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恋と生存 〜誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた〜  作者: α


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第七話 同じ匂い


 朝になっても、右手のことを覚えていた。

 何も変わっていない。


 指は五本ある。 傷は塞がりかけている。

 爪の間には、昨日落としきれなかった土が少し残っている。


 それなのに、シンはしばらく右手を見ていた。

 昨日、奈々香と繋いだ手。

 指の間に残った温度は、もう消えている。



 消えているはずだった。



 腹の奥に残っていた熱も、昨日より薄い。

 痛くはない。 気持ち悪くもない。

ただ、身体の中に小さな印だけが残っているようだった。


 薪を割る。

 水を汲む。

 米を炊く。


 やることは同じだった。

 けれど、手を使うたびに昨日のことが戻ってきた。


 斧の柄。

 水桶の取っ手。

 茶碗の縁。


 そのたびに、奈々香の指を思い出す。


「……馬鹿らしい」


 声に出しても、あまり効かなかった。


 昼前、シンは昨日の服を洗おうとして、手を止めた。


 襟元に土がついている。

 袖口も少し汚れている。


 洗うべきだった。

 けれど、服を持ち上げると、少しだけ甘い匂いがした。


 柔軟剤のような。

 花のような。

 熟れすぎた果物のような。


 奈々香の匂いだった。


 シンはすぐに服を下ろした。


 洗えば消える。

 そう分かっているのに、洗濯桶へ入れるまでに少し時間がかかった。


 結局、シンはその服を洗わなかった。

 今日はまだ、そこまで汚れていない。

 そういうことにした。


 午後になって、メモ帳を開いた。


 塩。

 味噌。

 乾麺。

 絆創膏。

 駅前。


 買うものは、もうない。

 消すべきだった。


 シンは鉛筆を持った。


 駅前。その二文字に線を引こうとして、手が止まる。

 用はない。

 それでも、街へ行ってはいけない理由も見つからなかった。


 シンはメモ帳を閉じた。


 財布をリュックに入れる。

 水筒も入れる。


 買うものがないので、袋は入れなかった。

 そのことが、少し恥ずかしかった。


 山道を下りる。


 鳥が鳴く。

 沢が流れる。

 足元で落ち葉が潰れる。


 いつもの山だった。

 けれど、山の匂いの中に、昨日の服の匂いが混じっている気がした。


 シンは襟元を少し引いた。


 街に着いたのは、午後四時前だった。


 信号は動いている。

 店は開いている。

 人は歩いている。


 形だけなら、何も変わらない。


 シンは駅前の広場へ向かった。

 今日は買い物の袋を持っていない。

 それだけで、言い訳がひとつ減った気がした。


 噴水は止まっていた。

 ベンチには誰も座っていない。


 時計は、午後三時五十二分を指している。

 奈々香はまだいなかった。


 シンは広場の端に立った。人が通る。

 誰もシンの顔を見ない。


 喉。

 手首。

 指先。


 視線が一瞬ずつ触れては、離れる。

 昨日までと同じだった。

 同じなのに、少しだけ違った。


 今日は、その視線よりも、奈々香が来ないことの方が気になった。


 そう気づいて、シンは嫌になった。

 帰ろう。


 そう思った時、後ろから声がした。


「今日は、何も持ってないね」


 シンは振り返った。

 奈々香がいた。


 白いワンピース。

 黒い髪。

 昨日と同じ、静かな目。


 右手に、小さな紙袋を持っていた。


「……買うものがなかったので」


「それでも来たんだ」

 奈々香は少し笑った。


「買い物じゃないね」


 シンは言い返せなかった。


「……散歩です」


「散歩」

 奈々香は嬉しそうに繰り返した。

「じゃあ、一緒に歩いてもいい?」


「いいですけど」


「いいんだ」


「嫌ではないので」


 奈々香は何も言わなかった。

 ただ、口元だけで小さく笑った。


 二人は広場を離れて歩き出した。

 昨日と同じように、近すぎず、遠すぎない距離だった。

 けれど今日は、奈々香がシンの右側を歩いた。


 手は触れない。

 触れないのに、昨日の手を思い出す距離だった。


「昨日、手は冷えなかった?」

 奈々香が聞いた。


「手ですか」


「うん。冷やさないでねって言ったでしょう」


「覚えてたんですか」


「覚えてるよ」


 奈々香は当然のように言った。


「シンの手だから」


 シンは返事に困った。言い方が近い。

 近いのに、奈々香は平気な顔をしている。


「冷えませんでした」


「よかった」


 奈々香は紙袋を少し持ち上げた。


「今日は、これを持ってきたの」


