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恋と生存 〜誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた〜  作者: α
誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた

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17/21

第十七話 帰らない

朝、シンは目を覚まして、しばらく天井を見ていた。

昨日のことを思い出す。

奈々香の顔。

近づく唇。

目を閉じたこと。

吐いたこと。

布団をかぶった。

「……最悪」

まだ恥ずかしかった。

吐いたくらいで嫌いにならない。

奈々香はそう言った。

分かっている。

それでも、思い出すと顔が熱くなる。


シンは起き上がった。

台所で米を少しだけ食べる。

二口。

三口。

箸が止まった。

今日も吐いたら。

そう考えた途端、腹が重くなった。

今日は来なくてもいい。

行かなければいい。

奈々香も、それを許している。

シンは水を飲んだ。

顔を洗う。

鏡の前で寝癖を直した。

途中で手が止まる。

昨日、あんなことになったのに。

また会いに行くつもりでいる。

「馬鹿だろ」

鏡の中の自分に言った。

首元に布を巻く。

奈々香の匂いは薄くなっていた。

それが嫌だった。

今日は、すぐに認めた。


小屋を出た。

昨日のことを思い出すたび、腹の奥がわずかに縮む。

それでも、山道を下りた。

駅前が見える。

白いワンピースを探す。

いない。

シンは足を止めた。

柱。

公園。

信号。

人の流れ。

もう一度見る。

いない。

今日は来なくてもいいよ。

奈々香はそう言った。

自分が来なくてもいいという意味だ。

奈々香が待っているとは言っていない。

分かっている。

それなのに、シンは柱のそばまで歩いた。

待つ。

少しして、時間を見る。

帰ろうかと思った。

帰らなかった。

「シン」

身体が先に振り返った。

奈々香がいた。

白いワンピース。

黒い髪。

いつもの顔。

シンは息を吐いた。

「遅いです」

言ってから、自分で驚いた。

奈々香も少し瞬きをした。

「待ってた?」

「……少し」

「帰ってもよかったのに」

「分かってます」

声が強くなる。

「来なくてもいいって言ったよ」

「来たら、いるって言ったじゃないですか」

奈々香が黙った。

シンも黙る。

勝手に来て。

勝手に待って。

文句まで言っている。

「……すみません」

「謝らなくていいよ」

その言葉に、肩の力が抜けた。

「身体、大丈夫?」

「大丈夫です」

口にしてから、少し考えた。

「……たぶん」

「うん」

「昨日よりは」

「何か食べた?」

「少し」


奈々香は歩き始めた。

シンも隣を歩く。

今日は手を繋がない。

何度か奈々香の右手が視界に入った。

「今日は繋がないよ」

見られていた。

「どうしてですか」

「昨日、嫌がってたから」

「手は関係ないです」

「そう?」

「昨日は……近すぎたからです」

「じゃあ、今日は近づかない」

シンは足を止めた。

奈々香も止まる。

「昨日のことで、もうやめるんですか」

「やめてほしくない?」

「……分かりません」

「うん」

そのまま終わられそうになって、シンは口を開いた。

「でも、勝手に決めないでください」

奈々香がシンを見る。

「身体が嫌がったから」

「俺もシンです」

思ったより強い声が出た。

シンは腹に手を置いた。

「こいつだけで決めないでください」

自分の身体を、こいつと呼んだ。

馬鹿みたいだった。

でも、昨日は本当にそんな気分だった。

「俺も決めたいです」

「何を?」

言葉に詰まる。

まだ分からない。

触れられたいのか。

怖いのか。

好きなのか。

「……それは、まだ」

「じゃあ、分かるまで待つよ」

「それがずるいんですよ」

「何が?」

「そういうところです」

奈々香は少し笑った。

「そっか」


歩き出す。

今日は川へ向かわなかった。

古い住宅街の奥へ進んでいく。

「どこへ行くんですか」

「私のところ」

シンの足が止まった。

「家?」

「うん」

奈々香は振り返った。

「嫌なら、戻っていいよ」

後ろには、来た道がある。

「行っていいんですか」

「来たい?」

心臓が少し速くなる。

昨日のことが浮かんだ。

それでも、

「行きたいです」

奈々香は頷いた。

「じゃあ、行こう」


住宅街の端に、小さな古い家があった。

二階建て。

色の褪せた壁。

狭い庭。

花も、洗濯物もない。

奈々香が鍵を開けた。

「どうぞ」

シンは玄関で止まった。

靴箱。

