第十六話 身体は知っている
朝、シンはメモを見た。
駅前。
聞く。
今は、食べない。
また、来る。
昨日、自分で書いた文字だった。
約束したから行く。
そう思えばいい。
けれど、顔を洗ったあと、シンはいつもより少し長く鏡の前にいた。
寝癖を直す。
一度着たシャツを脱いで、別のものに替える。
首元に布を巻いてから、もう一度鏡を見る。
そこで手が止まった。
何をしているんだ。
奈々香に会うだけだ。
自分を食べるかもしれない女に。
シンは脱いだシャツを見る。
戻そうかと思った。
結局、そのまま小屋を出た。
昼前。
山道を下りる。
今日は、一度も足を止めなかった。
駅前が見える。
シンは白いワンピースを探した。
探したと気づくより先に、見つけた。
胸の奥が緩む。
「シン」
奈々香も気づいた。
「来た」
「約束したので」
「うん」
奈々香は歩き出そうとする。
シンはその右手を見た。
昨日、自分から取った手。
今日は、何も差し出されない。
「あの」
奈々香が振り返る。
「今日は……」
言いかけて、やめたくなった。
「手、繋がないんですか」
言った瞬間、顔が熱くなった。
奈々香は少しだけ目を細める。
「繋ぎたい?」
「そういう聞き方、ずるいですよ」
「そう?」
「そうです」
「じゃあ、シンが決めて」
やっぱりそうなる。
シンは奈々香の手を見る。
昨日は安全のためだった。
今日は、まだ誰も近づいてきていない。
理由はない。
それでも、手を伸ばした。
指先が触れる。
奈々香の指がゆっくり絡んだ。
「今日は、シンからだね」
「言わないでください」
「恥ずかしい?」
「……少し」
奈々香が笑った。
ほんの少し。
それを見て、シンは目を逸らした。
嬉しかった。
悟られるのは、嫌だった。
二人で歩いた。
街の人間がシンを見る。
繋いだ手を見る。
それから、目を逸らす。
昨日と同じ。
誰も声をかけてこない。
安心する。
でも、今日はそれだけではなかった。
奈々香の手があたたかい。
歩くたびに、肩が少し近づく。
指が動くたびに、そのことが気になる。
「今日、静かだね」
「いつも静かです」
「今日は、もっと」
「考えてるんです」
「何を?」
「言いたくないです」
「うん」
追及されない。
ほっとした。
少しだけ、物足りなかった。
自分でも面倒だと思う。
駅前を抜ける。
古い住宅の間を歩き、小さな川へ出た。
人はいなかった。
奈々香が足を止める。
「ここなら、もう見せなくていいね」
繋いだ指が緩んだ。
離れる。
そう思った瞬間、シンは握り返していた。
奈々香の手が止まる。
「あ」
遅かった。
「……すみません」
「どうして?」
「もう、必要ないのに」
「うん」
シンは手を離そうとした。
離せる。
指は動く。
それでも、離さなかった。
「昨日は、安全だからって言えたんです」
「うん」
「今は誰もいない」
「うん」
「だから、理由がないです」
「理由、いる?」
シンは奈々香を見る。
「普通、いるでしょう」
「そうなの?」
「……たぶん」
少し黙った。
「このままでいいです」
言ったあと、シンは付け足した。
「俺が、そうしたいので」
今度は、奈々香からではなく、自分の言葉から逃げたくなった。
奈々香は笑わなかった。
「うん」
それだけだった。
二人でベンチに座る。
手は繋いだまま。
誰にも見られていない。
恋人に見せる必要もない。
川の音がする。
遠くで車が走る。
シンは時々、奈々香の横顔を見た。
目が合いそうになると、川を見る。
三度目で奈々香が言った。
「何?」
「何でもないです」
「見てた」
「見てません」
「見てたよ」
「……見てました」
奈々香が少し笑う。
「何ですか」
「何でもない」
「俺の真似ですか」
「たぶん」
シンも少し笑った。
笑ってから、不思議な感じがした。
普通だった。
あまりにも普通だった。
自分を食べるかもしれない女と。
