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恋と生存 〜誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた〜  作者: α


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第二十話 奈々香の記憶②

奈々香は、駅前の公園を横切った。

砂場。ブランコ。低い植え込み。


昼を少し過ぎた頃だった。シンはいない。来るとは言っていない。約束もしていない。


だから、いなくても普通だった。


奈々香はベンチには座らなかった。駅前を見る。人が歩いている。知らない顔ばかり。


人の匂いはしない。

今日は来ないかもしれない。それなら、それでいい。


「待ってるの?」


植え込みの向こうから声がした。


黒い服を着た男が立っていた。痩せた身体。人の顔。袖口から、細い白い糸が一本だけ覗いている。


「何を?」

「この前の」


男が鼻を動かす。


「人」

「知らない」

「嘘。匂いが残ってる」


奈々香は自分の袖を嗅いだ。ほとんど分からない。一度、近くを歩いただけなのに。


「いい匂いだった」

「そう」

「食べた?」

「まだ」


男が少し笑った。


「まだ?」

「うん」

「もったいない」


奈々香は返事をしなかった。


「じゃあ、僕が食べていい?」

「嫌」


考えるより先に出た。


男が止まる。


「またそれ」

「何が?」

「嫌って言う」

「嫌だから」

「まだ食べてないんでしょう?」

「うん」

「じゃあ、君のじゃない」


奈々香は男を見る。


「だから?」

「誰が食べてもいい」

「嫌」


男はしばらく奈々香を見ていた。


「変なの」

「そう?」

「一人ずつ産むやつって面倒だね」

「あなたたちが雑なんだよ」

「僕たちは早いよ」

「知ってる」

「いっぱい産めるし」

「知ってる」

「強いし」


奈々香は男を見る。


「それは違う」


男の笑みが止まった。


「何が?」

「強くないでしょう」


男の袖口から、白い糸が落ちた。奈々香はそれを見る。


「しまった方がいいよ」

「誰も見てない」

「見られたら面倒」

「見たら食べればいい」


奈々香は眉を寄せた。


「汚い」

「食べるくせに」

「食べるのと、汚すのは違うよ」


男は肩をすくめた。白い糸を袖の中へ戻す。


「じゃあ、何で食べないの?」


奈々香は駅前を見た。

まだ、いない。


「見てるから」

「何を?」


奈々香は少し考えた。


「分からない」

「分からないのに?」

「うん」

「食べれば分かるかも」


奈々香は男を見る。


「それだと、もう見られないでしょう」


男が黙った。奈々香も、自分が何を言ったのか少し考えた。


食べれば終わる。当たり前のことだった。それなのに今は、それが少し惜しい。


「やっぱり変」

「そう」


男はベンチに座った。


「僕なら、見つけた日に食べる」

「知ってる」

「逃げる前に足を取って――」

「それ嫌い」

「逃げるでしょう」

「逃げたら追えばいい」

「面倒」

「だから弱いんだよ」


男が奈々香を見る。


「君、本当に嫌い」

「そう」

「でも食べない」

「うん」

「独り占めする」

「まだしてないよ」

「じゃあ、触っていい?」

「駄目」


男が笑った。


「やっぱり」


奈々香は答えなかった。


まだ、何もしていない。触れてもいない。匂いもつけていない。名前を呼んで、少し話しただけ。


だから、シンは奈々香のものではない。


それなのに。


他のものが触るのは嫌だった。


「来た」


男が言った。


奈々香はすぐに駅前を見た。山側の道から、シンが歩いてくる。

昨日と同じリュック。少し丸まった背中。昨日より、迷っていない。


人混みの中でも、すぐに分かった。


男が鼻を動かす。


「やっぱりいい匂い」

「帰って」

「まだ何もしてない」

「帰って」

「怖いな」


男は立ち上がった。


「食べる時、呼んで」

「嫌」

「見たいのに」

「嫌」


男は笑った。


「人に食べられないようにね」

「あなたに言われたくない」


男が公園の反対側へ消える。


少しして、シンが来た。


「奈々香さん」

「うん」

「いたんですね」

「いたよ」


シンが小さく息を吐いた。奈々香は、それを見た。


「今日は迷わなかった?」

「少しだけ」

「少し?」

「昨日よりは」

「そっか」


シンが公園を見る。


「誰かと話してました?」

「うん」

「知り合い?」

「たぶん」


シンが眉を寄せる。


「またそれですか」

「使いやすいよ」

「俺の言葉なのに」

「言葉に持ち主っているの?」

「……いないですけど」

「じゃあ、いいね」


シンは何か言い返そうとして、やめた。それから、少し笑った。


笑う前に、一度だけ目を伏せる。

奈々香は、その顔を見た。


また。


「どうしました?」

「何が?」

「見てたから」

「見てたよ」

「何を?」

「シン」


目が逸れる。耳が少し赤い。


「奈々香さんって、人のことよく見ますよね」

「嫌?」

「嫌というか……恥ずかしいです」

「そう」

「見ないでください」

「嫌」


シンが顔を上げた。


「そこは嫌なんですか」

「うん」

「なんで」

「見たいから」


