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恋と生存 〜誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた〜  作者: α


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18/21

第十八話 帰る場所

「帰りません」

そう言ったあとも、奈々香は何も変えなかった。

ただ、シンの背中をゆっくり撫でている。

シンは奈々香の肩に額を預けたまま、少し顔をしかめた。

「何か言ってください」

「何を?」

「……分かりませんけど」

「帰らないって言ったね」

「言いました」

「うん」

「それだけですか」

奈々香は少し考えた。

「嬉しいよ」

シンは黙った。

だったら最初から言えばいいのに。

袖を少し強く握る。

「今日だけですからね」

「うん」

「明日は帰ります」

「うん」

「たぶん」

奈々香が少し笑った。

「絶対信じてないでしょう」

「信じてるよ」

「嘘だ」

「明日は、シンが決めることだから」

またそれだ。

シンは顔を上げた。

「奈々香って、何も決めませんよね」

「そう?」

「俺に決めさせる」

「嫌?」

少し考えた。

「……嫌じゃないです」

誰かに決められるのは嫌だった。

ここにいろ。

逃げるな。

そう言われたら、たぶん逃げていた。

奈々香は一度も言わなかった。

だから、ここまで来た。

自分で。


「奈々香」

「うん」

「俺、本当に帰れますよね」

「帰れるよ」

「今でも?」

奈々香は玄関を見る。

「鍵も開いてる」

シンもそちらを見た。

廊下の先。

玄関。

自分の靴。

扉を開ければ外へ出られる。

「……帰らないですけど」

「うん」

「確認しただけです」

「分かった」

シンはまた肩に額を預けた。

帰れる。

それが分かると、少し安心した。

奈々香の手が背中を撫でる。

昨日のことを身体はまだ覚えていた。

近づいた唇。

吐いたこと。

震えたこと。

それでも今日は、触れられていられる。

「今日、大丈夫ですね」

「何が?」

「身体」

奈々香は何も言わない。

「少しずつなら、大丈夫なのかもしれない」

シンは自分の腹に触れた。

静かだった。

昨日は、自分より先に逃げた。

今日は逃げていない。

それが少し嬉しかった。


奈々香から離れ、椅子に座る。

奈々香も向かいに座った。

窓の外から車の音がする。

遠くで子供の声。

シンは部屋を見回した。

「奈々香って、物少ないですね」

「そう?」

「写真もないし。本もほとんどない」

「困らないから」

「暇じゃないんですか」

「外にいることが多いし」

「何してるんですか」

「歩いたり」

「俺と同じじゃないですか」

「そうだね」

それだけの共通点なのに、少し嬉しかった。

「料理は?」

「するよ」

「意外」

「失礼だな」

「すみません」

「謝った」

「条件反射です」

「知ってる」

シンは笑った。

奈々香も少し笑う。

普通だった。

女の人の家で、どうでもいい話をしている。

何も怖いことが起きていない。

それが、ひどく心地よかった。


「シン」

「はい」

「お腹空いてる?」

シンの肩がわずかに動いた。

奈々香がそれを見る。

「普通のご飯だよ」

「……今の反応見ました?」

「見た」

「忘れてください」

「無理」

奈々香が立ち上がる。

「少し作るね」

「手伝います」

「じゃあ、お皿出して」


台所は狭かった。

二人並ぶと、腕が触れそうになる。

奈々香が米をよそい、卵と野菜、味噌汁を並べた。

拍子抜けするほど普通だった。

「本当に普通だ」

「言ったでしょう」

「ちょっと疑ってました」

「何が出ると思ったの?」

「言わせます?」

奈々香が少し笑った。


向かい合って食べる。

味噌汁は温かかった。

何口か食べたところで、奈々香が見ていることに気づいた。

「見ないでください」

「食べられてるなと思って」

箸が止まる。

「ご飯が」

「……わざとでしょう」

「少し」

「性格悪いな」

そう言いながら、シンも笑った。

食べる、という言葉を聞いて笑えた。

半分ほどで箸を置く。

「もういい?」

「はい」

「気持ち悪くない?」

シンは腹を確かめた。

「大丈夫です。本当に」

「よかった」


食器を片づける奈々香を追って、シンも立つ。

「俺、洗います」

「客なのに?」

「泊めてもらうんだから、それくらい」

言ってから止まった。

