↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恋と生存 〜誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた〜  作者: α


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/21

第二十一話 奈々香の記憶③

奈々香は、シンを待つようになった。

最初は、そう思っていなかった。


駅前を歩く。公園を通る。店を見る。人の匂いがしないか確かめる。それだけ。

シンと会う前からしていたこと。だから、同じだった。


ただ、公園を通る時間が、少し長くなった。山側の道を見る回数が増えた。白い服を着る日も増えた。


理由は分からなかった。


「また待ってる」


声がした。奈々香は振り返らなかった。


「待ってないよ」

「前もそう言ってた」

「散歩」

「毎回?」

「うん」


黒い服の男が隣まで来た。今日は、袖から糸を出していない。少しは覚えたらしい。


男も山側を見る。


「来るの?」

「知らない」

「来なかったら?」

「帰る」

「食べに行けばいいのに」


奈々香は男を見る。


「どこにいるか知らない」

「嘘」

「どうして?」

「匂い、分かるでしょう」


奈々香は答えなかった。


分かる。


山へ続く道。土。木。水。その奥。

薄く残っているシンの匂い。

辿ろうと思えば辿れる。一度近くまで行けば、もっと簡単になる。


「捕まえればいいじゃん」


男が言った。


「何を?」

「人」

「シン」

「どっちでもいいよ」

「違うよ」


男が奈々香を見る。


「何が?」

「シンって名前だから」

「人でしょう?」

「シンだよ」


男は少し黙った。


「やっぱり変」

「そう?」

「名前なんて、食べたらいらない」

「食べる前はいるよ」

「食べるんだ」


奈々香は駅前を見る。


「たぶん」


男が笑った。


「その言葉、好きだね」

「もらったの」

「誰に?」


奈々香は答えなかった。


男が鼻を動かす。


「来た」


奈々香は山側を見る。まだ見えない。


少しして、人影が出てきた。シンだった。今日は手に何も持っていない。買い物袋もない。


奈々香は少し笑った。


「帰って」

「また?」

「うん」

「僕、何もしてないよ」

「知ってる」

「じゃあ、いてもいいでしょう?」

「嫌」


男はため息をついた。


「それ、僕にはいっぱい言うね」

「うん」

「人には言わないの?」


奈々香は少し考える。


「シンには、あまり言わない」

「なんで?」


分からない。

そう答えようとした。

でも、シンが近づいてきた。奈々香を見つける。足が止まる。


それから、少しだけ、歩くのが速くなった。

男の質問は、どうでもよくなった。


「奈々香さん」

「うん」

「こんにちは」

「こんにちは」

「今日もいたんですね」

「いたよ」


シンは男を見る。


「こんにちは」


男が笑う。


「こんにちは」


シンは知らない。だから、普通に頭を下げる。

男の視線が、シンの喉へ落ちた。

奈々香は男を見る。男はすぐに目を逸らした。


「じゃあ、僕は行くよ」

「うん」

「またね」


最後の言葉は、奈々香に向けたものではなかった。


シンが軽く頭を下げる。


「はい」


男が離れていく。奈々香は、その背中が見えなくなるまで見ていた。


「知り合いですか?」

「たぶん」

「またそれ」

「うん」


シンが笑う。もう、このやり取りを何度かしている。


「今日は買い物?」

「違います」

「散歩?」

「……はい」

「たぶん?」

「今日は、たぶんじゃないです」

「そっか」

「散歩です」

「うん」


シンは少し黙った。


「何ですか」

「何が?」

「なんか、言いたそうだから」

「言ってほしい?」

「……やっぱりいいです」


奈々香は笑った。シンが困った顔をする。

前より、その顔を見る回数が増えた。


でも、少し違う。


最初は、本当に困っていた。今は、困っているのに、少し楽しそうだった。


「歩く?」

「はい」


二人で歩き出した。


