第十三話 返事をしないで…
翌朝、布の匂いは薄くなっていた。
それだけで、シンは落ち着かない。
首元には、薄い灰色の布がある。
外していない。
眠る時も、食事をする時も、水を飲む時も、ずっと巻いたまま。
それなのに、匂いは薄くなる。
当たり前のことだ。
布についた匂いが、いつまでも同じ強さで残るわけがない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、指が何度も首元へ向かう。
微かに、奈々香の匂いがする。
甘い。
けれど、昨日より弱い。
その弱さが、不安だった。
シンは布から手を離した。
「……おかしいだろ」
声に出した。
小屋の中に返事はない。
机の上には、昨日のメモがある。
塩。
味噌。
乾麺。
絆創膏。
必要なものは、もう買った。
買い物に行く理由はない。
一番下の、消しかけた文字。
駅前。
シンはその文字を見る。
昨日より、濃く見えた。
昼前、シンは小屋を出た。
リュックは背負わなかった。
買うものがないからだ。
手ぶらで山道を下りるのは、少しだけ落ち着かない。
言い訳がない。荷物もない。
それでも、足は街へ向いた。
木の根を避ける。
湿った土を踏む。
石の位置を覚えている。
曲がる場所も分かる。
何度も歩いた道。
けれど、今日は自分がどこへ戻ろうとしているのか分からなかった。
山へ帰るのか。街へ行くのか。
それとも、奈々香のいる場所へ向かっているのか。
シンは首元の布に触れた。
匂いは薄い。
それでも、まだある。
それを確かめてからでないと、足が進まなかった。
駅前通りに出ると、街はいつも通りだ。
人が歩いている。
自転車が通る。
店の自動ドアが開く。
遠くで子供の笑い声がする。
何も起きていない街の形をしている。
それが、もう怖かった。
公園はきれいだった。
ブランコも、すべり台も、砂場も、植え込みも、昨日と同じようにそこにある。
きれいすぎるまま。
奈々香は、いなかった。
シンは足を止めた。
いない。
そのことに、少しだけ息が詰まった。
会いに来たわけではない。
そう思ったばかりなのに、身体は先に反応していた。
「シン」
背後から声がした。
振り返ると、奈々香が立っていた。
白いワンピース。
黒い髪。
静かな顔。
いつもと同じ姿だった。
それを見た瞬間、胸の奥が少し緩んだ。
シンはその感覚を、すぐに見ないふりをした。
「今日は、手ぶらなんだね」
「買うものは、昨日買ったので」
「じゃあ、今日は買い物じゃないんだ」
シンは答えられなかった。
奈々香はシンの首元を見る。
「匂い、薄くなった?」
シンは息を止めた。
「分かるんですか」
「うん」
「……少し」
「不安?」
すぐに答えられなかった。
不安。
その言葉が当たっていた。
「分かりません」
「分からない時の顔、少し分かるようになった」
「どんな顔ですか」
「逃げたいのに、立ってる顔」
シンは黙った。
奈々香は責めていない。
ただ、見たものを言っているだけだった。
それが怖かった。
「今日は」
奈々香は言った。
「少し歩こうか」
「どこへ」
「人が少ないところ」
その言葉に、身体が固まった。
人が少ないところ。
安全なのか。
危ないのか。
もう、シンには判断できなかった。
「嫌なら、ここで帰ってもいいよ」
奈々香はそう言った。
逃げ道を出された。
いつものように。
帰ってもいい。
嫌ならやめてもいい。
無理に来なくていい。
その言葉は優しい。
けれど、優しいほど断りにくくなる。
シンは首元の布に触れた。
薄くなった匂い。
まだ残っている匂い。
「……歩きます」
奈々香は小さく頷いた。
「うん」
二人は駅前通りを離れた。
表通りを少し外れたところで、奈々香が足を止めた。
シンも少し遅れて止まる。
歩道の端に、アゲハ蝶が落ちていた。
黒い翅に、黄色い模様。
片方の翅だけが、白っぽく擦れている。
その翅は、地面に貼りついたように動かなかった。
もう片方の翅だけが、かすかに震えている。
飛ぼうとしているのか。
逃げようとしているのか。
分からない。
ただ、足はまだ強かった。
