第二十一話 奈々香の記憶③
奈々香は、シンを待つようになった。
最初は、そう思っていなかった。
駅前を歩く。公園を通る。店を見る。人の匂いがしないか確かめる。それだけ。
シンと会う前からしていたこと。だから、同じだった。
ただ、公園を通る時間が、少し長くなった。山側の道を見る回数が増えた。白い服を着る日も増えた。
理由は分からなかった。
「また待ってる」
声がした。奈々香は振り返らなかった。
「待ってないよ」
「前もそう言ってた」
「散歩」
「毎回?」
「うん」
黒い服の男が隣まで来た。今日は、袖から糸を出していない。少しは覚えたらしい。
男も山側を見る。
「来るの?」
「知らない」
「来なかったら?」
「帰る」
「食べに行けばいいのに」
奈々香は男を見る。
「どこにいるか知らない」
「嘘」
「どうして?」
「匂い、分かるでしょう」
奈々香は答えなかった。
分かる。
山へ続く道。土。木。水。その奥。
薄く残っているシンの匂い。
辿ろうと思えば辿れる。一度近くまで行けば、もっと簡単になる。
「捕まえればいいじゃん」
男が言った。
「何を?」
「人」
「シン」
「どっちでもいいよ」
「違うよ」
男が奈々香を見る。
「何が?」
「シンって名前だから」
「人でしょう?」
「シンだよ」
男は少し黙った。
「やっぱり変」
「そう?」
「名前なんて、食べたらいらない」
「食べる前はいるよ」
「食べるんだ」
奈々香は駅前を見る。
「たぶん」
男が笑った。
「その言葉、好きだね」
「もらったの」
「誰に?」
奈々香は答えなかった。
男が鼻を動かす。
「来た」
奈々香は山側を見る。まだ見えない。
少しして、人影が出てきた。シンだった。今日は手に何も持っていない。買い物袋もない。
奈々香は少し笑った。
「帰って」
「また?」
「うん」
「僕、何もしてないよ」
「知ってる」
「じゃあ、いてもいいでしょう?」
「嫌」
男はため息をついた。
「それ、僕にはいっぱい言うね」
「うん」
「人には言わないの?」
奈々香は少し考える。
「シンには、あまり言わない」
「なんで?」
分からない。
そう答えようとした。
でも、シンが近づいてきた。奈々香を見つける。足が止まる。
それから、少しだけ、歩くのが速くなった。
男の質問は、どうでもよくなった。
「奈々香さん」
「うん」
「こんにちは」
「こんにちは」
「今日もいたんですね」
「いたよ」
シンは男を見る。
「こんにちは」
男が笑う。
「こんにちは」
シンは知らない。だから、普通に頭を下げる。
男の視線が、シンの喉へ落ちた。
奈々香は男を見る。男はすぐに目を逸らした。
「じゃあ、僕は行くよ」
「うん」
「またね」
最後の言葉は、奈々香に向けたものではなかった。
シンが軽く頭を下げる。
「はい」
男が離れていく。奈々香は、その背中が見えなくなるまで見ていた。
「知り合いですか?」
「たぶん」
「またそれ」
「うん」
シンが笑う。もう、このやり取りを何度かしている。
「今日は買い物?」
「違います」
「散歩?」
「……はい」
「たぶん?」
「今日は、たぶんじゃないです」
「そっか」
「散歩です」
「うん」
シンは少し黙った。
「何ですか」
「何が?」
「なんか、言いたそうだから」
「言ってほしい?」
「……やっぱりいいです」
奈々香は笑った。シンが困った顔をする。
前より、その顔を見る回数が増えた。
でも、少し違う。
最初は、本当に困っていた。今は、困っているのに、少し楽しそうだった。
「歩く?」
「はい」
二人で歩き出した。
人の多い道を避ける。シンはまだ、この街で目立つ。見るものも多い。近づこうとするものもいる。
奈々香と一緒にいる時は、減った。でも、なくなったわけではない。
すれ違う女がシンを見る。奈々香を見る。また、シンを見る。
それだけで離れていく。
シンは、その視線に少しずつ気づき始めていた。
「奈々香さんといると」
「うん」
