第十二話 嘘でも好きって言われたら嬉しい?
布は、外さなかった。
外せなかったのではなく、外さなかった。
そう言い切れるほど、シンの中で何かが変わっていた。
朝、目が覚める。
首元に布がある。
奈々香の匂いがする。
それを確認してからでないと、身体を起こせなかった。
小屋の中は変わらない。
床板。
古い机。
煤の残った薪ストーブ。
窓の外の木々。
山は、昨日と同じように静かだった。
けれど、シンはもう、その静けさを前と同じものとして受け取れなかった。
静かすぎる。
誰もいない。
何も来ない。
何にも見つからない。
そのはずなのに、首元の布を外そうとすると、指が止まる。
昨日の男。
白い糸。
女の靴。
何もなかったように片づけられた公園。
それらが、布の外側にある気がした。
シンは顔を洗った。
水が冷たい。
頬に水を当てると、少しだけ目が覚める。
鏡はない。
だから、自分が今どんな顔をしているのか分からなかった。
顔色が悪い。
奈々香はそう言った。
それが気になって、シンは窓のガラスに映る自分を見た。
薄い顔が、ぼんやり映る。
首元には、灰色の布。
似合っているかどうかは分からない。
ただ、巻いていない自分よりは、少しだけ落ち着いて見えた。
昼前まで、シンは小屋にいた。
街へは行かない。
そう決めていた。
昨日、奈々香に言われた。
まっすぐ帰って。
帰った。
言われた通りにした。
なら、今日は行かなくていい。
行く理由はない。
布を返す理由ならある。
昨日のことを聞く理由もある。
けれど、それは全部、街へ行くための言い訳に思えた。
机の上に置いたメモを見る。
塩。
味噌。
乾麺。
絆創膏。
一番下に、薄く消しかけた字がある。
駅前。
シンはその文字を見た。
消したはずだった。
完全には消えていなかった。
指でこすっても、鉛筆の跡は残る。
紙が少し黒く汚れただけだった。
シンはメモを裏返した。
裏返しても、そこに書かれていたことは消えなかった。
昼を過ぎてから、シンは小屋を出た。
買うものはあった。
塩が少ない。
味噌も残りが少ない。
乾麺も、あった方がいい。
本当の理由ではない。
それでも、理由がないよりはましだった。
街へ下りる道は、何度も歩いた道だった。
木の根。
湿った土。
石の位置。
曲がる場所。
全部、覚えている。
それなのに、今日は少しだけ違って見えた。
山の匂いが、自分の匂いのように感じられない。
布の奥に、別の匂いがある。
奈々香の匂い。
それが、山の中でも薄く残っている。
自分だけが、もう少し街に近づいているような気がした。
駅前に着くと、人はいつも通り歩いていた。
店は開いている。
自転車が通る。
信号が変わる。
誰かが電話をしながら笑っている。
何も起きていない。
そう見える。
それが、もう怖かった。
シンは公園を見ないようにした。
今日は見ない。
見なくていい。
そう思った。
けれど、視界の端に、白いものが映った。
シンの足が止まる。
公園の入口に、奈々香が立っていた。
白いワンピース。
黒い髪。
静かな顔。
昨日と同じ場所。
何もなかったように、そこにいる。
奈々香はシンに気づくと、少しだけ目を細めた。
「来たんだ」
昨日と同じ言葉だった。
シンは少し息を止めた。
「買い物です」
「うん」
奈々香は頷いた。
信じたのか。
信じていないのか。
分からなかった。
「今日は、ちゃんと理由があるんだね」
シンは言い返せなかった。
奈々香はシンの首元を見た。
「外してない」
「……はい」
「えらいね」
褒める声だった。
柔らかい。
普通なら、優しいと思う声だった。
けれど、シンは少しだけ背中が冷えた。
何を褒められているのか、分からなかった。
言うことを聞いたことか。
隠れるために布を巻いていることか。
それとも、まだ逃げずにここへ来たことか。
「えらくは、ないです」
「どうして?」
「怖いから、外せないだけです」
「怖いのに、来たんだ」
シンは黙った。
奈々香は責めているわけではない。
ただ、事実を言っているだけだった。
それが一番、答えにくかった。
「買い物なので」
「うん」
「本当に」
「うん」
「……本当に、買うものがあります」
「じゃあ、あとで買えばいいよ」
その言い方が、あまりにも自然だった。
まるで、シンが奈々香と話すために来たことを、最初から予定に入れているようだった。
シンは逃げるように公園から目を逸らした。
「ここは」
声が少し詰まる。
「昨日の場所ですよね」
「うん」
「平気なんですか」
「何が?」
「ここにいることが」
