第十九話 奈々香の記憶①
駅前で、人の匂いがした。
奈々香は足を止めた。すぐには振り向かなかった。急に見ると、逃げることがある。逃げるものを追うのは嫌いではない。
けれど、今日は人が多かった。汚れるし、面倒だった。
もう一度、息を吸う。
土。薪。水。少しだけ煙。
その奥に、やわらかい匂い。
あたたかくて、薄い。
奈々香はゆっくり振り向いた。
駅前の柱のそばに、男が立っていた。背は高くない。痩せている。リュックを背負い、小さなメモを持っている。
周りを見ているのに、誰とも目を合わせない。
奈々香は少し近づいた。男は気づかない。
首筋が見えた。手首も。薄い皮膚の下に、血が流れている。
噛めば、すぐ分かる。
でも男は、そんなことも知らずにメモを見ていた。
塩。
味噌。
乾麺。
絆創膏。
奈々香の目が、最後の文字で止まった。
絆創膏。
まだ怪我もしていないのに。少し、おかしかった。
男がメモを折る。ポケットにしまう。その手に、小さな傷がいくつかあった。乾いている。今ついたものではない。
奈々香は一度、指先を見て。また喉へ戻した。
向かいの店先に女がいる。自動販売機の前には男。公園の奥には老人。
誰もこちらを見ていない。
見ていないふりをしている。
奈々香は店先の女と目が合った。女は先に逸らした。
それから、奈々香は男に声をかけた。
「山から来たの?」
肩が小さく跳ねた。振り向く。目が合う。すぐに逸れた。
「……はい」
奈々香は少し離れたところで止まった。
「近くの山?」
「たぶん」
「たぶん?」
男は困った顔をする。
「山に、小屋があって」
「そこに住んでるの?」
「今は」
「そう」
奈々香は男を見る。目が落ち着かない。それでも、逃げない。
「いい匂いがするね」
男が顔を上げた。
「え」
「土と、薪の匂い」
本当のことだった。
全部ではないけれど。
男は自分の袖を嗅いだ。
「臭いですか」
「ううん」
奈々香は首を横に振る。
「好きだよ」
男の顔が止まった。奈々香は待った。
「……ありがとうございます」
思っていたのと違う答えが返ってきた。
「お礼言うんだ」
「え?」
「なんでもない」
奈々香は少し笑った。男はまた困った。その顔を見ていると、もう少し話したくなった。
「名前は?」
一瞬、間があった。
「神倉シンです」
「シン」
呼ぶ。
シンが奈々香を見る。今度は、さっきより少し長く目が合った。
「私は奈々香」
「奈々香さん」
「さん、つけるんだ」
「初対面なので」
「そっか」
奈々香はシンの名前を頭の中でもう一度呼んだ。
シン。
短い。呼びやすい。
「買い物?」
「はい」
「何を買うの?」
「塩と、味噌と、乾麺と」
少し間が空く。
「絆創膏です」
やっぱり。
「怪我したの?」
「いえ。念のため」
「まだ怪我してないのに?」
「するかもしれないので」
奈々香はシンの手を見る。
「怖がり?」
「普通だと思います」
「そう?」
「……たぶん」
また、たぶん。
奈々香は少し笑った。
「山で一人?」
「はい」
「寂しくない?」
シンの目が下がった。
「大丈夫です」
大丈夫。
その返事は早かった。
奈々香は少し待った。続きはなかった。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
シンが少しだけ顔を上げる。何か言われると思っていたようだった。
奈々香は、そのまま何も言わない。
少しして。
「お店、分かる?」
「たぶん」
三回目。
「案内しようか」
「大丈夫です」
今度は、もっと早かった。
奈々香は頷く。
「そう」
半歩、退いた。
シンも何も言わない。奈々香も言わない。人が二人の間を通り過ぎた。
そのまま別れてもよかった。
「でも」
シンが口を開いた。
奈々香は見る。
「店の場所だけ、教えてもらってもいいですか」
「いいよ」
歩き出す。少しして、足音がついてきた。
奈々香は振り返らない。
近くなる。少し離れる。また近くなる。
奈々香が歩く速度を少し落とすと、足音も落ち着いた。
横断歩道で止まる。シンは奈々香の斜め後ろに立った。
「そこだと見えないでしょう」
「え」
「信号」
「あ」
シンが横に来る。
近い。
さっきより匂いが濃くなった。
奈々香は前を見る。喉は見なかった。
青になる。二人で渡る。
すれ違った男が、シンを見た。鼻が少し動く。
奈々香はその男を見る。
男はすぐに前を向いた。
シンは何も知らずに歩いている。
「奈々香さん」
「うん」
「この辺、詳しいんですか」
「住んでるから」
「そうなんですね」
「シンは?」
「俺?」
「ずっと山?」
「ずっとではないです」
少しだけ声が変わった。
奈々香は横を見る。シンは前を向いている。
「じゃあ、前は?」
「……別のところです」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
またシンがこちらを見る。
「聞かないんですか」
「嫌そうだったから」
「嫌というか」
「うん」
「……話すほどでもないです」
「じゃあ、いいよ」
シンは黙った。
少し歩く。
「奈々香さんって」
「うん」
「変わってますね」
「そう?」
