第八話 まだ残っている…
朝、シンは喉の違和感で目を覚ました。
何かが貼りついている。
痛いわけではない。
息が苦しいわけでもない。
ただ、飲み込みきれなかったものが、奥に残っている気がした。
シンは布団の中で、しばらく天井を見ていた。
古い木目。
梁に積もった薄い埃。
窓の外の白い朝。
いつもの小屋だった。
なのに、甘い匂いがした。
机の上に、奈々香の布が置いてある。
薄い灰色の布。
昨日、首に巻かれたもの。
洗って返す。
そう言った。
なのに、まだ洗っていない。
シンは身体を起こした。
喉が遅れて動く。
「……気持ち悪い」
声に出すと、少しだけ現実味が戻った。
あたたかいものを食べたのは、昨日ではない。
少し前のことだ。
透明な膜。
小さな黒い点。
甘さ。
酸味。
舌の横を撫でた、細いもの。
思い出した瞬間、口の中に唾液が溜まった。
吐くほどではない。
けれど、身体が吐く準備だけを先に始めたようだった。
シンは水桶の水をすくい、口に含んだ。
冷たい。
飲み込む。
その瞬間、あの日の感触が戻った。
何かが通った。
そう分かった時の、あの感じ。
もう一口飲む。
水は喉を流れた。
それでも、貼りついた感じは消えなかった。
午前中、シンは薪を割った。
斧を振り上げる。
落とす。
丸太が割れる。
乾いた音が山に返る。
いつもなら、その音で頭の中が少し整う。
今日は違った。
何度も唾を飲み込んだ。
そのたびに、身体が小さく拒んだ。
「……昨日、歩きすぎたか」
言い訳のように呟く。
返事はない。
山はいつも通りだった。
鳥が鳴く。
沢が流れる。
枝が揺れる。
中身のある静けさ。
その中に、昨日からの匂いが混じっている気がした。
シンは小屋を振り返った。
扉は閉まっている。
それでも、机の上の布を思い出す。
洗えばいい。
それだけのことだった。
けれど、シンは小屋へ戻らなかった。
昼に米を炊いた。
茶碗によそい、缶詰を開ける。
魚の油が白い米に染みた。
箸で身を崩す。
その瞬間、別の感触を思い出した。
薄い膜が裂ける感触。
箸の先が沈む柔らかさ。
黒い点が断面に浮かんだ時の、あの見た目。
シンは箸を止めた。
腹は減っている。
それなのに、口に入れる直前で身体が止まった。
米を見る。
魚を見る。
湯気を見る。
どれも、見慣れたものだった。
シンは一口食べた。
噛む。
飲み込む。
何もおかしくない。
そう確認してから、もう一口食べた。
二口目で、喉が止まった。
口の中に、細いものが触れた気がした。
魚の骨ではない。
米でもない。
あるはずのないものだった。
シンは茶碗を置いた。
水を飲む。
だけど違和感は残った。
「考えすぎだ」
声に出す。
今度は、あまり効かなかった。
午後になって、眠気が来た。
夜、よく眠れなかったからだ。
そういうことにして、シンは布団に横になった。
起きたら布を洗う。
それから、明日か明後日に街へ返しに行く。
明日でなくてもいい。
いつかでいい。
奈々香はそう言っていた。
待ってるから。
その声を思い出した時、胸の奥が少し緩んだ。
同時に、喉がきゅっと狭くなった。
夢を見た。
白い小皿があった。
暗い場所に、小皿だけが浮いている。
透明なものが乗っていた。
甘い。
酸っぱい。
湿った土の匂い。
箸の先が、勝手に沈む。
ぷつ。
小さな音がした。
黒い点が潰れる。
皿の上で。
口の中で。
どちらなのか分からなかった。
薄い膜が裂ける。
中から、細いものが出てくる。
一本ではない。
束になっている。
それが舌の横を撫でた。
シンは吐き出そうとした。
吐き出せなかった。
「少しだけでいいよ」
奈々香の声がした。
姿は見えない。
声だけが近い。
「知ったでしょう」
何かが、喉を通った。
シンは目を覚ました。
息が荒い。
天井が見える。
小屋の天井だった。
シンは口を押さえた。
吐き気が来た。
今度は、はっきりしていた。
布団から転がるように出て、外へ出る。
小屋の裏に回る。
土の上に膝をつく。
吐いた。
水と、昼に食べた米が出た。
苦い。
酸っぱい。
喉が焼ける。
もう一度、胃が縮んだ。
けれど、出るものはほとんどなかった。
しばらくして、吐き気は少し落ち着いた。
シンは土に手をついたまま、荒く息を吸った。
土の匂い。
葉の匂い。
湿った幹の匂い。
山の匂いがする。
いつもの匂いだった。
それなのに、安心できなかった。
吐いたものが、土の上に広がっていた。
白い米粒。
魚のほぐれた身。
水を吸った土。
その中に、黒い斑点のある米粒が一つあった。
シンは息を止めた。
斑点米なのだろう。
そうでなければ困る。
けれど、目は離せなかった。
黒い点は、米粒の白さの中で、妙にはっきり残っていた。
シンは水で口をすすいだ。
何度もすすいだ。
酸味は薄くなった。
けれど、なくならなかった。
喉の奥に。
口の奥に。
腹の底に。
どこにあるのか分からないまま、まだ残っている。
小屋へ戻る。
机の上に、灰色の布が置かれていた。
何も変わっていない。
ただの布だった。
シンはそれを見た。
近づかない方がいい。
洗ってしまえばいい。
どちらも正しかった。
けれど、手は動かなかった。
明日、返さなければ。
そう思った瞬間、シンは自分で少し怖くなった。
返さなければ、ではない。
返しに行く理由ができた。
そう思っている。
外は少しずつ暗くなっていく。
喉には吐いた後の痛みが残っている。
机の上には、奈々香の布がある。
洗えば、匂いは落ちる。
そのはずだった。
シンは布に手を伸ばした。
指先が触れる。
柔らかい。
ただの布だ。
そう思った。
そう思ったのに、指を離せなかった。
洗えば、返せる。
けれど、洗えば、奈々香の匂いは落ちる。
落ちたら、何を返しに行くのか分からなくなる気がした。
シンは手を引いた。
洗うのは、明日にしよう。
そう決めた。
その夜、シンは布を机の上に置いたまま眠った。
窓は閉めた。
外の風は入ってこない。
山の匂いも、薄くなる。
暗い小屋の中で、甘い匂いだけが、いつまでも残っていた。
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本日17時より9話投稿致します。