人の多い道を避ける。シンはまだ、この街で目立つ。見るものも多い。近づこうとするものもいる。

奈々香と一緒にいる時は、減った。でも、なくなったわけではない。


すれ違う女がシンを見る。奈々香を見る。また、シンを見る。


それだけで離れていく。


シンは、その視線に少しずつ気づき始めていた。


「奈々香さんといると」

「うん」

「前より、見られなくなった気がします」

「そう?」

「気のせいですかね」

「たぶん」

「便利ですね、それ」

「うん」


シンが笑う。奈々香は、その横顔を見る。

前は、首ばかり見ていた。今は違う。


目。口。髪。手。歩き方。話す時の間。

困った時に、少しだけ眉が下がること。笑う前に、目を伏せること。


色々見る。

首も見る。

食べたいと思う。


それも変わらない。


「奈々香さん」

「何?」

「また見てる」

「うん」

「飽きないんですか」

「まだ」

「まだって」

「飽きたらやめる」

「それ、ちょっと嫌ですね」


奈々香はシンを見る。


「嫌?」

「……少し」

「どうして?」


シンは前を向いた。


「分かりません」

「そっか」

「聞かないんですね」

「分からないんでしょう?」

「はい」

「じゃあ、分かったら教えて」


シンが少し考える。


「覚えてたら」

「覚えてるよ」

「奈々香さんが?」

「うん」


シンは何も言わなかった。少しだけ、口元が緩んだ。

奈々香はそれも見た。


細い道へ入る。人が減る。建物の影。静かになる。


シンの匂いが、少し分かりやすくなった。


土。薪。布。汗。

その下。

人。


近くにいる。手を伸ばせば届く。

前よりずっと簡単だっだ。


「シン」

「はい」

「逃げないね」


シンが足を止めた。奈々香も止まる。


「……何からですか」

「私から」


シンの顔から、少しだけ笑みが消えた。


「急ですね」

「うん」

「なんでそんなこと聞くんですか」

「気になったから」


シンは奈々香を見る。目が合う。すぐには逸らさなかった。


「逃げた方がいいんですか」

「分からない」

「そこは、たぶんじゃないんですね」

「うん」

「……怖いこと言いますね」

「怖い?」


少し間があった。


「たぶん」


奈々香は笑った。シンも、少しだけ笑った。

でも、呼吸が少しだけ速い。

分かる。


「帰る?」

「え?」

「怖いなら」


奈々香は、来た道を見る。


「帰っていいよ」


シンも振り返る。


道はある。誰も塞いでいない。奈々香も、シンに触れていない。

走れば離れられる。奈々香が追わなければ。


「……奈々香さんは?」

「何?」

「俺が帰ったら」


シンは少し迷う。


「怒ります?」

「怒らないよ」

「嫌いになります?」


奈々香は瞬きをした。


「ならないよ」


シンは黙った。奈々香は待った。


少しして、シンが前を向く。


「じゃあ、もう少し歩きます」

「いいの?」

「はい」

「怖いのに?」

「……少しだけなので」


歩き出す。


奈々香は、すぐには追わなかった。少し遅れて歩く。


シンが一度だけ振り返った。奈々香がいるのを見る。それから、歩く速度を少し落とした。


奈々香は追いついた。並ぶ。

面白い。逃げてもいいと言った。道もある。


それでも帰らなかった。


「何ですか」

「何が?」

「笑ってる」

「嬉しいから」

「何がですか」


奈々香は少し考えた。


「シンが帰らなかったから」


シンの歩く速度が少し落ちる。


「……そういうこと、普通に言うんですね」

「駄目?」

「駄目じゃないですけど」

「じゃあ、いいね」

「奈々香さん、そういうところありますよね」

「どういうところ?」

「俺が何も言えなくなるところ」

「嫌?」


シンはため息をついた。


「またそれ」


奈々香は笑った。


「嫌じゃないです」

「そっか」

「だから、そんな嬉しそうな顔しないでください」

「嫌」

「ほら」


二人で歩いた。

その日は、それだけだった。

奈々香はシンを食べなかった。

次の日も。その次も。


会わない日もあった。


シンが来ない日。奈々香は駅前を歩いた。公園を通った。山側を見る。


いない。それだけ。


次の日。