「前より、見られなくなった気がします」
「そう?」
「気のせいですかね」
「たぶん」
「便利ですね、それ」
「うん」
シンが笑う。奈々香は、その横顔を見る。
前は、首ばかり見ていた。今は違う。
目。口。髪。手。歩き方。話す時の間。
困った時に、少しだけ眉が下がること。笑う前に、目を伏せること。
色々見る。
首も見る。
食べたいと思う。
それも変わらない。
「奈々香さん」
「何?」
「また見てる」
「うん」
「飽きないんですか」
「まだ」
「まだって」
「飽きたらやめる」
「それ、ちょっと嫌ですね」
奈々香はシンを見る。
「嫌?」
「……少し」
「どうして?」
シンは前を向いた。
「分かりません」
「そっか」
「聞かないんですね」
「分からないんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、分かったら教えて」
シンが少し考える。
「覚えてたら」
「覚えてるよ」
「奈々香さんが?」
「うん」
シンは何も言わなかった。少しだけ、口元が緩んだ。
奈々香はそれも見た。
細い道へ入る。人が減る。建物の影。静かになる。
シンの匂いが、少し分かりやすくなった。
土。薪。布。汗。
その下。
人。
近くにいる。手を伸ばせば届く。
前よりずっと簡単だっだ。
「シン」
「はい」
「逃げないね」
シンが足を止めた。奈々香も止まる。
「……何からですか」
「私から」
シンの顔から、少しだけ笑みが消えた。
「急ですね」
「うん」
「なんでそんなこと聞くんですか」
「気になったから」
シンは奈々香を見る。目が合う。すぐには逸らさなかった。
「逃げた方がいいんですか」
「分からない」
「そこは、たぶんじゃないんですね」
「うん」
「……怖いこと言いますね」
「怖い?」
少し間があった。
「たぶん」
奈々香は笑った。シンも、少しだけ笑った。
でも、呼吸が少しだけ速い。
分かる。
「帰る?」
「え?」
「怖いなら」
奈々香は、来た道を見る。
「帰っていいよ」
シンも振り返る。
道はある。誰も塞いでいない。奈々香も、シンに触れていない。
走れば離れられる。奈々香が追わなければ。
「……奈々香さんは?」
「何?」
「俺が帰ったら」
シンは少し迷う。
「怒ります?」
「怒らないよ」
「嫌いになります?」
奈々香は瞬きをした。
「ならないよ」
シンは黙った。奈々香は待った。
少しして、シンが前を向く。
「じゃあ、もう少し歩きます」
「いいの?」
「はい」
「怖いのに?」
「……少しだけなので」
歩き出す。
奈々香は、すぐには追わなかった。少し遅れて歩く。
シンが一度だけ振り返った。奈々香がいるのを見る。それから、歩く速度を少し落とした。
奈々香は追いついた。並ぶ。
面白い。逃げてもいいと言った。道もある。
それでも帰らなかった。
「何ですか」
「何が?」
「笑ってる」
「嬉しいから」
「何がですか」
奈々香は少し考えた。
「シンが帰らなかったから」
シンの歩く速度が少し落ちる。
「……そういうこと、普通に言うんですね」
「駄目?」
「駄目じゃないですけど」
「じゃあ、いいね」
「奈々香さん、そういうところありますよね」
「どういうところ?」
「俺が何も言えなくなるところ」
「嫌?」
シンはため息をついた。
「またそれ」
奈々香は笑った。
「嫌じゃないです」
「そっか」
「だから、そんな嬉しそうな顔しないでください」
「嫌」
「ほら」
二人で歩いた。
その日は、それだけだった。
奈々香はシンを食べなかった。
次の日も。その次も。
会わない日もあった。
シンが来ない日。奈々香は駅前を歩いた。公園を通った。山側を見る。
いない。それだけ。
次の日。
いた。
「こんにちは」
「うん」
「昨日もいました?」
「いたよ」
「そうなんですか」
「うん」
「……待ってました?」
奈々香は少し考えた。
「たぶん」
シンが笑う。
「そこは認めないんですね」