細い足が、アスファルトのざらついた面を掴んでいる。
小さな身体が、何度も前へ進もうとしていた。
生きようとしている。
シンは、そう思った。
奈々香はしゃがんだ。
「まだ、強いね」
そう言って、近くの植え込みの葉に残っていた水滴を指先に集めた。
それを、蝶の口元にそっと近づける。
アゲハ蝶はしばらく動かなかった。
けれど、細い口がわずかに伸びた。
奈々香はそのまま待った。
水を飲んでいるのかもしれない。
シンは奈々香の横顔を見ていた。
優しい。
そう思いかけて、止まる。
昨日の白い糸を思い出した。
片方だけの靴を思い出した。
やがて奈々香は、蝶の翅をそっとつまんだ。
白っぽく擦れた方ではなく、まだ形の残っている方を、ほんの少しだけ。
乱暴ではなかった。
けれど、迷いもなかった。
そのまま持ち上げ、道の端の茂みの上に置く。
蝶は葉の上で、足を動かした。
翅は、やはりうまく開かない。
それでも足は葉を掴んでいた。
「これでいいんですか」
シンが聞いた。
奈々香は蝶を見たまま答えた。
「うん」
「飛べないかもしれません」
「そうだね」
「それでも、いいんですか」
奈々香は少しだけ首を傾けた。
「ここから先は、あの子のものだから」
シンは黙った。
「生きるなら、生きる」
「死ぬなら、死ぬ」
優しい声だった。
けれど、その中に、どこか冷たい線があった。
「私は、踏まれない場所に置いただけ」
アゲハ蝶は葉の上で、細い足を動かしている。
奈々香はそれ以上、触れなかった。
水も足さなかった。
手も伸ばさなかった。
「行こう」
そう言って、奈々香は歩き出した。
シンは一度だけ、茂みの上の蝶を見た。
奈々香は、もう振り返らなかった。
数歩進んだところで、奈々香がまた足を止めた。
歩道の端に、黒いものが裏返っていた。
潰れたゴキブリの死骸だった。
乾いた脚が、何本か変な方向を向いている。
奈々香は眉を寄せた。
「……気持ち悪い」
本当に嫌そうな声だった。
さっきまでアゲハ蝶に触れていた指を、奈々香は軽く握る。
それ以上、近づかなかった。
どかすこともしない。
ただ、少し避けて歩いた。
シンはその黒い死骸を見た。
それから、茂みの上のアゲハ蝶を思い出した。
その差を、うまく飲み込めなかった。
奈々香はもう、前を向いていた。
そこから一本、細い道へ入る。
音が少し変わった。
明るさも変わる。
建物の影が長く落ちている。
店の裏口。
積まれた段ボール。
錆びた室外機。
閉じたシャッター。
同じ街のはずなのに、表通りとは違う場所みたいだった。
奈々香は迷わず歩く。
シンは少し遅れてついていく。
「こっちは」
シンは言った。
「よく来るんですか」
「うん」
「人が少ないからですか」
「それもある」
「他には」
奈々香は振り返らなかった。
「見つかりにくいから」
シンは足を止めそうになった。
何に。
誰に。
聞きかけて、やめた。
聞いたところで、知らない方がよかったと思う気がした。
奈々香は細い道の奥へ進む。
路地はさらに狭くなった。
古いビルとビルの間。
低いフェンス。
換気扇の音。
どこかで水が流れている音。
シンは首元の布を押さえた。
匂いが薄い。
薄いから、心許ない。
それを奈々香に知られている気がした。
「シン」
奈々香が言った。
「声、少し小さくして」
シンは息を止めた。
「……何か、いるんですか」
「いる時もある」
「今は」
「分からない」
奈々香はそう言った。
分からない。
その言葉が、奈々香の口から出ると、余計に怖かった。
奈々香にも分からないものがある。
それがこの道の先にある。
シンは歩幅を小さくした。
奈々香は速度を合わせた。
そのことに少し安心してしまう。
怖い場所を歩いているのに。
奈々香が隣にいるだけで、少し息がしやすくなる。
シンはその自分を嫌だと思った。
路地の奥に、地下へ下りる階段があった。
普段なら見落とすような場所だった。
建物の横。
鉄の手すり。
半分錆びた扉。
扉の上には、文字の消えかけた看板がある。
読めない。
看板なのに、何の店なのか分からない。
奈々香はその前で足を止めた。
「ここは」