奈々香も見る。

「泊まるの?」

「……帰らないって言ったので」

「泊まっていいよ」

あまりにも普通に言われて、シンは目を逸らした。

「じゃあ、洗います」

逃げるように蛇口をひねる。

隣に立った奈々香の腕が、少し触れた。

シンの手が止まる。

身体が固くなる。

奈々香が離れようとした。

その袖を、シンが掴む。

「大丈夫です」

「無理しなくていいよ」

「……少しはしてます」

「うん」

「でも、慣れたいです」

「どうして?」

シンは少し迷った。

「奈々香だから」

言ったあと、顔が熱くなった。

奈々香が目を細める。

「何ですか」

「嬉しいだけ」

また、欲しい言葉をくれる。


シンは蛇口を止めた。

「奈々香」

「うん」

「好きですか」

「何が?」

「俺」

奈々香はすぐに答えた。

「好きだよ」

胸の奥が熱くなる。

まだ慣れない。

「……もう一回」

「好き」

「名前も」

「シンが好き」

シンは顔を覆った。

「やっぱいいです」

「言ってって言ったのに」

「想像より恥ずかしかった」

奈々香が笑う。

「顔、赤い」

「見ないでください」

「無理」

昨日は、近づかれることが怖かった。

今日は、見られることが恥ずかしい。

その違いが嬉しかった。


シンは手を下ろした。

奈々香を見る。

黒い髪。

白い肌。

唇。

昨日のことを思い出す。

今度は、腹が縮まなかった。

「奈々香」

「うん」

「昨日の……続き」

「続き?」

「絶対分かってるでしょう」

「シンが決めるんじゃなかった?」

シンは眉を寄せた。

それから少し笑った。

「そうでした」

奈々香の手を取る。

昨日より震えは少ない。

「嫌だったら、やめるよ」

「はい」

「シンがやめてもいい」

「分かってます」

一度、息を吐く。

シンから近づいた。

顔が近づく。

心臓が速い。

腹は静かだった。

奈々香の息が触れる。

目を閉じる。

唇が触れた。

一瞬。

離れる。

シンは目を開けた。

吐き気はない。

「……できた」

奈々香が少し笑う。

「できたね」

シンも笑った。

「もう一回、いいですか」

「うん」

今度は少し長かった。

奈々香の手が頬に触れる。

肩が強張る。

それでも、シンは離れなかった。

唇が離れる。

「大丈夫です」

「もう怖くない?」

シンは少し考えた。

「怖いです」

奈々香の手を握る。

「でも、前よりずっと平気」

「うん」


シンはその手を見た。

「これなら」

自然に言葉が出た。

「食べられないものになれるかもしれない」

奈々香は黙っている。

「俺のこと、もっと好きになったら」

「うん」

「そのうち、本当に食べたくなくなるかもしれないでしょう」

「そう思う?」

「思いたいです」

奈々香を見る。

「駄目ですか」

「駄目じゃないよ」

否定されなかった。

それだけで、少し先のことを考えられた。

明日も来る。

もっと話す。

もっと知ってもらう。

自分も奈々香を知る。

そうすれば。

「頑張ります」

「何を?」

「食べられないように」

奈々香が笑った。

「変なの」

「誰のせいですか」

「シン?」

「奈々香ですよ」

シンも笑った。


外が少し暗くなっていた。

「本当に泊まる?」

奈々香が聞く。

シンは玄関を見た。

まだ帰れる。

「泊まります」

迷わなかった。

「着替えないですけど」

「明日取りに帰ればいいよ」

「明日もいる?」

「いるよ」

「ここに?」

「うん」

それならいい。


奈々香が隣の部屋に布団を敷く。

一枚だけだった。

「奈々香は?」

「私はまだ寝ないよ」

「そうですか」

少し残念だった。

首元の布に触れる。

奈々香の匂いは、かなり薄くなっていた。

「これ」

布を持ち上げる。

「もう一回、匂いつけてもらえます?」

「必要?」

シンは少し迷った。

「欲しいです」

前は、見つからないためだった。

今は違った。

奈々香が布を受け取る。

首元へ巻く。

指が喉に触れた。

身体が僅かに固くなる。

奈々香は何も言わず、結び目を作った。

シンは布に触れる。

匂いが戻っている。


「奈々香」

「うん」

「ここ、また来てもいいですか」

「いいよ」

「明日だけじゃなくて」

「うん」

「そのあとも」

「来たい時に来ればいいよ」

胸の奥が緩んだ。

山の小屋とは違う。

誰もいない場所へ戻るのではなく。

誰かがいるところへ来られる。

シンは部屋を見た。

「帰る場所みたいですね」

「ここが?」

「変ですけど」