「待つって、約束した時にするものでしょう?」
「そうなんですか?」
「違う?」
「いや、俺に聞かれても」
「じゃあ、分からない」
「適当だな」
前より、言葉が少しだけ柔らかくなっていた。
奈々香は、それが好きだった。
好き。
そう思ってから、少し考える。
シンが好き。
声が好き。困った顔が好き。近づいた時の匂いが好き。
人だから好きなのかもしれない。食べたいから好きなのかもしれない。
まだ分からない。でも、どれでもよかった。
「シン」
「はい」
「好きだよ」
シンが止まった。奈々香も止まる。
「……何がですか」
「シン」
「いや」
シンが目を逸らす。
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「急に言うから」
「言ったら駄目?」
「駄目じゃないですけど」
「じゃあ、いいね」
「よくないです」
「どっち?」
「……分かりません」
奈々香は笑う。
「顔、赤いよ」
「言わないでください」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
「そっか」
「見ないでください」
「嫌」
「知ってます」
シンが歩き出す。奈々香も隣を歩く。
距離が、少し近かった。
別の日。
公園の植え込みに、白い糸があった。
一本だけ。細い。
奈々香は足を止める。
糸は植え込みから、ベンチの脚へ続いていた。
さらに、その先の山側の道。
奈々香は糸を摘んだ。引く。切れない。爪を立てる。
切れた。
「何してるの?」
後ろから声。
奈々香は振り返る。黒い服の男。
「これ、何?」
「糸」
「知ってる」
「じゃあ、聞かなくていいでしょう」
「どこまでつけたの?」
「少し」
「どこまで?」
男は笑う。奈々香は笑わなかった。
「山の入口まで」
「どうして?」
「気になるから」
「何が?」
「どこに帰るのか」
奈々香は手の中の糸を見る。
「行った?」
「まだ」
「行かないで」
「どうして?」
「嫌だから」
「またそれ」
男は近づく。
「君だって知ってるんでしょう?」
「知らないよ」
「嘘」
「知ろうと思えば知れるだけ」
「同じだよ」
「違う」
奈々香は糸を捨てる。
「シンが教えてないから」
男が少し黙った。
「何それ」
「知らない」
「知りたいなら、ついていけばいい」
「うん」
「じゃあ、何でしないの?」
奈々香は山側を見る。
「まだ、いいから」
「また待つの?」
「うん」
「面倒」
「そう?」
「人なんて逃げるよ」
「逃げたら?」
「追う」
「私は、追わないかも」
男が眉を上げる。
「食べたいんでしょう?」
「うん」
「じゃあ追うでしょう」
奈々香は少し考えた。
シンが走る。怖がる。山へ帰る。二度と街へ来ない。
それでも、追えば捕まえられる。足を取れば、逃げられない。糸で縛ってもいい。閉じ込めてもいい。
食べるだけなら、その方が簡単だった。
「逃げたら」
奈々香は言う。
「その時、考える」
「変なの」
「知ってる」
「取られても?」
奈々香は男を見る。
「それは嫌」
「矛盾してる」
「そう?」
「逃げるのはいいのに、僕が食べるのは駄目?」
「うん」
「意味分かんない」
「私も」
男が笑う。
「恋人みたい」
奈々香は首を傾げる。
「恋人?」
「人がやるやつ」
「知ってるよ」
「好きって言って」
男が指を一本立てる。
「触って」
二本。
「一緒にいて」
三本。
「それで、見えない糸で縛る」
奈々香は男を見る。
「見えないのに?」
「人には見えるんじゃない?」
「変なの」
「君に言われたくない」
男は笑った。
奈々香は、さっき切った白い糸を見る。
これは見える。触れるし切れる。
人が使うものは、見えない。
でも逃げない。
奈々香は少し考えた。
「それ、便利?」
「何が?」
「恋人」
「知らないよ」
「そっか」
「人に聞けば?」
奈々香は山側を見る。
「そうする」
男が笑った。
「やっぱり変」
