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恋と生存 〜誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた〜  作者: α


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第十四話 分岐点

帰りたい。


朝になっても、その言葉は残っていた。

けれど、シンはその言葉をメモには書かなかった。


机の前に座り、鉛筆を持つ。

紙の上には、昨日から残っている文字がある。


駅前。


その横についた、爪の跡。

シンは少し迷ってから、その下に別の言葉を書いた。


聞く。


書いた瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。


帰りたい。

そう思っている。

けれど、どこへ帰りたいのか分からない。


小屋にいる。

山にいる。

誰もいない場所にいる。


それでも、帰りたいという言葉だけが残っている。

昨日の声の言葉なのか。

自分の中にもともとあった言葉なのか。

区別がつかなかった。


だから、聞くしかない。


そう思った。

聞く相手が奈々香しかいないことに気づいて、シンは鉛筆を置いた。


また、奈々香に会いに行く理由を作っている。


買い物ではない。

散歩でもない。

布でもない。

今度は、問いだった。


問いなら、許されるのか。

それも分からなかった。


首元には、薄い灰色の布がある。

奈々香の匂いは、また少し薄くなっていた。

完全には消えていない。

けれど、昨日より弱い。


その弱さが恐怖心を煽る。


シンは布を握った。

外すことは考えなかった。

洗うことも考えなかった。

それがもう、自分のものではない気がした。


自分の首に巻かれているのに。

自分で外せるはずなのに。


昼前、シンは小屋を出た。

リュックは背負わなかった。

買うものはない。


手ぶらのまま山道を下りる。


木の根を避ける。

湿った土を踏む。

石の位置を覚えている。

曲がる場所も分かる。


何度も歩いた道だった。

それなのに、昨日から足元が少し頼りない。


山から街へ下りている。

ずっとそう思っていた。

でも、本当にそうなのか。


山と街のあいだに、自分の知らないものが挟まっているのではないか。

そんな考えが、土の下から滲むように浮かんでくる。


シンは首元の布を押さえた。

考えすぎだ。

そう思おうとした。


けれど、昨日の声が邪魔をする。


俺、こんな場所、知らない。


その言葉だけが、妙にはっきり残っていた。


駅前に着くと、街は今日も普通の顔をしていた。


人が歩いている。

店が開いている。

自転車が通る。

信号が変わる。


誰も昨日の声を知らないような顔をしている。


公園も見えた。


ブランコ。

すべり台。

砂場。

植え込み。


白い糸も、片方だけの靴もない。


何もない。

何もなさすぎる。


シンは公園の前で立ち止まった。

奈々香はいなかった。

胸が少し締まる。


今日は聞きに来た。

会いたくて来たわけではない。

そう思う事にする。


「シン」


声がした。

振り返る前に、身体が少し緩んだ。


奈々香は、いつものように立っていた。


白いワンピース。

黒い髪。

静かな顔。


昨日、地下へ下りたことも、あの声を聞いたことも、何もなかったみたいに。


「来たんだ」


「聞きたいことがあります」


シンはすぐに言った。

言ってから、自分でも少し驚いた。

奈々香は怒らなかった。

少しだけ目を細めた。


「うん」


「昨日の人は、何だったんですか」


奈々香は答えなかった。

シンは続けた。


「まだ、いるんですか」


「聞きたい?」