いた。


「こんにちは」

「うん」

「昨日もいました?」

「いたよ」

「そうなんですか」

「うん」

「……待ってました?」


奈々香は少し考えた。


「たぶん」


シンが笑う。


「そこは認めないんですね」

「待つって、約束した時にするものでしょう?」

「そうなんですか?」

「違う?」

「いや、俺に聞かれても」

「じゃあ、分からない」

「適当だな」


前より、言葉が少しだけ柔らかくなっていた。

奈々香は、それが好きだった。


好き。


そう思ってから、少し考える。


シンが好き。


声が好き。困った顔が好き。近づいた時の匂いが好き。

人だから好きなのかもしれない。食べたいから好きなのかもしれない。


まだ分からない。でも、どれでもよかった。


「シン」

「はい」

「好きだよ」


シンが止まった。奈々香も止まる。


「……何がですか」

「シン」

「いや」


シンが目を逸らす。


「そういう意味じゃなくて」

「どういう意味?」

「急に言うから」

「言ったら駄目?」

「駄目じゃないですけど」

「じゃあ、いいね」

「よくないです」

「どっち?」

「……分かりません」


奈々香は笑う。


「顔、赤いよ」

「言わないでください」

「どうして?」

「恥ずかしいから」

「そっか」

「見ないでください」

「嫌」

「知ってます」


シンが歩き出す。奈々香も隣を歩く。

距離が、少し近かった。


別の日。


公園の植え込みに、白い糸があった。


一本だけ。細い。


奈々香は足を止める。

糸は植え込みから、ベンチの脚へ続いていた。

さらに、その先の山側の道。


奈々香は糸を摘んだ。引く。切れない。爪を立てる。


切れた。


「何してるの?」


後ろから声。

奈々香は振り返る。黒い服の男。


「これ、何?」

「糸」

「知ってる」

「じゃあ、聞かなくていいでしょう」

「どこまでつけたの?」

「少し」

「どこまで?」


男は笑う。奈々香は笑わなかった。


「山の入口まで」

「どうして?」

「気になるから」

「何が?」

「どこに帰るのか」


奈々香は手の中の糸を見る。


「行った?」

「まだ」

「行かないで」

「どうして?」

「嫌だから」

「またそれ」


男は近づく。


「君だって知ってるんでしょう?」

「知らないよ」

「嘘」

「知ろうと思えば知れるだけ」

「同じだよ」

「違う」


奈々香は糸を捨てる。


「シンが教えてないから」


男が少し黙った。


「何それ」

「知らない」

「知りたいなら、ついていけばいい」

「うん」

「じゃあ、何でしないの?」


奈々香は山側を見る。


「まだ、いいから」

「また待つの?」

「うん」

「面倒」

「そう?」

「人なんて逃げるよ」

「逃げたら?」

「追う」

「私は、追わないかも」


男が眉を上げる。


「食べたいんでしょう?」

「うん」

「じゃあ追うでしょう」


奈々香は少し考えた。


シンが走る。怖がる。山へ帰る。二度と街へ来ない。

それでも、追えば捕まえられる。足を取れば、逃げられない。糸で縛ってもいい。閉じ込めてもいい。

食べるだけなら、その方が簡単だった。


「逃げたら」


奈々香は言う。


「その時、考える」

「変なの」

「知ってる」

「取られても?」


奈々香は男を見る。


「それは嫌」

「矛盾してる」

「そう?」

「逃げるのはいいのに、僕が食べるのは駄目?」

「うん」

「意味分かんない」

「私も」


男が笑う。


「恋人みたい」


奈々香は首を傾げる。


「恋人?」

「人がやるやつ」

「知ってるよ」

「好きって言って」


男が指を一本立てる。


「触って」


二本。


「一緒にいて」


三本。


「それで、見えない糸で縛る」


奈々香は男を見る。


「見えないのに?」

「人には見えるんじゃない?」

「変なの」

「君に言われたくない」


男は笑った。


奈々香は、さっき切った白い糸を見る。

これは見える。触れるし切れる。

人が使うものは、見えない。


でも逃げない。


奈々香は少し考えた。


「それ、便利?」

「何が?」

「恋人」

「知らないよ」

