。
「この街に来ない方がいいんですか」
奈々香はすぐには答えなかった。
少しだけ、シンを見ている。
「来ない方が安全だよ」
シンは頷いた。
当たり前だった。
分かっていた。
それを奈々香の口から聞いただけだった。
「でも」
奈々香は続けた。
「来たいなら、来てもいい」
シンは顔を上げた。
「いいんですか」
「うん」
「危ないのに」
「危ないよ」
「じゃあ、どうして」
奈々香は少しだけ笑った。
「シンは、来ると思ったから」
言葉が出なかった。
否定したかった。
来たくて来たわけではない。
聞きたいことがあった。
布を返したかった。
昨日のことを確認したかった。
そう言い訳はいくらでもできた。
けれど、小屋を出る時、自分は分かっていた。
行かない方がいい。
それでも、行った。
奈々香に会えるかもしれない場所へ。
シンは目を伏せた。
「怖いです」
「うん」
「奈々香さんも、怖いです」
言ってから、シンは息を止めた。
奈々香は怒らなかった。
傷ついた顔もしなかった。
ただ、静かに頷いた。
「うん」
その返事だけだった。
それで、少し救われてしまう。
怖いと言っても、離れていかない。
それが、安心になってしまう。
シンは自分の胸の内側を見たくなかった。
「でも、来ました」
小さな声で言った。
奈々香は何も言わない。
「来ない方がいいと思ったのに」
「うん」
「それでも、来ました」
奈々香はシンを見ていた。
責めない。
笑わない。
答えを急がせない。
その沈黙が、怖いのに不思議と楽だ。
「じゃあ、今日はそれでいいよ」
「それで?」
「来た。それだけでいい」
その言葉は、優しかった。
優しすぎた。
シンは、逃げ場を与えられているのか、逃げ場を塞がれているのか、分からなくなった。
奈々香が近づいた。
シンは後ろへ下がりかけた。
一歩だけ。
けれど、完全には下がらなかった。
奈々香の指が、首元の布に触れる。
結び目を少しだけ直す。
昨日と同じ手つきだった。
けれど、昨日よりも、シンは逃げなかった。
「まだ、あなたの匂いが強い」
奈々香が言った。
「だから、しばらく外さないで」
「……はい」
返事をしてから、シンは自分で驚いた。
拒むより先に、頷いていた。
奈々香は満足したように、布から手を離した。
「今日は、もう帰った方がいい」
「帰るんですか」
「シンは、まだ顔色が悪いから」
普通の心配みたいな声だった。
昨日のことを知っていて。
昨日の男を怖がらず。
昨日の女を助けなかった人の声だった。
それでも、心配されると、胸の奥が少し緩む。
シンはそれが嫌だった。
「帰ります」
「うん」
「今日は、ちゃんと帰ります」
「うん」
奈々香は頷いた。
「まっすぐ帰って」
昨日と同じ言葉だった。
シンは小さく頷いた。
山道の入口まで歩く。
奈々香は隣にいる。
手は繋がない。
触れてもいない。
それでも、距離が近かった。
シンは一歩分だけ離れた。
逃げるための距離なのか。
離れすぎないための距離なのか。
自分でも分からなかった。
山道の入口で、奈々香は立ち止まった。
「シン」
呼ばれて、振り返る。
「息、少なくできてたよ」
シンは目を伏せた。
褒められている。
そんな場合ではないのに、そう感じてしまった。
「できてません」
「昨日よりは」
「昨日よりは、です」
「うん」
奈々香は頷いた。
「それでいいよ」
シンは何も言えなかった。
怖い。
そう思った。
けれど、その怖さの奥に、ほんの少しだけ別のものが混じっている。
それが何なのか、まだ名前をつけたくなかった。
シンは山へ向かった。
首元には布がある。
耳の奥には音がある。
胸の奥には、安心してしまった自分がいる。
振り返ると、奈々香はまだ街の端に立っていた。
白いワンピース。
黒い髪。
何も起きていない街の入口。
シンは、布を外さなかった。




