第十五話 誰かのもの
朝、シンはメモを見た。
駅前。
聞く。
今は、食べない。
その下には、まだ何も書かれていない。
食べられないものになればいい。
昨日、そう思った。
朝になっても、その考えは消えていなかった。
それが何なのかは分からない。
ただ、逃げるより先に、その方法を考えている。
そのことだけは分かった。
シンは首元の布に触れた。
奈々香の匂いは、まだ残っている。
昨日より少し薄い。
シンが帰れるもの。
奈々香はそう言った。
帰れるもの。
その言葉を思い出すと、胸の奥が少し緩む。
緩んでから、冷える。
どこへ帰るのか。
考えて、シンは布を握った。
昼前、シンは小屋を出た。
買うものはない。
聞くこともない。
約束もしていない。
今日は、行かなくてもいい日だった。
山道の途中で、足を止める。
戻ろうと思えば、戻れる。
誰も見ていない。
奈々香もここにはいない。
小屋に戻ることもできる。
山の奥へ逃げることもできる。
けれど、足は街へ向いた。
逃げられる。
そう思うほど、逃げる理由が薄くなる。
駅前に着くと、街は今日も普通の顔をしていた。
人が歩いている。
店が開いている。
自転車が通る。
信号が変わる。
公園のブランコは動いていない。
砂場にも、植え込みにも、何もない。
シンは駅前の柱のそばに立った。
奈々香はいなかった。
少しだけ胸が締まる。
今日は約束していない。
いなくても普通だ。
そう思った。
そう思ったのに、胸の奥は納得しなかった。
「シン」
声がした。
振り返る前に、身体が少し緩んだ。
奈々香は、いつものように立っていた。
白いワンピース。
黒い髪。
静かな顔。
「来たんだ」
「……はい」
「約束してないのに」
シンは答えられなかった。
奈々香は首元の布を見る。
「外してない」
「外してません」
「どうして?」
「分かりません」
本当だった。
奈々香は小さく頷いた。
「今日は、少し歩き方を変えようか」
「歩き方?」
奈々香はシンの右手を見た。
「手、空いてるね」
シンは反射的に右手を握った。
奈々香は触れない。
「嫌なら、いいよ」
まただった。
いつも、そう言う。
帰ってもいい。
逃げてもいい。
嫌なら、しなくてもいい。
そのたびに、自分で選ばなければならなくなる。
「どうして、手を繋ぐんですか」
「その方が、見え方が変わるから」
「誰からの見え方ですか」
「この街を見るものから」
人とは言わなかった。
「恋人みたいに、ですか」
「うん」
「恋人ではないです」
言ってから、胸が少し痛んだ。
「うん」
「なのに、そう見せるんですか」
「その方が、近づかれにくいから」
「嘘でも?」
「シンも、必要なら使うでしょう」
否定できなかった。
奈々香が手を差し出す。
「嫌なら、いいよ」
シンはその手を見た。
それから、自分の手を重ねた。
白い指が、ゆっくり絡む。
強くは握られない。
「離せる?」
「離せます」
「うん」
シンは繋いだ手を見る。
離せる。
それなのに、離していない。
「奈々香さん、は少し遠いね」
シンは顔を上げた。
「呼び捨てですか」
「近く見える」
「それも、見せるため?」
「うん」
本当に近づくためではない。
そう見せるため。
分かっているのに、胸の奥が少し揺れた。
「……奈々香」
声に出すと、思っていたより小さかった。
奈々香は少しだけ目を細めた。
「うん」
それだけだった。
二人は歩き出した。
駅前通り。
人の多い場所。
普通の街。
普通の通り。
そこを、手を繋いで歩く。
どこから見ても、恋人のように見える。
恋人。
その言葉に、白い糸が重なる。
繋がれた足。
恋人でしょ。
あの男の声が、耳の奥に戻ってくる。
シンの指が強張った。
「思い出した?」
奈々香が言った。
「……はい」
「今日は、あれとは違うよ」
「どう違うんですか」
奈々香は繋いだ手を少し持ち上げた。
「離そうと思えば、離せる」
確かに、離せる。
奈々香は引き留めていない。
だから、今は離さなくてもいい。
そう思った自分が怖かった。
「逃げ道を出すの、上手いですよね」
奈々香は少しだけ笑った。
「逃げ道がない方がいい?」