「そっか」

「人に聞けば?」


奈々香は山側を見る。


「そうする」


男が笑った。


「やっぱり変」


その日、シンは来なかった。

次の日も、来なかった。


三日目。


奈々香は駅前にいた。山側を見る。いない。

公園へ行く。いない。

店の前を通る。いない。

もう一度、駅前を見る。いない。


奈々香は山側へ歩いた。公園を抜ける。住宅が減る。道が細くなる。


シンの匂いは薄い。でも分かる。


奈々香は山道の入口まで歩いた。

そこから先は、もっと濃い。

土。木。水。煙。


シン。


奈々香は足を止めた。


行けばいい。すぐ見つかる。三日来ない理由も分かる。

怪我をしているかもしれない。もう来るつもりがないのかもしれない。何かに見つかったのかもしれない。

死んでいるかもしれない。


奈々香は山を見る。


一歩、進む。

もう一歩。


そこで止まった。


シンはここを教えていない。


奈々香は、後ろを見る。街へ続く道。

しばらく、その場にいた。

それから、戻った。


次の日。


奈々香は公園のベンチに座った。

今日は、散歩ではなかった。

山側を見ていた。人が来る。


違う。

また来る。

違う。

何人か通り過ぎる。

違う。


昼を過ぎた。奈々香は待った。

夕方になる前、山側の道に、小さな人影が見えた。

奈々香は立ち上がらなかった。


シンだった。


少し疲れた顔。奈々香を見つける。足が止まる。

それから、歩いてくる。


「奈々香さん」

「うん」

「……いた」

「いたよ」


シンが笑う。奈々香は、その顔を見る。


「三日、来なかったね」

「数えてたんですか」

「うん」

「待ってた?」


奈々香は少し考えた。


今度は。


「待ってたよ」


シンが黙った。


「何?」

「いや」

「何?」

「奈々香さんが、普通に認めると思わなかったから」

「待ってたから」

「……そうですか」


シンは奈々香の隣に座った。少し間を空けて。


「何してたの?」

「山にいました」

「ずっと?」

「はい」

「どうして?」

「別に」

「別に?」

「来る理由もないので」


奈々香はシンを見る。


「今日は?」

「何がですか」

「来る理由」


シンが黙った。奈々香は待つ。


「……散歩です」

「たぶん?」

「たぶん」


奈々香は笑った。シンも笑う。


「奈々香さん」

「うん」

「俺が来なかったら、どうしてました?」

「待ってた」

「ずっと?」

「分からない」

「探しに来たり?」


奈々香は山を見る。


「途中まで行ったよ」


シンが奈々香を見る。


「山に?」

「うん」

「どこまで?」

「入口」

「なんで戻ったんですか」

「シンが教えてないから」


シンは黙る。


「場所」


奈々香は続ける。


「教えてないでしょう?」

「……はい」

「だから、行かなかった」

「匂いで分かるんじゃないんですか」

「分かるよ」

「じゃあ」

「でも、教えてないから」


シンは奈々香を見る。長く。


「奈々香さんって」

「うん」

「変ですよね」

「よく言われる」

「勝手に来そうなのに」

「来てほしかった?」

「そういう意味じゃないです」

「嫌だった?」

「……嫌じゃないです」


奈々香は笑った。


「じゃあ、今度行っていい?」

「それは」


シンが困る。奈々香は待つ。


「……まだ」

「そっか」

「すみません」

「どうして謝るの?」

「なんとなく」

「謝らなくていいよ」

「はい」

「教えたくなったら教えて」


シンが少し驚いた顔をした。


「それだけ?」

「うん」

「分かりました」


奈々香はシンを見る。

また、一つ、道が残った。

でも、少し違う。

最初から、その道はシンのものだった。

奈々香が塞いでいないだけ。


「シン」

「はい」

「恋人って、便利?」


シンが固まった。


「……何ですか、急に」

「気になった」

「何で俺に聞くんですか」

「人だから」

「雑すぎません?」

「知ってるでしょう?」


シンは少し黙る。


「まあ……一応」

「何するの?」

「何って」

「好きって言う?」

「言うんじゃないですか」

「触る?」

「まあ」

「一緒にいる?」