「聞きたいです」


「聞いたら、昨日より怖くなるかもしれないよ」


「それでも、聞きたいです」


奈々香はしばらくシンを見ていた。

その目は、シンの言葉ではなく、言葉の奥を見ているようだった。


「昨日の人は」


奈々香は言った。


「まだ、声が届くところにいた」


「まだ?」


「うん」


「どういう意味ですか」


「奥に行けば、声も届かなくなる」


シンは息を止めた。


昨日の地下通路。

白い蛍光灯。

閉じた扉。

湿った音。

人の笑い声に似たもの。


そこへもう一度行く。

想像しただけで、胃の奥が縮んだ。


奈々香は静かに言う。


「行く?」


シンは答えられなかった。


行きたくない。

でも、聞きたい。

助けたい。

でも、近づけない。


胸の中で言葉が絡まる。

奈々香は責めなかった。


「行かない方がいいよ」


「だったら、聞かせてください」


「何を?」


「俺も、ああなるんですか」


言った瞬間、表通りの音が少し遠くなった。


自転車のベル。

店の自動ドア。

誰かの話し声。


全部が薄くなる。


奈々香はすぐには答えなかった。

困っているようにも怒っているようにも見えなかった。

ただ、言葉を選んでいる。

そういう顔だった。


「シンは」


奈々香が言った。


「怖い答えでも聞く?」


「……聞きます」


「本当に?」


シンは頷いた。

頷いたはずなのに、身体の奥はもう逃げていた。

息を飲む。


奈々香は一歩近づいた。

シンは動けなかった。


奈々香の指が、首元の布に触れる。

結び目を直す。

喉元を隠す。


いつもと同じ手つきだった。


丁寧で。

静かで。

優しく見える手つき。


「奈々香さん」


「うん」


「答えてください」


奈々香は布から指を離さなかった。

布越しに、喉元を軽く押さえる。


痛くはない。

けれど、そこにあるものを確かめられているようだった。


「今は、食べないわ」


一瞬、意味が入ってこなかった。


食べない。


その言葉だけが先に届いた。

なら、大丈夫なのか。

そう思いかけた。


遅れて、最初の二文字が戻ってくる。


今は。


シンの背中が冷えた。


「……今は」


奈々香は頷いた。


「うん」


「食べるって」


声が掠れた。

奈々香は何も言わなかった。


「俺を、ですか」


奈々香は答えなかった。

否定もしなかった。


シンは一歩下がった。

奈々香は追ってこなかった。


逃げてもいいよ。


そう言われている気がした。

でも、逃げた先まで見られている気もした。


怖い。


はっきり、そう思った。


奈々香が、自分を食べる。


その形が、目の前に置かれた。

なのに、その形は、すぐに崩れた。


手を繋いだことがある。

布を巻いてもらった。

待っていてくれた。

怖いと言っても、離れなかった。

謝ってくれた。

帰った方がいいと言ってくれた。


そんな相手が、自分を食べる。


想像しようとすると、どうしても途中で止まる。

奈々香の口元に血がつく前に、首元の布を直す指が浮かぶ。

歯を立てられる前に、あの静かな声が浮かぶ。


たぶんでもいいよ。

謝らなくていいよ。

来た。それだけでいい。


それらが邪魔をする。


怖いのに。

怖いだけで、奈々香を見られない。


「からかってるんですか」


そう聞いた。

そうであってほしかった。


奈々香は少しだけ首を傾けた。


「そう思う?」


答えはなかった。

肯定も否定もない。


だから、シンは自分で逃げ道を作りそうになった。


そうかもしれない。

この街では、食べるという言葉の意味が違うのかもしれない。

奈々香は、自分が怖がるのを見て試しているだけかもしれない。

いつもの、少し意地悪な問いかけかもしれない。


嘘でも、好きと言われたら嬉しい?