「そういう意味じゃないです」
「うん」
「あるから、困るんです」
奈々香は何も言わなかった。
駅前の角を曲がったところで、足を止める。
「少し待ってて」
「どこへ行くんですか」
奈々香は向かいの小さな店を指した。
薄い暖簾。
曇ったガラス戸。
中はよく見えない。
「一緒に行かないんですか」
思ったより早く言葉が出た。
奈々香はシンを見る。
「一人で待てる?」
その聞き方に、少し腹が立った。
「待てます」
「うん」
奈々香は手を離した。
指が一本ずつ離れる。
右手が軽くなる。
その瞬間、駅前の音が少し大きくなった気がした。
奈々香は店へ入っていく。
白い背中が、暖簾の奥へ消えた。
シンは歩道に残された。
一人。
たったそれだけだった。
人通りはある。
店も開いている。
危ない場所ではない。
そう見える。
それなのに、右手が空いているだけで、首元の布が急に心許なくなった。
シンは布を握った。
奈々香の匂いはある。
でも、奈々香はいない。
「ねえ」
横から声がした。
シンは肩を揺らした。
女が立っていた。
年齢はよく分からない。
薄い色の上着。
片手には買い物袋。
どこにでもいる人に見える。
けれど、その目はシンの顔を見ていなかった。
首元。
手首。
指先。
布の結び目。
順番に見ている。
「ひとり?」
声は普通だった。
普通すぎた。
シンは答えない。
女が少し近づく。
買い物袋の中で、何かが濡れた音を立てた。
「ひとりなの?」
シンの喉が鳴る。
返事をしないで。
昨日の言葉が浮かんだ。
けれど、これは昨日の声とは違う。
目の前にいる。
人の形をしている。
シンは一歩下がった。
女の目が、首元の布に止まる。
「それ、誰の?」
シンは布を握った。
奈々香のもの。
そう答えそうになって、息を止める。
違う。
自分は誰かのものではない。
女の手が伸びた。
布に触れようとする。
白いワンピースが、視界の端に入った。
奈々香だった。
戻ってきた。
シンは息を吐きかけた。
けれど、奈々香は何もしなかった。
女の手を払わない。
シンを引き寄せない。
ただ、隣に立つ。
「シン」
静かな声だった。
「どうする?」
シンは奈々香を見た。
右手が、少しだけ開いている。
差し出されている。
けれど、掴まれてはいない。
選べる。
女から離れることもできる。
奈々香から離れることもできる。
このまま走ることだってできる。
奈々香の手を取る必要はない。
女の指が近づく。
布のすぐそば。
奈々香の手がある。
シンは息を吸った。
自分から、その手を取った。
奈々香の指がゆっくり絡む。
強くは握られない。
女の目が、繋がれた手に移った。
それから奈々香を見る。
「ああ」
小さく言った。
「白い子の」
興味が薄れた。
女は手を引く。
「なら、いいわ」
それだけ言って、歩いていった。
人混みに紛れる。
シンは動けなかった。
奈々香と手を繋いでいる。
助けられた。
そう思おうとした。
でも、違う。
自分で取った。
その事実が、手の中に残っていた。
「今のは」
声が掠れた。
「助けたんですか」
「ううん」
「でも、戻ってきたじゃないですか」
「戻ってきたよ」
「手も出した」
「うん」
「それなら――」
「シンが選んだ」
言葉が止まった。
ひどい言い方だった。
正しい言い方だった。
奈々香は引っ張っていない。
女の前に立ってもいない。
手を差し出した。
自分が取った。
それだけだった。
シンは奈々香の空いた手を見る。
何も持っていない。
袋も。
包みも。
何もない。
「……何も買ってませんよね」
奈々香は答えなかった。
「分かってて、離れたんですか」
「一人で待てるか、聞いたよ」
胸の奥が冷えた。
「答えになってません」
「うん」
「ずるいです」
「うん」
否定しない。
謝りもしない。
シンは繋いだ手を見た。
「俺は、誰かのものじゃないです」
「うん」
「奈々香のものでもない」
「うん」
「でも、奈々香のものに見えたから、あの人は離れた」
「少しね」
また、少し。
全部ではない。
絶対でもない。
シンは女が消えた方を見る。
「俺は、何に見えてたんですか」
奈々香は少し黙った。