シンが聞く。
奈々香は答えなかった。
代わりに、シンの首元へ手を伸ばす。
布に触れる。
結び目を少しだけ直した。
「ずれてる」
「……ありがとうございます」
礼を言ったあとで、シンは自分が何に礼を言ったのか分からなくなった。
隠してくれたことか。
触れられたことか。
まだ見捨てられていないことか。
奈々香は扉を見ている。
その顔は、いつもより少し静かだった。
「この先は」
奈々香が言った。
「聞こえても、返事をしないで」
シンの背中が冷えた。
「何が聞こえるんですか」
「声」
「誰の」
奈々香はシンを見た。
「聞いてから考えた方がいいよ」
それは答えではなかった。
けれど、答えより怖かった。
奈々香は階段を下りた。
シンは一瞬迷った。
上に残ることもできた。
引き返すこともできた。
けれど、奈々香だけが下りていくのを見ると、足が勝手に動いた。
置いていかれる。
そう思った。
それが、思っていたより怖かった。
シンは階段を下りた。
空気が変わった。
湿っている。
少し冷たい。
古い鉄の匂いがする。
それに混じって、別の匂いがあった。
甘さではない。
山の匂いでもない。
汗。
埃。
乾いた口の中のような匂い。
シンは思わず息を止めた。
奈々香が振り返る。
「ゆっくり」
その一言で、シンは鼻から少しだけ息を吸った。
昨日と同じだった。
奈々香の言葉に合わせて、息の量を決める。
そのことに気づいて、シンは胸が冷えた。
階段の下には、細い通路があった。
蛍光灯が一本だけ点いている。
白い光が、壁の汚れを薄く照らしていた。
扉がいくつか並んでいる。
どれも閉まっていた。
人がいる気配はない。
それなのに、奥の方から音がした。
かすかな音。
何かが擦れる音。
それから、声。
「……誰か」
シンの足が止まった。
声だった。
人の声。
男か女か、すぐには分からなかった。
掠れている。
乾いている。
けれど、確かに言葉だった。
「誰か、いるんですか」
シンは息を止めた。
胸の奥が、急に強く脈打つ。
奈々香が手を伸ばした。
シンの手首を取る。
強くはない。
けれど、動くなという意味だと分かった。
「返事しないで」
奈々香が小さく言った。
「でも」
「しないで」
声は静かだった。
低くはない。
冷たくもない。
けれど、逆らえない強さがあった。
奥から、また声がした。
「お願いします」
今度は、はっきり聞こえた。
「帰してください」
シンの喉が鳴った。
帰してください。
その言葉が、体の中に入ってくる。
昨日の女の声は、もう聞こえなかった。
けれど、今の声は違う。
食べられている音ではない。
普通の言葉だった。
普通の人が、普通に怖がっている声だった。
「ここ、どこなんですか」
シンの指が震えた。
奈々香はシンの手首を離さない。
「俺、こんな場所知らない」
男の声だった。
若い。
シンとそれほど年が離れていないように聞こえた。
「スマホも繋がらないし、道も分からないし」
声が震えている。
「誰か、聞こえてるなら、返事してください」
シンは一歩、動こうとした。
奈々香の手が止める。
「シン」
「人です」
声が漏れた。
小さく。
けれど、確かに出た。
奈々香はシンを見た。
「声を出さないで」
「でも、人です」
「そう聞こえるね」
「聞こえるじゃなくて」
「シン」
奈々香の指が、手首に少しだけ食い込んだ。
痛くはない。
けれど、止まった。
「返事をしたら、シンも、あの声と同じになる」
意味は分からなかった。
けれど、怖かった。
あの奥から聞こえているものは、もう人の形では届かない。
声だけが、こちらに出てきている。
返事をすれば、自分もそちらに引かれる。
そう言われた気がした。
奥の方で、何かが動いた。
金属が擦れる音。
扉の向こうから、爪で引っかくような音がした。
「いるんだろ」
声が変わった。
怖がっている。
焦っている。
少し怒っている。
「なあ、いるんだろ。頼むよ」
シンは動けなかった。
奥の声は続く。
「ここ、変なんだよ」
その言葉が、通路に落ちた。
「人が、変なんだよ」
シンの目が大きく開いた。
奈々香の指が、ほんの少しだけ強くなる。