奈々香は公園を見た。
ブランコ。
すべり台。
砂場。
ベンチ。
植え込み。
古いフェンス。
昨日と同じものが、昨日と違う意味で並んでいる。
「平気だよ」
奈々香は言った。
「片づいたから」
シンの胃が縮んだ。
片づいた。
その言葉を聞くたびに、昨日の女の靴を思い出す。
砂場の端に転がっていた、片方だけの靴。
「片づけたんですか」
「ううん」
「じゃあ」
「私は見ていただけ」
それもまた、怖かった。
自分で片づけたわけではない。
けれど、片づくことを知っている。
この街では、そういうことが起きても元に戻る。
奈々香はそれに慣れている。
「誰が」
「今は、知らなくていい」
また、それだった。
シンは少しだけ唇を噛んだ。
奈々香はその顔を見て、首を傾ける。
「怒ってる?」
「……分かりません」
「怖い?」
「怖いです」
「私も?」
シンは答えに詰まった。
昨日、言った。
奈々香さんも、怖いです。
言っても、奈々香は離れなかった。
それが、少しだけ安心になってしまった。
「怖いです」
シンは言った。
「でも、昨日よりは、少し違います」
「どう違うの?」
「分かりません」
「怖くなくなった?」
「それはないです」
奈々香は少しだけ笑った。
「正直だね」
「嘘をついた方がいいですか」
何気なく言ったつもりだった。
けれど、奈々香はその言葉に、少しだけ反応した。
ほんのわずかに、目が動く。
「嘘」
奈々香は繰り返した。
「シンは、嘘が嫌い?」
「好きではないです」
「つかない?」
「つきます」
即答だった。
自分でも少し驚いた。
奈々香は笑わない。
「どんな嘘?」
シンは言葉を探した。
大丈夫です。
平気です。
気にしないでください。
何でもいいです。
合わせます。
今まで何度も言ってきた言葉。
それが全部、嘘だったのかは分からない。
けれど、全部が本当だったとも言えない。
「相手が困らないようにする嘘です」
「自分が困らないようにする嘘じゃなくて?」
シンは息を止めた。
奈々香の声は柔らかい。
責められているわけではない。
でも、深く突き刺さる。
「……どっちもだと思います」
「そう」
奈々香は頷いた。
「それなら、優しい嘘だね」
「優しくはないです」
「どうして?」
「相手の為みたいに見せて、自分が嫌われたくないだけの時もあるから」
言ってから、シンは若菜の顔を思い出した。
雨の喫茶店。
疲れた顔。
カップの縁をなぞる指。
私のこと好きなんじゃなくて、嫌われないようにしてるだけでしょ。
あの声が、頭の奥で少しだけ響いた。
シンは目を伏せた。
奈々香は、黙って待っている。
「昔、言われたんです」
「何を?」
「俺は、人を好きなんじゃなくて、嫌われないようにしてるだけだって」
奈々香はシンを見ていた。
黒い目。
静かな顔。
「それは、嫌だった?」
「嫌でした」
「違うと思った?」
「分かりません」
シンは正直に言った。
「違うと言い切れなかったから、嫌でした」
風が吹いた。
奈々香の髪が少し揺れる。
シンはその動きを見ないようにした。
見てしまうと、別の記憶まで出てきそうだった。
「嫌われたくないのは」
奈々香が言った。
「好きとは違うの?」
シンは答えられなかった。
違う。
そう言いたかった。
けれど、違うと言い切れるほど、自分は恋をきれいに扱ってこなかった。
「分かりません」
「好きだから嫌われたくないの?」
「……たぶん」
「嫌われたくないから、好きみたいにするの?」
シンは何も言えなかった。
若菜の前で、自分はどちらだったのか。
分からなかった。
優しくしていた。
合わせていた。
恋人の顔をしていた。
分からないまましていた。
奈々香は静かにシンを見ている。
「それって」
奈々香は言った。
「外から見たら、違うのかな」
喉が詰まった。
違う。
違うはずだ。
そう思うのに、言葉にならなかった。
「シンは、分からないことが多いね」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
奈々香はいつも、そこで止めてくれる。
責めない。
急かさない。
答えを求めない。
その優しさが、だんだん逃げ道に見えてきていた。
そして、逃げ道に見えるものほど、怖い。
「じゃあ」
奈々香は言った。
「嘘でも、好きと言われたら嬉しい?」
シンは顔を上げた。
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
嘘でも。
好きと言われたら。
嬉しい。
普通の恋愛の話に聞こえる。