人ではないかもしれない女と。
川沿いのベンチで手を繋いで、くだらない話をしている。
それを、楽しいと思っている。
「奈々香」
「うん」
呼び捨てにも、昨日ほど引っかからなかった。
「俺、たぶんおかしいです」
「どうして?」
「奈々香のこと、怖いのに」
繋いだ手を見る。
「会えると、安心します」
奈々香は黙っている。
「会えない方が、嫌です」
そこまで言って、シンは唇を噛んだ。
言いすぎた。
「それ、困る?」
「困ります」
「どうして?」
「……いなくなられたら困るから」
声が小さくなった。
シンはすぐに言葉を足した。
「この街のこと分かる人、奈々香しかいないし」
情けない言い訳だった。
自分でも分かる。
奈々香も分かっているはずだった。
けれど、
「うん」
それだけだった。
言い訳を壊さなかった。
シンは少し救われた。
奈々香の親指が、手の甲を一度だけ撫でる。
心臓が跳ねた。
「昨日、恋人みたいにしたでしょう」
「はい」
「今日は、誰も見てないね」
シンは周りを見る。
誰もいない。
「そうですね」
「それでも繋いでる」
「……はい」
「どうして?」
「それ、聞きます?」
「聞きたい」
安全だから。
そう言えればよかった。
「奈々香が」
言葉が止まる。
「うん」
「離したら、嫌だったから」
顔が熱い。
言った直後に後悔した。
「何か言ってください」
「言ってほしい?」
「やっぱり言わなくていいです」
奈々香が少し笑う。
シンは顔を背けた。
「もう帰りたいです」
「帰る?」
「そういう意味じゃないです」
「うん」
分かっているくせに。
それでも、手は離さなかった。
しばらくして、奈々香がシンを見る。
「もう少し近くてもいい?」
胸が跳ねた。
意味は分かった。
それでも聞いた。
「どのくらいですか」
奈々香は答えない。
繋いでいない方の手を上げる。
頬の少し手前で止めた。
「嫌なら、やめるよ」
逃げられる。
顔を背ければいい。
立てばいい。
手を離せばいい。
全部できる。
でも、嫌ではなかった。
シンは一度、奈々香の唇を見た。
すぐに視線を戻す。
耳まで熱くなる。
「……嫌じゃないです」
「本当に?」
「何回聞くんですか」
「嫌なのに我慢するでしょう、シンは」
何も言えなくなった。
「今回は」
シンは息を吸う。
「我慢じゃないです」
奈々香の指が頬に触れた。
あたたかい。
耳の下へ滑る。
くすぐったい。
胸がうるさい。
奈々香の顔が少し近づく。
シンは急に、自分の息が気になった。
朝、歯は磨いた。
昼はまだ何も食べていない。
何を考えているんだ。
馬鹿みたいだった。
でも、そんなことを考えられるくらいには、期待していた。
奈々香の匂いが濃くなる。
熟れすぎた果実のような甘い匂い。
「怖い?」
「……少し」
「やめる?」
シンは首を横に振った。
「やめないでください」
奈々香の顔が近づく。
息が触れる。
キスをする。
たぶん。
そう思った。
胸が熱くなった。
嬉しかった。
怖かった。
でも、その怖さごと欲しかった。
シンは目を閉じた。
その瞬間。
口の中に、唾液が溢れた。
嫌な汗が背中に浮く。
胃が、一気に縮む。
「っ――」
何が起きたのか理解する前に、喉まで上がってきた。
シンは奈々香の手を振りほどいた。
立ち上がる。
一歩離れる。
間に合わなかった。
「うっ――」
身体を折った。
吐いた。
水っぽい音が地面に落ちる。
喉が焼ける。
鼻の奥が酸っぱい。
もう一度、腹が縮んだ。
「げほっ……う、っ」
ほとんど何も食べていない。
胃液ばかりが落ちる。
涙が滲んだ。
最悪だ。
最初に浮かんだのは、それだった。
奈々香の前で。
よりによって今。
自分からやめないでと言って。
目まで閉じて。
吐いた。
「……最悪」
消えたかった。
顔を上げられない。
「シン」
奈々香の声がした。
足音が近づく。
シンの肩が勝手に跳ねた。