少し笑う。

「小屋より、そんな感じがします」

奈々香は何も言わなかった。


シンは布団に座った。

奈々香も隣に座る。

「寝る?」

「まだ寝ません」

「眠そう」

「奈々香と話したいので」

「明日もいるよ」

「知ってます」

「じゃあ寝てもいいでしょう」

「そういう問題じゃないです」

奈々香が笑った。

シンも横になる。

「少しだけ」

目を閉じる。

すぐに開く。

奈々香はいる。

「何?」

「いなくならないか確認しました」

「行かないよ」

「分かってます」

もう一度、目を閉じる。

髪に手が触れた。

ゆっくり撫でられる。

「奈々香」

「うん」

「好きです」

「うん」

「奈々香は?」

「好きだよ」

「よかった」

もう、嘘かどうかは聞かなかった。

奈々香がいる。

触れている。

それでよかった。


眠気が少しずつ深くなる。

「奈々香」

「うん」

「俺、食べられないものになれますよ」

「そう?」

「たぶん」

シンは目を閉じたまま笑った。

「奈々香が、もっと俺を好きになれば」

「うん」

「俺も、もっと好きになります」

「うん」

安心した。


しばらくして、首元の指が止まった。

布の結び目が解かれる。

するりと抜けた。

「奈々香?」

「うん」

頬を撫でられる。

シンはその手に顔を寄せた。

「もう一回」

「何を?」

「さっきの」

奈々香が顔を近づける。

目を閉じる。

唇が触れた。

優しかった。

シンは奈々香の服を掴んだ。

奈々香の腕が背中に回る。

シンも抱き返す。

温かい。

「奈々香」

「うん」

「好きです」

「私も」

シンは目を開けた。

「……今」

「うん」

「私もって」

「言ったよ」

ずっと欲しかった言葉だった。

嬉しくて、シンは奈々香を抱きしめた。

「もう一回」


奈々香の顔が近づく。

今度は唇を通り過ぎた。

首元に吐息が触れる。

シンは少しくすぐったくて肩を上げた。

「そこ?」

笑った。

返事はなかった。

首筋に何かが触れる。

硬い。

シンの笑みが消えた。

「奈々香?」

少し痛い。

「……痛いです」

身体を引こうとした。

動かなかった。

「あの」

力を入れる。

離れない。

「奈々香」

声が震えた。

首元の圧が強くなる。


その瞬間。

腹の奥がひっくり返った。

手のひらに汗が滲む。

心臓が暴れる。

昨日と同じだった。

身体が先に分かった。

「やめて」

奈々香が止まった。

シンは息を吸う。

「……やめてください」

奈々香が顔を上げた。

黒い髪。

白い肌。

いつもの目。

「嫌?」

何度も聞かれた言葉だった。

シンは震えながら頷いた。

「嫌、です」

初めて、はっきり言った。

「うん」

腕が緩む。


シンは奈々香から離れた。

布団から転がるように立ち上がる。

首を押さえる。

玄関を見る。

帰れる。

鍵は開いている。

シンは走った。

一歩。

二歩。

靴が見える。

扉へ手を伸ばす。

背後で音がした。

硬いもの同士が擦れるような音。

足が止まりそうになる。

見るな。

走れ。

指先が扉へ届く。

その直前。

脇腹に何かが回った。

腕ではない。

細く。

硬い。

身体が後ろへ引かれる。

「っ――」

シンは暴れた。

肘を振る。

足を蹴る。

身体に回ったものを剥がそうとする。

「離して!」

声が裏返る。

「嫌だ!」

床を蹴る。

「帰る!」


さっきまで帰らないと言っていた。

明日も来ると言った。

ここを帰る場所みたいだと言った。

今は、どうでもよかった。

帰りたい。

どこでもいい。

ここではないところへ。

「奈々香、やめて!」

「ごめんなさい!」

言ってから、自分でも何に謝ったのか分からなかった。

「俺、何かしたなら!」

返事はない。


白いワンピースの背中が、不自然に持ち上がる。

布の下で、細長い影が折れ曲がった。

一つ。

もう一つ。

シンの息が止まる。

「……なに」

奈々香が振り返る。

顔は変わらない。

さっきまで笑っていた顔。

好きだと言った顔。

「嫌だ」

頬の横が、ゆっくり開いた。

口の端を越えて。

その奥で何かが動く。

「嫌だ」

シンは首を振った。

「奈々香」

「うん」

いつもの声だった。

「食べないって」

涙が落ちる。

「今は、食べないって言ったじゃないですか」

「言ったよ」

「じゃあ」

喉が震える。

「じゃあ、今も」

奈々香は少し首を傾けた。

「今は、もう違うよ」


シンの身体から力が抜けかけた。

今は。

あの時の。