けれど、奈々香の口から出ると、何か違うものに聞こえた。
「それは」
シンは言った。
「誰に、ですか」
「誰でも」
「誰でもなら、困ります」
「嫌いな人には?」
「嫌だと思います」
「怖い人には?」
シンは奈々香を見た。
奈々香は、まっすぐ見返している。
「……分かりません」
「私は?」
聞かれると思った。
それでも、胸が詰まった。
奈々香は続ける。
「私が、嘘でも好きと言ったら、嬉しい?」
シンは答えられなかった。
怖い。
その言葉が先に来る。
昨日の公園。
白い糸。
見ていた奈々香。
街の人だと言った奈々香。
怖い。
けれど、その奥に、別のものが混じっている。
奈々香に好きと言われる。
たとえ嘘でも。
それを想像した瞬間、胸の奥が少しだけ動いた。
シンはそれを認めたくなかった。
「嘘なら」
声が掠れた。
「嬉しくないと思います」
「思います?」
奈々香は静かに聞いた。
シンは言葉を詰まらせた。
また、それだった。
言い切れない。
言い切れないことを、奈々香は見逃さない。
「……嬉しくない、はずです」
「はず」
奈々香は小さく繰り返した。
馬鹿にするようではなかった。
ただ、言葉の形を確かめているみたいだった。
「本当なら?」
奈々香が聞いた。
シンは息を止めた。
「本当なら、嬉しい?」
「分かりません」
「どうして?」
「怖いからです」
「好きと言われるのが?」
「奈々香さんに言われるのが」
言ってしまってから、シンは手を握った。
奈々香は怒らなかった。
「そっか」
それだけだった。
シンは続けた。
「奈々香さんが何なのか、分かりません」
「うん」
「この街が何なのかも、分かりません」
「うん」
「昨日のことも、分かりません」
「うん」
「だから、怖いです」
「うん」
「でも」
そこで言葉が止まった。
奈々香は待っている。
待つことが、うまい。
シンが言葉を選ぶ時間を、いつも奪わない。
だから、シンは言ってしまう。
「嘘でも、奈々香さんに嫌いと言われるよりは、ましだと思います」
言った瞬間、胸の奥が冷えた。
奈々香は少しだけ目を細めた。
嬉しそうに見えた。
けれど、本当に嬉しさなのかは分からない。
「そっか」
奈々香は言った。
「嫌われるのが怖いんだね」
シンは答えられなかった。
「嫌われるのが怖いなら」
奈々香は続けた。
「まだ、ここに戻ってこられるね」
シンの背中が冷えた。
その声は優しかった。
けれど、意味は優しくなかった。
嫌われるのが怖い。
だから、戻ってくる。
それを、奈々香は知っている。
知った上で、優しくしている。
シンは一歩下がった。
奈々香は追ってこなかった。
「怖がらせた?」
「……はい」
「ごめんね」
謝られた。
それだけで、シンの胸の奥が少し揺れた。
怖いことを言われたのに。
利用されているように感じたのに。
謝られると、少し許してしまいそうになる。
「そういうところが」
シンは小さく言った。
奈々香が首を傾ける。
「そういうところが、怖いです」
「優しいところ?」
「優しく見えるところです」
奈々香は少し黙った。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「見えるだけかもしれないよ」
シンは答えられなかった。
奈々香の言葉は、否定ではなかった。
慰めでもなかった。
ただ、可能性を置いただけだった。
優しく見えるだけかもしれない。
それでも、シンは離れなかった。
離れた方がいい。
そう思っているのに、立っている。
奈々香の前に。
首元には布がある。
奈々香の匂いがある。
「シン」
奈々香が言った。
「今日は、買い物するんでしょう」
「……はい」
「一人で行ける?」
「行けます」
「本当に?」
「行けます」
「じゃあ、私はここで待ってる」
シンは顔を上げた。
「待つんですか」
「うん」
「どうして」
「帰りに、布を見たいから」
「布を?」
「ずれていたら困るでしょう」
普通の心配のように聞こえた。
けれど、首元の布を見られることが、首輪を確認されるようにも感じた。
シンは何も言えなかった。
「嫌?」
奈々香が聞いた。
嫌だ。
そう言えばいい。
けれど、言えなかった。
待っている。
その言葉が、少しだけ嬉しかった。
買い物を終えて戻った時、奈々香がいる。
その想像が、怖いのに、胸の奥を少し温かくした。
「嫌では、ないです」
シンは言った。
また、その言葉だと思った。
奈々香は小さく頷いた。
「じゃあ、待ってる」
シンはスーパーへ向かった。
歩きながら、首元の布に触れる。
嘘でも、好きと言われたら嬉しい?