「俺、帰りたいだけなんだよ」
通路の奥で、何かが叩かれた。
どん。
どん。
扉。
壁。
何か硬いもの。
「なあ、聞こえてるなら」
そこで声が途切れた。
不自然に。
途中で切られたみたいに。
シンは息を止めたまま、奥を見る。
何も見えない。
ただ、蛍光灯の白い光が揺れている。
次に聞こえたのは、別の音だった。
湿った音。
何かを引きずる音。
それから、小さな笑い声。
人の笑い声に似ている。
でも、少し違う。
奈々香がシンを後ろへ引いた。
「戻るよ」
シンは首を横に振ろうとした。
できなかった。
「今は無理」
奈々香は言った。
「シンには、無理」
その言葉が悔しかった。
けれど、否定しきれない。
無理だった。
足が動かない。
声も出せない。
助けたいと思っているのに、奈々香の手を振り払えない。
奥から、もう一度音がした。
ずる。
ずる。
何かが床を引きずられている。
シンは目を閉じた。
昨日の音が戻る。
しゃく。
しゃく。
今日の音が重なる。
ずる。
ずる。
耳の奥がいっぱいになる。
奈々香がシンを階段の方へ引いた。
一段。
また一段。
上へ。
通路の白い光が遠くなる。
湿った空気が薄くなる。
外の明るさが近づく。
シンは何度も振り返りそうになった。
けれど、奈々香が首元の布を押さえた。
「見ないで」
シンは前を向いた。
階段を上がる。
地上に出る。
路地の空気は、さっきより乾いていた。
遠くで自転車のベルが鳴る。
誰かが笑っている。
表通りの音が、少しだけ戻ってくる。
奈々香の手が、ようやくシンの手首から離れた。
シンは大きく息を吸った。
喉が痛い。
胸も痛い。
「今の」
声が掠れた。
「今の人は」
奈々香は答えなかった。
シンは続けた。
「俺と同じですか」
奈々香は少しだけ目を伏せた。
答えたくない顔ではなかった。
答えを選んでいる顔だった。
「同じところもある」
シンの背中が冷えた。
「違うところもある」
「どういう意味ですか」
「シンは、まだ歩ける」
その答えに、シンは何も言えなかった。
まだ歩ける。
それは、あの声の主はもう歩けないという意味なのか。
それとも、シンはまだ自由だという意味なのか。
どちらにしても、明るい言葉ではなかった。
「他にも」
シンは言った。
「他にも、いるんですか」
奈々香はすぐには答えなかった。
風が、路地の中を通った。
白いワンピースの裾が少し揺れる。
「たまに」
奈々香は言った。
たまに。
その言い方が、あまりにも軽かった。
たまに雨が降る。
たまに道が混む。
たまに知り合いに会う。
そんな温度だった。
「たまに、来る」
「来る?」
「迷う」
奈々香は言い直した。
「ここへ」
シンは喉が乾いた。
ここへ。
この街へ。
この場所へ。
自分も、そうなのか。
山小屋から街へ下りているつもりだった。
でも、本当にそうなのか。
いつから。
どこから。
どうやって。
考えようとすると、頭の奥が白くなる。
「俺も」
言いかけて、声が止まった。
奈々香は何も言わない。
言わないことが、答えのように感じた。
シンは首元の布を握った。
匂いが近い。
奈々香がさっき触れたせいか、少し濃くなっている気がした。
そのことに安心しかけて、シンは奥歯を噛んだ。
「どうして」
シンは言った。
「教えてくれないんですか」
「教えたら、シンは奥へ行くから」
「行きません」
「行こうとした」
何も言い返せなかった。
「でも」
シンは言った。
「放っておけないじゃないですか」
「放っておけないなら、どうするの?」
奈々香は静かに聞いた。
「助ける?」
シンは口を閉じた。
助ける。
そう言いたい。
けれど、言えなかった。
どうやって。
どこから。
何を相手に。
自分を守りながら、どう助けるのか。
何一つ、答えがなかった。
奈々香は責めなかった。
ただ、待っている。
その沈黙が胸を締め付けている。
「俺は」
シンは言った。
「何もできないんですか」
奈々香は少しだけ首を傾けた。
「今はね」
その言葉が、やけに優しく聞こえた。
今は。
できない。
けれど、いつかはできると言っているのか。