廊下。

壁。

普通だった。

普通すぎて、逆に落ち着かなかった。

「入らない?」

「入ります」

靴を脱ぐ。

奈々香が扉を閉めた。

鍵はかけなかった。

シンはその音を聞いていた。


部屋も簡素だった。

低い机。

椅子。

薄いカーテン。

棚。

写真がない。

生活しているはずなのに、誰かが暮らした跡が薄い。

「座って」

シンは椅子に座った。

奈々香は少し離れた場所に立った。

「近くに来ないんですか」

また自分から聞いていた。

「昨日、吐いたから」

胸に少し刺さる。

「……やっぱり気にしてるじゃないですか」

「シンの身体がね」

「俺は」

言葉が止まる。

平気だとは言えない。

怖くないとも言えない。

でも、一つだけ分かった。

「帰りたくないです」

奈々香がシンを見る。

「今日は、帰りたくない」

「ここにいたい?」

「はい」

「私がいるから?」

少し迷った。

「……はい」


奈々香が一歩近づく。

腹の奥が縮んだ。

もう一歩。

手のひらに汗が滲む。

奈々香が止まる。

「ここまで?」

シンは自分の身体を確かめた。

怖い。

でも、昨日とは違う。

「もう少し」

奈々香が近づく。

椅子の縁を握る。

「もう少し」

目の前まで来た。

胃が少し動いた。

吐き気はない。

奈々香は何もしない。

「何もしないんですね」

「シンが決めるんでしょう」

シンは息を止めた。

そうだった。

俺も決めたい。

自分で言った。

立ち上がる。

奈々香と向かい合った。

少し迷って、白い袖を掴む。

指が震えている。

「……これなら」

額を奈々香の肩に預けた。

身体が固くなる。

一度、息を止めた。

それから、ゆっくり吐く。

奈々香の匂いがした。

首元の布より濃い。

「触ってもいい?」

「背中なら」

奈々香の手が背中に触れた。

シンの肩が少し上がる。

逃げなかった。

もう一度、撫でられる。

少しずつ力が抜けた。

子供みたいだと思った。

でも、離れたくなかった。


「奈々香」

「うん」

「昨日、吐いた時」

「うん」

「嫌われると思いました」

背中の手は止まらない。

「食べられるかもしれないことより」

そこで初めて、自分が何を言おうとしているのか分かった。

言いたくなかった。

でも、続けた。

「奈々香に嫌われる方が、怖かったです」

奈々香の手が一度止まった。

また、ゆっくり動く。

「そうなんだ」

「おかしいですよね」

「シンは、おかしいと思う?」

「思います」

即答した。

「普通、逆でしょう」

「普通が好き?」

シンは少し笑った。

「今それ言います?」

「うん」

「ずるいな」

袖を握る指に、少し力が入った。

しばらく、そのままでいた。


「奈々香」

「うん」

「前に聞きましたよね」

「何を?」

「嘘でも、好きって言われたら嬉しいかって」

背中の手が止まる。

「聞いたね」

「奈々香は?」

「私?」

シンは顔を上げられなかった。

「俺に、嘘でも好きって言われたら」

少し間があった。

「シンなら、嬉しいよ」

胸が痛んだ。

その答えが本当なのか。

奈々香が何を意味しているのか。

分からない。

でも、今はそれより、自分が何を言うかだった。


中澤若菜の声が浮かぶ。

私のこと好きなんじゃなくて、嫌われないようにしてるだけでしょ。

シンは目を閉じた。

奈々香がいなくなるのは嫌だ。

一人に戻るのも嫌だ。

食べられたくない。

でも、離れたくない。

どれが本当なのか選べなかった。

だから、そのまま言った。

「好きです」

奈々香の手が背中にある。

「奈々香が、好きです」

二度目は、少しだけ声が出た。


奈々香は答えなかった。

背中を一度だけ撫でた。

「うん」

それだけだった。

私も。

その言葉を、少しだけ待っていた。

来なかった。

胸が痛んだ。

それでも、奈々香から離れなかった。

「嘘かもしれません」

シンは言った。

「嫌われたくないだけかもしれない」

奈々香は黙っている。

「怖くて、離れられないだけかもしれない」

袖を握ったまま続ける。

「でも」

声が小さくなる。

「今は、これしか言えないです」

奈々香の手が、背中を撫でた。

「それでいいよ」

シンは目を閉じた。

その言葉が、嬉しかった。

本当かどうか確かめなくてもいい。

決めなくてもいい。

今は。

それでいい。


「今日は」

奈々香が言った。

「帰る?」

シンは玄関の方を見なかった。

「帰りません」

迷わなかった。

「うん」

背中を撫でる手が動く。

シンは奈々香の肩に顔を埋めた。

俺は。

そこまで考えて、やめた。

今日は、続きを決めなくてよかった。

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