奈々香の足音が止まった。
そのことに気づいた瞬間、吐き気より強く焦った。
違う。
違う。
「ごめんなさい」
口元を拭う。
「違うんです」
「何が?」
「嫌だったんじゃないです」
息が整わない。
「俺、やめないでって言ったし」
「うん」
「本当に嫌じゃなかった」
奈々香は何も言わない。
嫌われる。
その考えが浮かんだ。
吐いたことより、それが怖かった。
「奈々香が嫌だからじゃないです」
必死だった。
「信じてください」
奈々香は少しだけ首を傾けた。
「嫌われると思った?」
言葉が止まる。
見透かされた。
シンは目を逸らした。
「……少し」
「吐いたから?」
頷く。
奈々香はしばらく黙っていた。
「それくらいで、嫌いにならないよ」
胸の奥が緩んだ。
驚くほど簡単に。
「……よかった」
声が漏れた。
その一言で、自分が何を一番怖がっていたのか分かってしまった。
吐いたことではない。
奈々香を拒んだことでもない。
これで、奈々香が離れていくことだった。
シンは腹を押さえたまま座り込んだ。
手が震えている。
膝にも力が入らない。
奈々香は近づかない。
シンを見る。
震えている手。
荒い呼吸。
汗ばんだ首元。
それから、さっき自分を振りほどいた右手。
シンも、その手を見た。
自分でやめないでと言った。
自分で目を閉じた。
キスされるのを待った。
それなのに。
身体は先に逃げた。
「俺がいいって言ってるのに」
小さく言った。
奈々香は黙っている。
「俺の身体なのに」
腹の奥が、まだひくついている。
情けなかった。
腹が立った。
「なんなんだよ」
自分に言った。
「嫌じゃないのに」
奈々香が少し離れたところから言う。
「シン」
「はい」
「帰る?」
シンは顔を上げた。
「嫌です」
即答だった。
自分でも驚いた。
「……帰ります」
言い直す。
「でも」
喉が痛い。
「奈々香は、帰らないでください」
奈々香は黙っている。
「少しだけでいいです」
シンは目を伏せた。
「ここにいてください」
「うん」
奈々香は近づかなかった。
少し離れた場所に座る。
手を伸ばしても届かない距離。
シンもその場に座った。
しばらく、何も話さなかった。
吐き気が少しずつ引いていく。
時々、シンは奈々香を見る。
いる。
それを確かめる。
また俯く。
身体は奈々香から距離を取っている。
それなのに、奈々香がそこにいると安心する。
訳が分からなかった。
帰る頃には、震えも弱くなっていた。
街の端まで並んで歩く。
今日は手を繋がなかった。
シンは何度か右手を見た。
何もない。
少し寂しかった。
そんな自分に、呆れた。
山道の入口で、奈々香が止まる。
「明日は、来なくてもいいよ」
「身体、休ませた方がいいからですか」
「うん」
「来たら?」
奈々香は少しだけ目を細めた。
「いるよ」
それだけで胸が緩んだ。
「……分かりました」
数歩進んでから、シンは振り返った。
奈々香はまだそこにいた。
白いワンピース。
黒い髪。
その姿を確認してから、前を向いた。
小屋に戻る。
口をすすぐ。
水を飲む。
鏡を見る。
目の周りが赤い。
朝、髪まで直したことを思い出した。
シンは少し笑った。
本当に、何をやっているんだ。
机の前に座る。
メモを見る。
駅前。
聞く。
今は、食べない。
また、来る。
鉛筆を持った。
嫌じゃなかった。
そう書こうとして、やめた。
誰に言い訳するんだ。
奈々香には、もう言った。
自分にも分かっている。
嫌じゃなかった。
むしろ、期待していた。
それなのに吐いた。
シンは腹に手を置いた。
「俺の身体なのに」
返事はない。
首元の布を握る。
奈々香の匂いが残っている。
身体はあれだけ拒んだ。
それなのに、その匂いを嗅ぐと少し落ち着いた。
何が正しいのか、もう分からなかった。
ただ。
明日も奈々香はいる。
そのことだけは、嬉しかった。