「何ですか」


「布」


「布?」


「うん。少し香りがついてる」


 奈々香が袋から、小さな布を取り出した。

 薄い灰色の布だった。ハンカチより少し大きい。


「首、寒そうだったから」


 シンは無意識に首筋へ手をやった。

リュックの肩紐で擦れた場所。

街の人々がよく見ていた場所。


「大丈夫です」

 言ってから、また出たと思った。


 奈々香は小さく笑った。


「今のは、少し予想してた」


「じゃあ聞かないでください」


「聞きたかったから」


 奈々香は布を持ったまま、首を傾けた。


「嫌なら、やめる」


 その言葉は、何度も聞いた。

 優しい。けれど、ずるい。

 断るかどうかが、いつもシンの側に残される。


「……少しだけなら」


「うん」


 奈々香は嬉しそうに近づいた。

 近い。

 昨日、手を繋いだ時より近い。


 奈々香の指が、布を広げる。

 灰色の布が、シンの首元に触れた。

 冷たくはなかった。

 むしろ、ほんの少しあたたかい。


 布越しに、奈々香の指が襟元を整える。


 喉の近く。首筋。


 人々の視線が触れていた場所。

 そこに、奈々香の指が触れた。


 軽く。確かめるように。


 シンは息を止めた。


「苦しい?」


「少し」


「じゃあ、ゆるくする」


 奈々香は布を緩めた。


「これなら?」


「……大丈夫です」


「本当に?」


「本当に」


 奈々香は手を止めた。

 それから、少しだけ笑った。


「今のは、たぶん本当」


「分かるんですか」


「少しだけ」


 奈々香は布の端を整えた。

 その指が、シンの喉の横をかすめる。


 シンは目を伏せた。

 嫌ではなかった。

 嫌ではないことが、落ち着かなかった。


「似合ってる」

 奈々香が言った。


「そうですか」


「うん」


 奈々香は一歩下がって、シンを見た。



「少し、街の人みたい」


 その言葉に、シンは反応が遅れた。


「街の人みたい、ですか」


「嫌だった?」


「分かりません」


「そっか」


 奈々香は布の端を見た。


「でも、前より少し馴染んでる」


「馴染む必要ありますか」


「あるかもしれない」




「どうして」


 奈々香はすぐには答えなかった。


 駅前の人々が、二人の横を通り過ぎていく。

 誰も奈々香を見ない。

 けれど、シンの首元を見る視線は、昨日より少しだけ短かった。



 気のせいかもしれない。


「山の匂いは、目立つから」

 奈々香が言った。


「ここでは?」


「うん」


 奈々香はシンを見た。


「シンは、まだ山の匂いが強い」


「それ、悪いことですか」


「悪くはないよ」


「じゃあ」


「でも、見つかりやすい」


 シンは言葉を止めた。


 誰に。


 何に。



 そう聞こうとして、やめた。

 奈々香はいつものように、静かに笑っていた。


「人目につきやすいってことですか」


 シンは自分から、そう言い換えた。



 奈々香は少しだけ間を置いて、頷いた。


「うん。そういうこと」


 その間が、少しだけ引っかかった。

 けれど、深く聞かなかった。

 聞けば、今日の空気が変わる気がした。


「でも今は、少し違う」


「何がですか」


「匂い」


 シンは布に触れた。柔らかい。

 そこから、奈々香と同じ匂いがした。


「奈々香さんの匂いですか」


 言ってから、しまったと思った。

 奈々香は少し目を開いた。

 それから、嬉しそうに笑った。


「分かったんだ」


「昨日から少し」


「覚えてた?」


「……忘れてません」


 奈々香は笑った。


「そっか」


 それから、少しだけ声を落とした。


「今は、少し同じ匂いだね」


 シンは布を外そうとは思わなかった。

 同じ匂い。それは恋人のような言葉に聞こえた。

 同時に、そう思ってしまう自分が恥ずかしかった。


「嫌?」


 奈々香が聞いた。


 シンはすぐには答えなかった。



「……落ち着かないです」


 奈々香は頷いた。


「うん」


「嫌ではないです」


「うん」


 奈々香は嬉しそうだった。


「それなら、少しそのままでいて」


「少しだけなら」


「うん。少しだけ」


 二人は駅前を歩いた。

 首元の布が、歩くたびに肌へ触れる。

 そのたびに、奈々香の匂いが近づいた。


シンは何度も布を触りそうになって、そのたびに

やめた。

 触ると、意識していることが奈々香に分かる

気がした。


「シンは」


 奈々香が言った。


「山の匂いが好き?」


「嫌いではないです」


「私は好き」


「山の匂いが?」


「うん」


 奈々香は少しだけ目を細めた。


「土と、薪と、湿った木の匂い」


「前にも言ってましたね」


「覚えてる」


「何でも覚えてますね」


「何でもじゃないよ」



「じゃあ、何を覚えるんですか」