あの時と同じように。

本気ではないのかもしれない。

そう思おうとした。


けれど、奈々香は否定しなかった。

そのことだけが、逃げ道の真ん中に残っていた。


「どうして」


シンは言った。


「今は、なんですか」


奈々香の指が、布の上で止まる。


「今は、は、今はだよ」


「答えになってません」


「うん」


「どうして、食べないんですか」


聞いてから、シンは自分の言葉にぞっとした。


食べることを前提にしている。

自分で。


奈々香は怒らなかった。

笑いもしなかった。

ただ、シンの首元を見ている。


「まだ、あなたの匂いが強い」


「それは、前にも聞きました」


「うん」


「それが関係あるんですか」


「あるよ」


「どう関係あるんですか」


「見つかりやすい」


「誰に」


「いろんなものに」


「奈々香さんにも?」


そう聞いた瞬間、奈々香の目が少しだけ動いた。

シンは、自分で言ってから胸が冷えた。


奈々香にも見つかっている。

奈々香も、自分を見ている。

隠してくれている。

でも、それは見つけた側だからできることなのかもしれない。


奈々香は小さく頷いた。


「私にも」


シンは言葉を失った。


「でも」


「私は、シンを雑には扱わない」


雑には。


その言い方が嫌だった。


大切にするとは言わない。

助けるとも言わない。

守るとも言わない。


雑には扱わない。


それはまるで、壊れやすいもの。

珍しいもの。

自分のもの。


そういう何かへの言葉だった。


「僕は物じゃないです」


「うん」


「食べ物でもないです」


奈々香はすぐには答えなかった。

その沈黙が、シンの胸を締めつけた。


否定してほしかった。

そんなわけないよ。

そう言ってほしかった。


けれど、奈々香は言わなかった。


「シンは、シンだよ」


奈々香は言った。

柔らかい声だった。


けれど、それは否定ではなかった。


食べ物ではない、とは言わなかった。

物ではない、とも言わない。

ただ、シンはシンだと言った。


その言葉に、シンは少しだけ救われそうにる。

救われてはいけない言葉だと分かっているのに。


「それは」


シンは聞いた。


「食べない理由になりますか」


奈々香は少しだけ黙った。


「今はね」


また、それだ。


今は。


その二文字が、胸の奥に沈む。

でも、最初ほど怖くなかった。


怖いはずなのに。

むしろ、その二文字の中に隙間を見つけてしまった。


今は。

今すぐではない。

まだ、決まっていない。

これから変わるかもしれない。


そんな考えが浮かんだ。

おかしい。

そう思った。

でも、完全には消せなかった。


「怖い?」


奈々香が聞いた。


「怖いです」


今度はすぐに答えた。


「うん」


「でも」


「でも?」


シンは言葉を探した。


怖い。

奈々香が怖い。

自分が食べられるかもしれないことが怖い。


それなのに、奈々香から離れる想像も怖い。


言葉にすると、どれもおかしい。

だから、少し違う言い方をした。


「奈々香さんが、俺を食べるところが想像できません」


奈々香は瞬きをした。


「どうして?」


「今まで」


シンは言った。


「そういうふうに見えなかったから」


「優しかったから?」


「……優しく見えたから」


奈々香は少しだけ笑った。


「見えるだけかもしれないよ」


前にも聞いた言葉だった。

それでも、シンは返した。


「それでも、見えたものが全部嘘だったとは思えません」


言ってから、自分でも驚いた。


自分は奈々香をかばっているのか。

それとも、自分の見たものを守ろうとしているのか。

分からなかった。


奈々香はシンを見ていた。


黒い目。

静かな顔。


その奥に何があるのか、シンには見えない。


「シンは」


奈々香が言った。


「私を信じたいの?」


シンは答えられなかった。


信じたい。

そうなのかもしれない。

でも、信じてはいけない気もする。


「分かりません」


「うん」


「でも」


「うん」


「全部、嘘だったとは思いたくないです」


奈々香は何も言わなかった。

ただ、少しだけシンの首元へ手を伸ばした。


布に触れる。

結び目をなぞる。


「じゃあ、今はそれでいいよ」


「それでいいんですか」


「うん」


「何も答えてないのに」


「答えなくても、ここにいるから」


その言葉に、シンは息を止めた。


ここにいる。


それだけでいい。

奈々香は何度もそういう言い方をする。


答えなくていい。

分からなくていい。

怖がっていい。

でも、ここにいればいい。


その言葉には、逃げ道みたいな柔らかさがあった。

けれど、先には進ませない柔らかさだった。


踏み込めば、沈む。

分かっているのに、足を抜けない。


「逃げてもいいですか」


シンは聞いた。

奈々香は少しだけ首を傾けた。


「今?」