その日、シンは来なかった。
次の日も、来なかった。
三日目。
奈々香は駅前にいた。山側を見る。いない。
公園へ行く。いない。
店の前を通る。いない。
もう一度、駅前を見る。いない。
奈々香は山側へ歩いた。公園を抜ける。住宅が減る。道が細くなる。
シンの匂いは薄い。でも分かる。
奈々香は山道の入口まで歩いた。
そこから先は、もっと濃い。
土。木。水。煙。
シン。
奈々香は足を止めた。
行けばいい。すぐ見つかる。三日来ない理由も分かる。
怪我をしているかもしれない。もう来るつもりがないのかもしれない。何かに見つかったのかもしれない。
死んでいるかもしれない。
奈々香は山を見る。
一歩、進む。
もう一歩。
そこで止まった。
シンはここを教えていない。
奈々香は、後ろを見る。街へ続く道。
しばらく、その場にいた。
それから、戻った。
次の日。
奈々香は公園のベンチに座った。
今日は、散歩ではなかった。
山側を見ていた。人が来る。
違う。
また来る。
違う。
何人か通り過ぎる。
違う。
昼を過ぎた。奈々香は待った。
夕方になる前、山側の道に、小さな人影が見えた。
奈々香は立ち上がらなかった。
シンだった。
少し疲れた顔。奈々香を見つける。足が止まる。
それから、歩いてくる。
「奈々香さん」
「うん」
「……いた」
「いたよ」
シンが笑う。奈々香は、その顔を見る。
「三日、来なかったね」
「数えてたんですか」
「うん」
「待ってた?」
奈々香は少し考えた。
今度は。
「待ってたよ」
シンが黙った。
「何?」
「いや」
「何?」
「奈々香さんが、普通に認めると思わなかったから」
「待ってたから」
「……そうですか」
シンは奈々香の隣に座った。少し間を空けて。
「何してたの?」
「山にいました」
「ずっと?」
「はい」
「どうして?」
「別に」
「別に?」
「来る理由もないので」
奈々香はシンを見る。
「今日は?」
「何がですか」
「来る理由」
シンが黙った。奈々香は待つ。
「……散歩です」
「たぶん?」
「たぶん」
奈々香は笑った。シンも笑う。
「奈々香さん」
「うん」
「俺が来なかったら、どうしてました?」
「待ってた」
「ずっと?」
「分からない」
「探しに来たり?」
奈々香は山を見る。
「途中まで行ったよ」
シンが奈々香を見る。
「山に?」
「うん」
「どこまで?」
「入口」
「なんで戻ったんですか」
「シンが教えてないから」
シンは黙る。
「場所」
奈々香は続ける。
「教えてないでしょう?」
「……はい」
「だから、行かなかった」
「匂いで分かるんじゃないんですか」
「分かるよ」
「じゃあ」
「でも、教えてないから」
シンは奈々香を見る。長く。
「奈々香さんって」
「うん」
「変ですよね」
「よく言われる」
「勝手に来そうなのに」
「来てほしかった?」
「そういう意味じゃないです」
「嫌だった?」
「……嫌じゃないです」
奈々香は笑った。
「じゃあ、今度行っていい?」
「それは」
シンが困る。奈々香は待つ。
「……まだ」
「そっか」
「すみません」
「どうして謝るの?」
「なんとなく」
「謝らなくていいよ」
「はい」
「教えたくなったら教えて」
シンが少し驚いた顔をした。
「それだけ?」
「うん」
「分かりました」
奈々香はシンを見る。
また、一つ、道が残った。
でも、少し違う。
最初から、その道はシンのものだった。
奈々香が塞いでいないだけ。
「シン」
「はい」
「恋人って、便利?」
シンが固まった。
「……何ですか、急に」
「気になった」
「何で俺に聞くんですか」
「人だから」
「雑すぎません?」
「知ってるでしょう?」
シンは少し黙る。
「まあ……一応」
「何するの?」
「何って」
「好きって言う?」
「言うんじゃないですか」
「触る?」
「まあ」
「一緒にいる?」
「いますね」
「逃げない?」
シンが奈々香を見る。
「逃げるって何ですか」
「嫌になったら」