「誰のものでもないもの」
胸が冷えた。
「ものって言わないでください」
「ごめんね」
すぐに謝る。
そのせいで、怒りが続かない。
「でも、そう見られる」
奈々香は言った。
「シンがどう思っていても」
女の目を思い出す。
首元。
手首。
指先。
布の結び目。
顔ではなかった。
シンは繋いだ手を見る。
離せる。
今でも。
奈々香は強く握っていない。
けれど、さっき右手が空いた瞬間の心細さを覚えている。
離せる。
でも。
「今は、離したくないです」
言ってから、身体の奥が冷えた。
自分で言った。
奈々香に言わされたわけではない。
奈々香は少しだけ目を細める。
「うん」
それだけだった。
勝ち誇らない。
喜びもしない。
ただ、受け取る。
その静けさが怖かった。
二人は歩き出した。
さっきより近い距離で。
道の向こうから何人かが歩いてくる。
シンを見る目がある。
けれど、繋いだ手を見ると、目が外れる。
通り過ぎる。
誰も声をかけてこない。
そのたびに、胸の奥が少し緩んだ。
それが嫌だった。
嫌なのに、シンは奈々香の手を少し強く握っていた。
奈々香は何も言わない。
公園の前で足を止めた。
「座る?」
「はい」
二人でベンチに座った。
手は繋いだままだった。
しばらく、どちらも話さなかった。
風が砂場の砂を少し動かす。
遠くで子供の声がする。
普通の街の音だった。
「俺は、逃げられますよね」
シンが言った。
「うん」
「なのに、逃げてない」
奈々香は繋いだ手を見る。
「シンが、そうしているから」
ひどい答えだった。
正しい答えだった。
「奈々香のせいじゃないんですか」
「私のせいにしたい?」
したい。
奈々香のせいにできれば楽だった。
布を巻かれたから。
匂いを残されたから。
手を差し出されたから。
そう言えれば楽だった。
でも、奈々香は逃げ道を塞がない。
いつも、出られる場所を残している。
「したいです」
「うん」
「でも、できません」
「どうして?」
シンは繋いだ手を見た。
「逃げられるから」
言葉にした瞬間、胸が冷えた。
逃げられる。
なのに逃げていない。
逃げられないのではない。
「シンは、ちゃんと分かってるね」
「褒めないでください」
「嬉しくなるから?」
シンは顔を伏せた。
覚えられている。
自分の言葉を。
自分の反応を。
「……はい」
奈々香は手を強く握らなかった。
ただ、そこにいた。
それが一番、逃げにくかった。
夕方が近づく前に、公園を出た。
街の端まで、手は繋いだままだった。
山道の入口で、奈々香が足を止める。
「今日は、どうだった?」
シンは考えた。
怖かった。
気持ち悪かった。
安心した。
嫌だった。
少し、嬉しかった。
どれも本当だった。
「分かりません」
「うん」
「でも、一人で歩くより怖くなかったです」
奈々香は笑わなかった。
「そっか」
それだけだった。
その短い返事に、また少し救われる。
「また来る?」
シンは山道を見る。
約束しなければ、来なくていい。
小屋へ帰って、そのまま山にいることもできる。
奈々香の手から離れることもできる。
「また、来ます」
言ってしまった。
胸の奥が少し軽くなる。
奈々香は小さく頷いた。
「うん」
指が、ゆっくり離れる。
一本ずつ。
手が軽くなる。
そのはずなのに、足元が少し頼りなくなった。
「布は外さないで」
「はい」
「名前」
シンは少し遅れて気づいた。
「……奈々香」
「うん」
奈々香は小さく頷いた。
「またね、シン」
山道を歩きながら、シンは何度も右手を握った。
首元には布。
布には匂い。
手には、まだ奈々香の感触が残っている気がした。
小屋に戻る。
机の前に座る。
メモを見る。
駅前。
聞く。
今は、食べない。
シンはその下に鉛筆を置いた。
また、来る。
書いて、手を止めた。
約束したから。
次に街へ行く理由ができた。
そう思えば、少しだけ楽だった。
シンは右手を握った。
誰かのものではない。
そう思った。
けれど、誰のものでもないまま歩くことの方が、今は怖かった。
だから、手を取った。
取らされたのではない。
そのことが、一番怖かった。