「今じゃなくても」


「いいよ」


あまりにも簡単に言われた。

シンは眉を寄せる。


「いいんですか」


「うん」


「逃げたら、追わないんですか」


奈々香は答えなかった。

その沈黙だけで、シンは分かった。


追うのかもしれない。

追わないのかもしれない。

けれど、逃げた先に何があるかを、奈々香は知っている。


だから止めない。

それだけなのかもしれない。


「逃げたい?」


奈々香が聞いた。

シンは公園を見た。


駅前の通りを見た。

人の顔。

店の入口。

遠くの路地。

昨日の地下へ続く道。


どこへ逃げるのか。


山か。

小屋か。

それとも、知らないどこかか。


考えても、逃げる先がまるで見えなかった。


「分かりません」


「そっか」


「分からないことばかりですね」


「うん」


「嫌になりませんか」


「ならないよ」


「どうして」


奈々香は少しだけ目を細めた。


「シンは、まだ歩けるから」


昨日も聞いた言葉だった。

けれど、今日は少し違って聞こえた。


歩ける。


逃げられるという意味なのか。

戻ってこられるという意味なのか。

まだ食べない理由なのか。


シンには分からなかった。


奈々香はシンの布を軽く押さえた。


「今日は、少し残しておくね」


「何を」


「シンが帰れるもの」


奈々香は一歩近づいた。

近い。


逃げようと思えば、逃げられる距離だった。

でも、逃げなかった。


奈々香の髪が、風で少し揺れる。

甘い匂いが近づく。

熟れすぎた果実のような匂い。


布に残っていたものより、ずっと濃い。


シンの息が浅くなる。


奈々香は、首元の布を両手で包むように触れた。

強くはない。

抱きしめるわけでもない。

ただ、そこに自分のものを残すように。


シンは目を閉じそうになった。


怖い。


そう思った。


でも、それ以上に、安心が先に来そうになる。


「これで、少しは大丈夫」


奈々香が言った。


「何が、大丈夫なんですか」


「帰るまで」


「その後は」


奈々香は少しだけ笑った。


「その後のことは、その後に考えよう」


その言い方には、今日だけなら許されるような響きがあった。

けれど、答えはどこまでも先へ送られていく。


先へ送られるたびに、シンは今日を受け入れてしまう。


今日だけ。

今だけ。

まだ。


その言葉に、少しずつ慣れていく。


「奈々香さん」


「うん」


「俺は、これからどうなるんですか」


奈々香の指が、布の上で止まった。

ほんの一瞬。

けれど、確かに止まった。


「シンは、どうなりたいの?」


答えられなかった。


助かりたい。

逃げたい。

知りたい。

そばにいたい。


どれも違うようで、どれも少しずつ本当だった。


「分かりません」


奈々香はしばらく黙っていた。

それから、ゆっくりと言った。


「じゃあ、これから考えよう」


その言葉は、ひどく柔らかかった。


これから。

一緒に。


そんな響きがあった。


シンは怖くなった。

自分が、その響きに少し救われたから。


奈々香は布から手を離した。


「今日は帰って」


シンは頷いた。


「はい」


「布は外さないで」


「はい」


「考えすぎないで」


「それは無理です」


奈々香は少しだけ笑った。


「じゃあ、考えてもいいよ」


「いいんですか」


「うん」


「でも、答えを急がないで」


シンは黙った。

奈々香は続ける。


「急ぐと、間違えるから」


何を。


そう聞けなかった。

間違えた先に何があるのか、知りたくなかった。


山道へ入る。

奈々香は街の端で見送っていた。


白いワンピース。

黒い髪。

何も起きていない街の入口。


シンは歩いた。

首元の布には、奈々香の匂いが濃く残っている。


怖い。


けれど、昨日より息がしやすかった。


それが、何より怖かった。


小屋に戻る頃には、空が暗くなり始めていた。

扉を開ける。

中は静かだった。


シンは机の前に座った。

布は外さなかった。


メモを見る。


駅前。

聞く。


その下に、鉛筆を置く。


食べない。


そう書きかけて、手が止まった。


違う。


奈々香は、そうは言っていない。


シンは息を吐いた。


今は、食べない。


文字にすると、喉の奥が冷えた。

けれど、目はその文字から離れなかった。


今は。

まだ。

これから。


その三つだけが、妙にやさしく見えた。


シンは首元の布を握った。

奈々香の匂いがする。


怖い。

それは変わらない。


けれど、怖いだけなら、ここには戻ってこなかった。


食べられないものになればいい。


ふと、そんなことを思った。

思ってから、シンはしばらく動けなかった。


逃げることではなく、そうなることを考えた自分が、怖かった。

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