「ああ」
シンは少し考える。
「別れるんじゃないですか」
「別れたら?」
「離れます」
「追わない?」
「普通は」
「そっか」
奈々香は考える。
好きと言う。触る。一緒にいる。
それでも、嫌なら離れられる。
「糸はいらないんだ」
「糸?」
「何でもない」
シンが首を傾げた。
奈々香は、その手を見る。前に触れた手。
今日は、触らない。
「奈々香さん」
「うん」
「恋人、欲しいんですか」
「分からない」
「なんで聞いたんだよ」
シンが笑う。
「シンは?」
笑みが少し消えた。
「……今は、別に」
「前はいた?」
シンが黙る。奈々香は待った。
「いました」
「好きだった?」
「たぶん」
「また、たぶん」
「そうですね」
シンは自分の手を見る。
「好きだったと思います」
「今も?」
「分かりません」
「そっか」
「聞かないんですね」
「何を?」
「何があったとか」
「言いたい?」
「……今は、いいです」
「じゃあ、聞かない」
シンは少しだけ目を伏せた。
その顔を奈々香は見る。
また、どこかで見た気がした。
でも、思い出せない。
思い出せなくてもいい。
今、目の前にいる。
「奈々香さん」
「うん」
「俺が、もう来ないって言ったらどうします?」
奈々香はシンを見る。
「来ないの?」
「例えばです」
「そっか」
少し考える。
「嫌だと思う」
「それだけ?」
「うん」
「止めない?」
「止めてほしい?」
「そういう聞き方ずるいですよ」
「どうして?」
「俺に決めさせるから」
奈々香は瞬きをする。
「シンが決めることでしょう?」
「そうですけど」
「私が決めるの?」
「違いますけど」
シンは困った顔をした。
「……奈々香さんと話してると、たまに分からなくなる」
「何が?」
「自分が何したいのか」
「分からなくてもいいよ」
「いいんですか」
「うん」
「奈々香さんは?」
「何が?」
「俺に来てほしいんですか」
奈々香は答えた。
「うん」
シンが黙る。
「来てほしいよ」
「……そうですか」
「でも、来たくないなら来なくていい」
シンが少し笑った。
「ほら」
「何?」
「それです」
「どれ?」
「逃げ道出すやつ」
奈々香は少し考える。
「嫌?」
シンは笑った。
「分かりません」
「そっか」
「でも」
シンは山側を見る。
「多分、また来ます」
奈々香は、その横顔を見る。
「うん」
「約束じゃないですよ」
「分かってる」
「来なかったら」
「待つよ」
「いつまで?」
「分からない」
「適当ですね」
「うん」
シンが笑う。奈々香も笑った。
夕方。シンが立ち上がる。
「帰ります」
「うん」
「今日は、手触らないんですか」
奈々香はシンを見る。
シンも、自分で言ってから気づいたようだった。
「いや」
「触ってほしい?」
「そういう意味じゃなくて」
「触る?」
「……どっちでもいいです」
奈々香は手を出さなかった。
「じゃあ、今日はいい」
「そうですか」
少しだけ、残念そうに見えた。
奈々香は、それも見た。
「またね」
「はい」
シンが山へ向かう。何歩か歩く。
「シン」
振り返る。
「何ですか?」
「逃げてもいいよ」
シンが眉を寄せた。
「何からですか」
「何でも」
「また変なこと言ってる」
「うん」
「……奈々香さんからも?」
「うん」
シンはしばらく奈々香を見る。
「分かりました」
「うん」
「でも」
少し笑った。
「今日は帰るだけです」
奈々香も笑った。
「そっか」
シンは山へ帰っていった。
奈々香は追わない。
姿が見えなくなるまで、そこにいた。
逃げてもいい。来なくてもいい。場所を教えなくてもいい。触らせなくてもいい。
嫌なら、嫌と言えばいい。
それでも。
シンは来る。
奈々香が山へ行かなくても。糸をつけなくても。足を取らなくても。捕まえなくても。
自分で道を歩いて。
自分で奈々香を探して。
自分で近くへ来る。
男が言っていた。
見えない糸。
奈々香には、まだよく分からなかった。