シンは黙った。また、困った顔をした。


「今日は何を買うの?」

「買い物じゃないです」

「じゃあ、どうして来たの?」


シンの目が泳ぐ。


「……散歩です」

「たぶん?」

「それは奈々香さんでしょう」


奈々香は笑った。


「歩く?」

「はい」


二人で公園を出た。


最初、シンは少し離れていた。奈々香は何も言わない。しばらく歩くと、その距離が少し縮んだ。


肩は触れない。でも、匂いは近い。


すれ違った女がシンを見る。次に奈々香を見る。そのまま通り過ぎる。


また一人。


今度は男。やはり、シンを見る。


「奈々香さん」

「うん」

「見られてません?」


昨日より早く気づいた。


「怖い?」

「少し」

「帰る?」


シンは歩いたままだった。


「いえ」

「帰ってもいいよ」

「大丈夫です」


また。


大丈夫。


奈々香は、それ以上言わなかった。


少しして、シンの歩幅が変わった。奈々香と同じになる。


「シン」

「はい」

「今日、どうして来たの?」

「だから、散歩です」

「本当に?」

「……たぶん」


奈々香は笑った。


「便利だね」

「返してください」

「嫌」

「嫌ばっかりですね」

「そう?」

「そうですよ」


奈々香はシンを見る。


「じゃあ、シンにはあまり言わない」

「俺には?」

「うん」

「……なんでですか」

「嫌?」

「いや、そうじゃなくて」


困っている。

奈々香は、その顔を見る。

食べれば、これがなくなる。

声も。歩く音も。こうして困る顔も。


全部。


人は美味しい。奈々香も知っている。

だから欲しい。

シンの首筋を見る。薄い皮膚。その下を流れるもの。


近い。


「奈々香さん?」

「うん」

「今、首見てました?」

「見てたよ」


シンが首を押さえる。


「何かついてます?」

「何も」

「じゃあ、なんで」

「見たかったから」

「またそれですか」


シンは笑った。奈々香も笑った。


食べたい。

それは変わらない。


でも。


まだ、この顔を見ていたい。


その時、道の向こうに黒い服が見えた。さっきの男だった。こちらを見ている。


奈々香と目が合う。

男の視線がシンへ移る。


首。

腕。

腹。


奈々香は足を止めた。


「どうしました?」


シンも止まる。

男が笑った。口が動く。


まだ?


奈々香は、シンの前へ半歩出た。


「奈々香さん?」


自分が動いたことに、少し遅れて気づいた。

男は肩をすくめた。そのまま角の向こうへ消える。


「誰かいました?」

「いたよ」

「知り合い?」

「たぶん」

「また」


シンが笑った。


奈々香は歩き出す。さっきのことを考えた。

男は何もしない。奈々香がいるところでは、手を出さない。分かっていた。だから、前に出る必要はなかった。


なのに、出た。


「シン」

「はい」

「触っていい?」


シンの足が止まった。


「……どこをですか」

「手」


シンは自分の右手を見る。


「なんでですか」

「触ってみたいから」

「それだけ?」

「うん」


シンは迷っている。奈々香は手を出さなかった。


「嫌ならいいよ」

「そう言われると、断りにくいんですけど」

「どうして?」

「俺が勝手に嫌がってるみたいになるから」

「嫌なら、シンが嫌なんでしょう?」

「そうですけど」

「じゃあ、いいよ」


奈々香は歩き出した。


一歩。

二歩。

三歩。


「奈々香さん」


振り返る。


シンが右手を少しだけ出していた。


「手くらいなら」


腕は伸びきっていない。いつでも引ける。

奈々香は近づいた。

細い指。小さな傷。昨日から何度も見ていた手。


指先を重ねる。


あたたかい。


シンの指が少し動いた。それでも、引かなかった。

奈々香は一度だけ触れて、離した。


「終わりですか」

「うん」

「……何だったんですか」


奈々香は自分の指を見る。


「確かめたかった」

「何を?」

「内緒」

「なんで」

「まだ、教えない」

「また変なこと言ってる」


奈々香は歩き出した。

指先に温度が残っている。

噛まなくても分かることがあった。

それが、少し面白かった。


夕方。


山道の入口で、シンが止まった。


「じゃあ、帰ります」

「うん。気をつけて」

「はい」


シンは山を向いた。でも、すぐには歩かなかった。


「……また」


奈々香は目を細める。昨日は、自分から言った。

今日は違う。


「うん」

「またね」


シンが歩いていく。途中で一度、右手を見る。

奈々香が触れた手。

それから、また歩き出した。

奈々香は追わなかった。


君のじゃない。

男の言葉を思い出す。


そうだった。


まだ、奈々香のものではない。

何もつけていない。縛ってもいない。触れたのだって、指先だけ。


それでも。


今日は、買うものもないのに来た。

手を差し出したのも、シンだった。

帰る時には、自分から「また」と言った。


奈々香は山道を見る。もう姿はない。


追えば、すぐに見つけられる。匂いを辿れば、小屋まで行ける。捕まえることもできる。連れて帰ることもできる。


でも、それでは違う気がした。

奈々香は指先を握った。


まだ、私のものじゃない。


だから。



自分で、こちらへ来ればいい。

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