その問いが、頭の中で何度も繰り返された。
嬉しくない。
そう思いたかった。
嘘なら意味がない。
本当でなければ価値がない。
そう言い切れる人間でいたかった。
けれど、シンは知っていた。
自分は、嘘でもいいから欲しかったことがある。
大丈夫だよ。
嫌いじゃないよ。
いてもいいよ。
それが本当かどうかより、言われた瞬間に救われてしまうことがある。
シンは棚の前で立ち止まった。
塩。
味噌。
乾麺。
メモに書いたものを、順番にかごへ入れる。
必要なものだけを買っているはずだった。
けれど、頭の中では奈々香の声がしていた。
嘘でも、好きと言われたら嬉しい?
レジで、店員が言った。
「お箸はお付けしますか」
シンは少し息を止めた。
以前にも聞かれた言葉。
普通の言葉。
けれど、この街では普通に聞こえない。
「いえ、大丈夫です」
言ってから、胸の奥がざらついた。
大丈夫。
また使った。
店員は一瞬だけ、シンの首元を見た。
灰色の布。
それから、何事もなかったように商品を袋へ入れた。
「お気をつけて」
何に。
シンは聞かなかった。
袋を持って店を出る。
公園の入口に、奈々香はいた。
本当に、待っていた。
その姿を見て、シンは少しだけ安心した。
安心してしまった。
奈々香はシンの首元を見た。
「少しずれてる」
そう言って、近づいてくる。
シンは逃げなかった。
奈々香の指が布に触れる。
結び目を直す。
喉元を隠す。
街の人間が見ていた場所を、もう一度覆う。
「これでいい」
奈々香は言った。
「ありがとうございます」
シンは小さく言った。
礼を言うべきなのか分からなかった。
それでも、言ってしまった。
奈々香は少しだけ笑った。
「シン」
「はい」
「嘘でも、嫌いじゃないって言われたら?」
シンは顔を上げた。
奈々香は、さっきと同じ目で見ていた。
静かに。
逃げ道を残すように。
けれど、逃げ道の先も見ているように。
「少し」
シンは言った。
「少し、安心すると思います」
奈々香は頷いた。
「うん」
それだけだった。
好きとは言わない。
嫌いじゃないとも言わない。
ただ、シンに言わせる。
シンはそれに気づいた。
気づいたのに、嫌だとは言えなかった。
帰り道、山へ向かう前に、奈々香が言った。
「今日は、よくできたね」
シンは目を伏せた。
また、褒められている。
布を外さなかったことか。
買い物をしたことか。
問いに答えたことか。
逃げなかったことか。
分からなかった。
分からないまま、少しだけ嬉しかった。
その嬉しさが、怖かった。
「また来る?」
奈々香が聞いた。
シンはすぐには答えなかった。
来ない方がいい。
分かっている。
街は危ない。
奈々香も怖い。
昨日の音はまだ消えていない。
それでも、答えは口の奥にあった。
「……たぶん」
奈々香は笑った。
「たぶんでもいいよ」
その言葉を聞いて、シンは息を吐いた。
少しだけ、楽になった。
楽になってしまった。
山道に入ってからも、首元の布は外さなかった。
袋の中で、塩と味噌と乾麺が揺れる。
必要なものは買った。
買い物は終わった。
街へ行く理由は、もうない。
それでも、メモの裏に残った駅前の文字を、シンはまだ消せない気がした。
嘘でも、好きと言われたら嬉しい?
答えはまだ出ていない。
けれど、嘘でも嫌われていないと思えるだけで、少し息がしやすくなる。
そのことだけは、もう分かってしまった。
シンは首元の布を握った。
奈々香の匂いがした。
怖い。
そう思った。
それなのに、匂いが薄くなると、少し不安になった。