見えないものを信じるより、見える糸で縛った方が簡単だと思う。
でも、白い糸なら、切れる。
足を取れば、這ってでも逃げようとするかもしれない。
鍵をかければ、開けようとする。
逃げ道をなくせば、人は、逃げ道を探す。
なら。なくさなければいい。
道は、そのままにしておけばいい。帰りたいなら、帰ればいい。来たくないなら、来なくていい。嫌なら、離れればいい。
それでも戻ってきたなら。
奈々香は自分の指先を見る。前に触れた場所。
もう温度は残っていない。
でも、覚えている。
シンの手。シンの声。シンの匂い。
困った顔。笑う前に伏せる目。
「大丈夫です」
「たぶん」
「また」
少しずつ増えている。
食べれば、それ以上は増えない。
だから、まだ。
奈々香は山道に背を向けた。駅前へ戻る。
空が少し暗くなっていた。店に明かりがついている。駅から人が出てくる。
誰かと話すもの。一人で歩くもの。手を繋いでいるもの。
奈々香は、その中の二人を見た。
男と女。指を絡めて歩いている。
白い糸はない。足もある。鍵もない。
それでも、二人は離れない。
男が少し先へ行く。女が追いつく。今度は女が先へ行く。男が追いつく。
奈々香はしばらく見ていた。
変なの。どちらも逃げられるのに同じ方向へ歩いている。
男が何か言った。女が笑う。二人は駅の向こうへ消えた。
奈々香は自分の手を見る。前にシンへ触れた指。
温度は、もうない。
それでも、どんな温度だったかは覚えている。
あたたかかった。
少し動いた。でも、引かなかった。
次に会ったら、また触ってみたい。
今度は、もう少し長く。
嫌だと言われたら、やめればいい。離されたら、離せばいい。
それでも、また差し出されたらその時は、また触ればいい。
奈々香は歩き出した。駅前を抜ける。公園の前を通る。
昼に男がいたベンチ。もう誰もいない。白い糸もない。
奈々香は、そのまま通り過ぎようとした。
足が止まる。
ベンチの方へ振り返る。
その向こう。
山側の道。
明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。約束はしていない。
それでも明日も、ここへ来ようと思った。
散歩ではない。
奈々香は、もう知っていた。待つのだ。
シンが自分で山を下りてくるのを。
自分を見つけるのを。
少し安心した顔をするのを。
「奈々香さん」と呼ぶのを。
そして。
帰れるのに。
帰らないのを。
奈々香は少し笑った。
追わなくていい。捕まえなくていい。糸もいらない。足も取らなくていい。
扉だって、閉めなくていい。
それでも人は、自分から近づくことがある。
怖いのに。
逃げられるのに。
何度でも。
奈々香には、まだ、それが何なのか分からなかった。
好きだからなのか。寂しいからなのか。一人でいるより、誰かのそばにいる方が安心するからなのか。
たぶん全部少しずつ違う。
だからもう少し見てみたいと思った。
食べるのはそのあとでもいい。
シンがどこまで近づいてくるのか。
どこまで知っても、戻ってくるのか。
どこまで怖がっても、奈々香の名前を呼ぶのか。
まだ、知らない。
知らないから、食べずにいられる。
奈々香は山側の道から目を離した。歩き出す。
数歩。
また振り返る。誰もいない。
「またね」
小さく言った。
返事はない。当たり前だった。シンは、もう山へ帰った。それでも、奈々香は少しだけそこにいた。
初めて会った日。駅前で、人の匂いがした。
美味しそうだと思った。近づいた。名前を聞いた。
食べるつもりだった。
いつかは。たぶん今も。
それは変わっていない。
ただ。
あの時とは、一つだけ違った。
奈々香は山側の道を見る。
人の匂いを探しているのではない。
もう誰でもよくなかった。
明日あの道から来る匂いを、待っている。
シンの匂いを。
ここまでご覧頂きありがとうございます。
新たに第2章も書く予定ですので末永くお願い致します。