「いますね」

「逃げない?」


シンが奈々香を見る。


「逃げるって何ですか」

「嫌になったら」

「ああ」


シンは少し考える。


「別れるんじゃないですか」

「別れたら?」

「離れます」

「追わない?」

「普通は」

「そっか」


奈々香は考える。

好きと言う。触る。一緒にいる。

それでも、嫌なら離れられる。


「糸はいらないんだ」

「糸?」

「何でもない」


シンが首を傾げた。

奈々香は、その手を見る。前に触れた手。

今日は、触らない。


「奈々香さん」

「うん」

「恋人、欲しいんですか」

「分からない」

「なんで聞いたんだよ」


シンが笑う。


「シンは?」


笑みが少し消えた。


「……今は、別に」

「前はいた?」


シンが黙る。奈々香は待った。


「いました」

「好きだった?」

「たぶん」

「また、たぶん」

「そうですね」


シンは自分の手を見る。


「好きだったと思います」

「今も?」

「分かりません」

「そっか」

「聞かないんですね」

「何を?」

「何があったとか」

「言いたい?」

「……今は、いいです」

「じゃあ、聞かない」


シンは少しだけ目を伏せた。

その顔を奈々香は見る。

また、どこかで見た気がした。

でも、思い出せない。

思い出せなくてもいい。

今、目の前にいる。


「奈々香さん」

「うん」

「俺が、もう来ないって言ったらどうします?」


奈々香はシンを見る。


「来ないの?」

「例えばです」

「そっか」


少し考える。


「嫌だと思う」

「それだけ?」

「うん」

「止めない?」

「止めてほしい?」

「そういう聞き方ずるいですよ」

「どうして?」

「俺に決めさせるから」


奈々香は瞬きをする。


「シンが決めることでしょう?」

「そうですけど」

「私が決めるの?」

「違いますけど」


シンは困った顔をした。


「……奈々香さんと話してると、たまに分からなくなる」

「何が?」

「自分が何したいのか」

「分からなくてもいいよ」

「いいんですか」

「うん」

「奈々香さんは?」

「何が?」

「俺に来てほしいんですか」


奈々香は答えた。


「うん」


シンが黙る。


「来てほしいよ」

「……そうですか」

「でも、来たくないなら来なくていい」


シンが少し笑った。


「ほら」

「何?」

「それです」

「どれ?」

「逃げ道出すやつ」


奈々香は少し考える。


「嫌?」


シンは笑った。


「分かりません」

「そっか」

「でも」


シンは山側を見る。


「多分、また来ます」


奈々香は、その横顔を見る。


「うん」

「約束じゃないですよ」

「分かってる」

「来なかったら」

「待つよ」

「いつまで?」

「分からない」

「適当ですね」

「うん」


シンが笑う。奈々香も笑った。


夕方。シンが立ち上がる。


「帰ります」

「うん」

「今日は、手触らないんですか」


奈々香はシンを見る。

シンも、自分で言ってから気づいたようだった。


「いや」

「触ってほしい?」

「そういう意味じゃなくて」

「触る?」

「……どっちでもいいです」


奈々香は手を出さなかった。


「じゃあ、今日はいい」

「そうですか」


少しだけ、残念そうに見えた。

奈々香は、それも見た。


「またね」

「はい」


シンが山へ向かう。何歩か歩く。


「シン」


振り返る。


「何ですか?」

「逃げてもいいよ」


シンが眉を寄せた。


「何からですか」

「何でも」

「また変なこと言ってる」

「うん」

「……奈々香さんからも?」

「うん」


シンはしばらく奈々香を見る。


「分かりました」

「うん」

「でも」


少し笑った。


「今日は帰るだけです」


奈々香も笑った。


「そっか」


シンは山へ帰っていった。

奈々香は追わない。

姿が見えなくなるまで、そこにいた。


逃げてもいい。来なくてもいい。場所を教えなくてもいい。触らせなくてもいい。

嫌なら、嫌と言えばいい。


それでも。


シンは来る。


奈々香が山へ行かなくても。糸をつけなくても。足を取らなくても。捕まえなくても。