 奈々香は少し考えた。


「気になったもの」


「俺は、気になるものなんですか」


 言ってから、シンは後悔した。

 答えを欲しがっているみたいだった。

 奈々香は、すぐには答えなかった。


 歩きながら、シンの首元を見る。

 それから、顔を見る。


「うん」


 短い返事だった。

 シンは視線を逸らした。


「理由は」


「まだ、分からない」


 奈々香はそう言った。


「でも、気になる」


 その言い方が、昨日と似ていた。分からない。


 だから話してみたかった。シンは何も言えなかった。

 分からないのに近づいてくる。

それは怖いことのはずだった。

 けれど、奈々香が言うと、なぜか許してしまいそうになる。


 広場の端に戻る頃には、空が少し暗くなり始めていた。


 シンは首元の布に触れた。


「これ、返します」


「もう?」


「暗くなるので」


「山に戻るから?」


「はい」


 奈々香は少しだけ残念そうに見えた。

 けれど、すぐに笑った。


「じゃあ、今日はそこまで」


 シンは布を外そうとした。

 奈々香が手を伸ばす。


「待って」


 その声に、シンは動きを止めた。

 奈々香の指が、布の結び目に触れる。

 ゆっくりほどいていく。

 指先が、首筋に触れた。


 一瞬だけ。


 シンは息を止めた。


 布が外れる。首元が軽くなった。

 同時に、少し寒くなった。


「寒い?」


 奈々香が聞いた。


「少し」


「じゃあ、覚えておく」


「何をですか」


「シンは、外すと少し寒そうになる」


 シンは返事に困った。

 そんなことまで覚えなくていい。

 そう言おうとして、やめた。


 奈々香は布をたたんだ。

 けれど、紙袋には戻さなかった。

 そのままシンに差し出す。


「持っていっていいよ」


「いや、返します」


「明日、返して」


「明日?」


「うん」


 奈々香は当然のように言った。


「明日も、来るなら」


 シンは言葉を失った。明日も来る。

 そんなことは決めていない。

 決めていないのに、布を受け取れば、その理由になる。


 断ればいい。

 簡単なことだった。


「……洗って返します」


 そう言ってから、自分で失敗したと思った。

 奈々香は嬉しそうに笑った。


「うん」


「来るとは言ってません」


「でも、返すんでしょう」


「いつか」


「いつかでもいいよ」


 奈々香はそう言った。


「待ってるから」


 シンは布を受け取った。

 軽い。それなのに、やけに手の中で重かった。


「気をつけて」


 奈々香は言った。


「はい」


「今日は、首も」


「首ですか」


「うん」


 奈々香はシンの首元を見た。


「冷やさないでね」


 昨日は手だった。今日は首。

 シンはその違いを意識して、少しだけ落ち着かなくなった。


「……分かりました」


 奈々香は満足そうに頷いた。


 シンは山道へ向かった。

 数歩進んで、振り返る。

 奈々香はまだそこにいた。


 紙袋を持ったまま、白いワンピースで立っている。

 通行人は、誰も彼女を見ない。

 けれど今日は、街の奥から向けられる視線が、少しだけ減っているような気がした。


 気のせいかもしれない。


 シンは布をリュックにしまわず、手に持ったまま歩いた。

 山道に入る。

 木々の匂いが近づく。


 土。

 葉。

 湿った幹。


 いつもの匂いだった。

 けれど、手の中の布から、奈々香の匂いがした。


 山の匂いと、街の匂い。

 その二つが、歩くたびに混ざっていく。


 シンは足を止めた。

 自分の服にも、同じ匂いが残っている気がした。


 襟元。

 首筋。

 指先。


 布を巻いていた場所が、まだ少しあたたかい。

 腹の奥の熱とは違う。

 右手の温度とも違う。

 もっと近いところに、残っている。


 小屋へ戻る頃には、空は暗くなっていた。

 シンは布を机の上に置いた。

 洗うべきだった。借りたもだし洗って返す。

 そう言った。


 水桶の前まで行く。

 手を入れる。水は冷たかった。


 シンは机の上の布を見た。

 洗えば、匂いは落ちる。

 奈々香の匂いも。街の匂いも。


 同じ匂いだね。


 奈々香の声が戻った。

 シンはしばらく、水に手を入れたまま動かなかった。

 やがて水から手を抜き、布には触れなかった。


 明日洗えばいい。

 そう決めて、灯りを消した。

 布は机の上に置いたままだった。


 布団に入ってからも、甘い匂いがかすかに届いた。

 山の夜には、似合わない匂いだった。

 けれど、シンは窓を開けなかった。


 その夜、夢を見る前に、シンは思った。

 自分の匂いが、少し変わった気がする。



 それが嫌ではないことが、一番怖かった。

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