「普通、聞くでしょう」
「聞いてほしい?」
「いや」
「じゃあ、聞かない」
「……そうですか」
奈々香は前を向いた。隣で、シンの肩から少し力が抜けた。
店が見える。
「ここ」
奈々香が言う。シンは看板を見上げた。
「ありがとうございます」
「うん」
「助かりました」
「よかったね」
「はい」
シンが店へ入ろうとする。
一歩。
止まる。
振り返った。
「奈々香さんは?」
「うん」
「買い物ですか」
「違うよ」
「じゃあ、散歩?」
「たぶん」
シンが少し眉を寄せた。
「俺の真似ですか」
「うん」
「認めるんですね」
「駄目?」
「駄目じゃないですけど」
シンが笑った。
その前に、一度だけ目を伏せた。
奈々香の笑みが消えた。
何かが引っかかった。
知っている。
そんな気がした。
でも、何を知っているのか分からない。
シンが顔を上げる。もう、いつもの困った顔だった。
「じゃあ」
「うん」
「ありがとうございました」
「またね」
シンの動きが止まる。
「……はい」
店へ入っていった。扉が閉まる。
奈々香は、その扉をしばらく見ていた。
さっきの笑い方。
もう一度見れば分かるかもしれない。
そう思った。
それから歩き出す。
待たない。
待つ必要はない。
駅前から少し離れた路地へ入った。壁に背を預ける。目を閉じる。
さっきより薄くなった人の匂いが、まだ鼻に残っている。
シン。
頭の中で名前を呼ぶ。
首筋。手。困った顔。笑う前に伏せた目。
最後のものだけ、少し違った。
食べるなら、今日でもよかった。
細い。力も強くはなさそうだった。声を出す前に押さえられる。この路地まで連れてくることもできた。
食べれば、それで終わる。
奈々香は目を開けた。
それは、少し嫌だった。
理由はよく分からない。お腹が空いていないわけではない。人の匂いは好きだった。シンの匂いも。
喉を見れば、噛んでみたいと思う。
でも。
食べたら、もう困った顔はしない。「奈々香さん」とも呼ばない。たぶん、とも言わない。笑う前に目を伏せることもない。
奈々香は壁から離れた。
店先を見る。女がいる。さっきの女だった。少し場所を変えている。
シンが出てくる扉を見ている。
奈々香はそちらへ歩いた。女と目が合う。
「見つけたの?」
女が聞いた。
奈々香は足を止めた。
「何を?」
「それ」
女が店を見る。奈々香も見る。
「知らない」
「ふうん」
女は笑った。
「少しくらい、いいでしょう?」
奈々香は女を見る。
「何が?」
「味見」
奈々香は答えなかった。女の笑みが少し薄くなる。
「まだ何もしてないんでしょう?」
「うん」
「じゃあ――」
「嫌」
女が止まった。
奈々香自身も、少しだけ不思議だった。
言葉が先に出た。
「どうして?」
「分からない」
「変なの」
「うん」
「独り占め?」
奈々香は考えた。
独り占め。
それとも少し違う気がした。
まだ触ってもいない。何も決めていない。
「触らないで」
それだけ言った。
女は奈々香を見た。それから肩をすくめる。
「分かった」
歩いていく。
奈々香は追わない。
店の前に残る。
待つつもりはなかった。
でも、ここまで戻ってきてしまった。
少しして、扉が開いた。シンが出てくる。袋を持っていた。
中を少し覗く。
塩。味噌。乾麺。箱。
絆創膏もちゃんと買っていた。
奈々香は箱を見て、少し笑った。
シンがこちらに気づく。目が丸くなる。
「まだいたんですか」
「うん」
「待ってたんですか」
奈々香は少し考えた。
「たぶん」
シンが眉を寄せる。
「それ気に入ったんですか」
「うん」
「俺のですよ」
「言葉に持ち主っているの?」
「……いないですけど」
「じゃあ、使っていいね」
シンは何か言いたそうな顔をして。やめた。
「すみません。待たせて」
「どうして謝るの?」
「待ってたんでしょう?」
「私が勝手にいたんだよ」
シンが黙る。
「シンは何もしてない」
「……はい」
声が少し小さくなった。
奈々香はその顔を見る。さっきより、柔らかい。
「帰るの?」
「はい」
「山に?」
「はい」
「そっか」
奈々香はそれ以上言わなかった。
シンも動かない。
「……じゃあ」
「うん」
「帰ります」
「気をつけて」
「はい」
シンが歩き出す。
奈々香は追わない。
数歩。
「シン」
呼ぶ。
シンが振り返った。
さっきより早かった。
「またね」
少し間があった。
「……また」
今度は、ちゃんと返ってきた。
シンは歩いていく。街の端へ。山の方へ。
奈々香はその背中を見る。
小さくなる。まだ見える。もっと小さくなる。
見えなくなった。
匂いだけが少し残った。
奈々香は、さっき女がいた場所を見る。もう誰もいない。
指先を見た。
結局、今日は触れなかった。
それなのに。
誰にも触らせたくなかった。
変なの。
奈々香は少し笑った。
明日、来るだろうか。
来なくてもいい。来なければ、その時考えればいい。
でも。
自分で来たら。
もう少し近づいてみよう。
手に触れてもいいのか。名前を呼べば、また振り向くのか。笑う前に、また目を伏せるのか。
知りたいことが増えていた。
食べれば、それで全部なくなる。
だから。
今日は食べなかった。
まだ。