今だけ。

好きになれば。

食べられないものになれば。

そんなこと。

奈々香は一度も言っていない。

「嫌だ」

また暴れる。

「死にたくない」

口から出た。

奈々香のためなら。

そんなことを考えたこともあった。

今は一つも残っていなかった。

死にたくない。

食べられたくない。

生きたい。

「助けて」

奈々香しかいない。

「助けて、奈々香」

身体に回ったものが、シンを抱え直した。

抱きしめるように。

奈々香の指が頬に触れる。

「大丈夫」

シンの息が止まった。

大丈夫です。

平気です。

気にしないでください。

何度も自分が言ってきた言葉。

「大丈夫じゃない!」

奈々香の肩を殴った。

もう一度。

何も変わらない。

拳だけが痛い。

「シン」

「嫌だ!」

「好きだよ」

「嫌だ!」

涙で視界が滲む。

「そんなのいらない!」

胸が痛んだ。

それでも叫んだ。

「いらない!」

ずっと言われたかった。

なのに今は、その言葉が怖かった。


「俺、帰ります」

息が切れる。

「帰るから」

玄関を見る。

数歩先にある。

「明日」

声が震える。

「明日また来るから」

嘘だった。

出られたら、もう来ない。

山を離れる。

この街からも逃げる。

「だから」

シンは泣いた。

「今日は帰らせてください」

奈々香の指が、涙を拭った。

「シン」

優しい声だった。

「もう帰ってきたでしょう」


首に何かが食い込んだ。

身体が跳ねる。

声が出ない。

熱い。

次に、冷たい。

足が床を蹴る。

玄関へ向かって。

何度も。

届かない。

黒い髪が頬に触れる。

甘い匂い。

ずっと安心していた匂い。

吐き気が込み上げた。

「いや……」

奈々香の肩を掴む。

押したかった。

指に力が入らない。

「ななか」

助けを求めるように名前を呼ぶ。

「うん」

しゃく。

シンの身体が大きく震えた。

痛い。

何かがなくなった。

「や……」

しゃく。

足が床を擦る。

玄関。

靴。

扉。

まだ見える。

手を伸ばす。

届かない。

「かえ……」

しゃく。

暗くなる。

奈々香の腕。

白い服。

黒い髪。

昨日。

吐いた。

身体は知っていた。

俺は。

俺は――


奈々香は、腕の中の身体が動かなくなるまで離さなかった。

少し待つ。

呼吸は戻らない。

床に寝かせる。

閉じきらなかった目を、指で閉じた。

頬に涙の跡がある。

「シン」

返事はなかった。

奈々香は少しだけ見ていた。

それから、また顔を寄せる。

しゃく。

急がなかった。

白い糸はいらなかった。

足を奪う必要もなかった。


シンは自分で来た。

駅前へ。

何度も。

呼ばなくても来た。

手を差し出せば、自分から握った。

離していいと言えば、離さなかった。

帰ってもいいと言えば、残った。

食べるかもしれないと知っても。

身体が嫌がっても。

また来た。

好きだと言った。

帰らないと言った。

ここを、帰る場所にした。

しゃく。


奈々香は手を止めた。

玄関を見る。

鍵は開いたままだった。

シンの靴もある。

ほんの少し前まで、あそこへ走ろうとしていた。

最後には逃げた。

身体は、最後まで逃げようとした。

ただ。

遅かった。


奈々香はシンの髪に触れた。

朝、整えてきた髪。

指で少し直す。

「好きだったよ」

返事はない。

嘘ではなかった。

シンが好きだった。

声も。

困った顔も。

すぐ謝るところも。

何度、逃げてもいいと言っても戻ってくるところも。

手も覚えている。

匂いも。

名前も。

好きだった。

そして、食べた。

奈々香の中では、その二つは反対ではなかった。


シンは最後まで、それを知らなかった。

好きになれば、食べられなくなる。

そう思っていた。

奈々香は一度も、そうだとは言わなかった。

しゃく。


部屋は静かだった。

机には二人分の食器。

椅子。

首から外した布。

少し前まで、シンが笑っていた。

好きだと言った。

もう一回言ってほしいと頼んだ。

奈々香は言った。

好きだよ。

シンは嬉しそうだった。


怖がっていた人間が。

好きだと言われれば近づいてくる。

身体が逃げろと言っていても。

信じたいものを選んで。

自分から戻ってくる。

糸より。

鍵より。

ずっと簡単だった。


奈々香は、もう動かないシンの髪を一度だけ撫でた。




「恋って、便利ね」

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