自分で道を歩いて。

自分で奈々香を探して。

自分で近くへ来る。

男が言っていた。


見えない糸。


奈々香には、まだよく分からなかった。

見えないものを信じるより、見える糸で縛った方が簡単だと思う。


でも、白い糸なら、切れる。

足を取れば、這ってでも逃げようとするかもしれない。

鍵をかければ、開けようとする。

逃げ道をなくせば、人は、逃げ道を探す。


なら。なくさなければいい。


道は、そのままにしておけばいい。帰りたいなら、帰ればいい。来たくないなら、来なくていい。嫌なら、離れればいい。


それでも戻ってきたなら。


奈々香は自分の指先を見る。前に触れた場所。

もう温度は残っていない。

でも、覚えている。


シンの手。シンの声。シンの匂い。

困った顔。笑う前に伏せる目。


「大丈夫です」

「たぶん」

「また」


少しずつ増えている。

食べれば、それ以上は増えない。


だから、まだ。


奈々香は山道に背を向けた。駅前へ戻る。


空が少し暗くなっていた。店に明かりがついている。駅から人が出てくる。

誰かと話すもの。一人で歩くもの。手を繋いでいるもの。


奈々香は、その中の二人を見た。

男と女。指を絡めて歩いている。

白い糸はない。足もある。鍵もない。

それでも、二人は離れない。


男が少し先へ行く。女が追いつく。今度は女が先へ行く。男が追いつく。


奈々香はしばらく見ていた。


変なの。どちらも逃げられるのに同じ方向へ歩いている。


男が何か言った。女が笑う。二人は駅の向こうへ消えた。


奈々香は自分の手を見る。前にシンへ触れた指。

温度は、もうない。

それでも、どんな温度だったかは覚えている。

あたたかかった。

少し動いた。でも、引かなかった。


次に会ったら、また触ってみたい。

今度は、もう少し長く。

嫌だと言われたら、やめればいい。離されたら、離せばいい。

それでも、また差し出されたらその時は、また触ればいい。


奈々香は歩き出した。駅前を抜ける。公園の前を通る。

昼に男がいたベンチ。もう誰もいない。白い糸もない。

奈々香は、そのまま通り過ぎようとした。


足が止まる。


ベンチの方へ振り返る。

その向こう。

山側の道。


明日も来るかもしれない。来ないかもしれない。約束はしていない。

それでも明日も、ここへ来ようと思った。


散歩ではない。

奈々香は、もう知っていた。待つのだ。

シンが自分で山を下りてくるのを。

自分を見つけるのを。

少し安心した顔をするのを。

「奈々香さん」と呼ぶのを。


そして。


帰れるのに。

帰らないのを。


奈々香は少し笑った。


追わなくていい。捕まえなくていい。糸もいらない。足も取らなくていい。

扉だって、閉めなくていい。

それでも人は、自分から近づくことがある。


怖いのに。


逃げられるのに。


何度でも。


奈々香には、まだ、それが何なのか分からなかった。


好きだからなのか。寂しいからなのか。一人でいるより、誰かのそばにいる方が安心するからなのか。


たぶん全部少しずつ違う。

だからもう少し見てみたいと思った。

食べるのはそのあとでもいい。

シンがどこまで近づいてくるのか。

どこまで知っても、戻ってくるのか。

どこまで怖がっても、奈々香の名前を呼ぶのか。

まだ、知らない。

知らないから、食べずにいられる。


奈々香は山側の道から目を離した。歩き出す。


数歩。


また振り返る。誰もいない。


「またね」


小さく言った。


返事はない。当たり前だった。シンは、もう山へ帰った。それでも、奈々香は少しだけそこにいた。


初めて会った日。駅前で、人の匂いがした。

美味しそうだと思った。近づいた。名前を聞いた。


食べるつもりだった。


いつかは。たぶん今も。

それは変わっていない。


ただ。


あの時とは、一つだけ違った。


奈々香は山側の道を見る。


人の匂いを探しているのではない。


もう誰でもよくなかった。


明日あの道から来る匂いを、待っている。



シンの匂いを。

ここまでご覧頂きありがとうございます。

新たに第2章も書く予定ですので末永くお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。