それとも、今は何もするなと言っているだけなのか。
シンには分からなかった。
けれど、少しだけ救われそうになった。
それが嫌だった。
奈々香はシンの首元に手を伸ばした。
布を直す。
ゆっくり。
丁寧に。
シンは逃げなかった。
「今日は、もう帰った方がいい」
「またですか」
言ってから、シンは自分で驚いた。
また。
その言葉には、少しだけ不満が混じっていた。
帰らされることに。
置いていかれることに。
奈々香はそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「帰りたくない?」
シンは答えられなかった。
帰りたい。
帰りたくない。
どちらも違った。
あの声を置いて帰りたくない。
奈々香に置いていかれたくない。
街にいたくない。
でも、小屋へ戻っても、何も分からないままだ。
「分かりません」
奈々香は頷いた。
「じゃあ、帰ろう」
「分かりませんって言ったんですけど」
「うん」
「なのに、帰るんですか」
「分からない時は、危ない方に行かない方がいい」
正しい。
それは正しかった。
正しいから、苦しかった。
シンは首元の布を握った。
「奈々香さんは」
声が少し震えた。
「俺を、助けてるんですか」
奈々香はシンを見た。
長い沈黙だった。
路地の奥から、かすかに音がした気がした。
人の声ではない。
でも、何かがいる音だった。
奈々香は言った。
「シンが、まだ歩けるようにしてる」
助けているとは言わなかった。
守っているとも言わなかった。
まだ歩けるようにしている。
その言葉は、優しいようで、ひどく冷たかった。
シンは何も言えなかった。
奈々香は歩き出した。
シンもついていく。
表通りへ戻る。
光が強くなる。
人の声が増える。
さっきの通路が嘘だったみたいに、街は普通の顔をしていた。
シンは何度も振り返りそうになった。
けれど、振り返らなかった。
振り返ったら、またあの声が聞こえる気がした。
聞こえたら、今度こそ返事をしてしまいそうだった。
駅前の近くまで来ると、奈々香は立ち止まった。
「まっすぐ帰って」
昨日も聞いた言葉。
今は、それに少し腹が立った。
けれど、従うことに安心もした。
自分で決めなくていい。
どこへ行くかを、奈々香が決めてくれる。
それが楽だった。
楽だと思ってしまうことが、怖かった。
「分かりました」
シンは言った。
奈々香は頷いた。
「布は外さないで」
「……はい」
「今日は、匂いが薄いから」
シンは首元を押さえた。
「また、濃くなりますか」
聞いてから、シンは自分の声に驚いた。
それは質問というより、願いに近かった。
奈々香は少しだけシンを見た。
それから、布に触れる。
指先で、首元を軽く押さえる。
「少しは」
奈々香は言った。
「でも、まだ足りない」
足りない。
何が。
匂いか。
隠す力か。
奈々香に近い何かか。
シンは聞けなかった。
山道へ入る。
奈々香は街の端で立っている。
白いワンピース。
黒い髪。
何も起きていない街の入口。
シンは歩いた。
首元の布を握ったまま。
耳の奥には、昨日の音がある。
しゃく。
しゃく。
そこに、今日の声が重なる。
誰か。
帰してください。
俺、帰りたいだけなんだよ。
シンは足を止めそうになった。
けれど、奈々香の声が先に浮かぶ。
返事をしないで。
戻るよ。
今は無理。
シンには、無理。
悔しかった。
怖かった。
それでも、シンは歩いた。
奈々香に言われた通り、まっすぐ山へ帰った。
小屋に着く頃には、空が少し暗くなっていた。
扉を開ける。
中は静かだった。
シンは椅子に座った。
布は外さなかった。
机の上のメモを見る。
駅前。
その文字の横に、知らないうちに爪の跡がついていた。
シンは鉛筆を取った。
何かを書こうとして、止まる。
帰りたい。
そう書きかけて、手が震えた。
自分の言葉なのか。
あの声の言葉なのか。
分からなかった。
シンは鉛筆を置いた。
首元の布を握る。
奈々香の匂いは、さっきより少しだけ濃くなっていた。
怖い。
けれど、その匂いがある間だけ、あの声に返事をしなくて済む気がした。




