表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
恋と生存 〜誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた〜  作者: α


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/6

第六話 手の温度

次の日、シンは街へ行かなかった。


山にいた。


薪を割る。

水を汲む。

米を炊く。


それだけなら、いつも通りだった。

けれど、腹の奥に残った熱は、朝になっても消えていなかった。

痛いわけではない。

気持ち悪いほどでもない。


ただ、身体の中に小さな火種が残っているようだった。


シンは何度か腹に手を当てた。

熱は、手のひらには伝わらない。

それでも、そこにある。

昨日食べたもののせいだ。

そう考えるのが、一番分かりやすい。


昼前、保存箱の中を確認した。


米はある。

塩もある。

味噌もある。

乾麺もある。


買うものはなかった。

絆創膏だけは、昨日買い損ねていた。

けれど、今すぐ必要なものではない。

今日は行かなくていい。そう決めた。


午後になって、風が止んだ。

山の音が、急に遠くなる。

鳥の声も、沢の音も、木の葉の擦れる音も、全部少し遠い。


静かだった。


静かすぎた。


シンは小屋の中を歩いた。


棚を開ける。

閉める。

水筒を洗う。

もう一度、棚を見る。


絆創膏。

買いに行っても、おかしくはない。

しばらく棚の前に立ってから、シンはリュックを取った。


財布を入れる。

水筒を入れる。

メモ帳を入れる。


街へ行く。

絆創膏を買いに行くだけだ。

そう思った。思うことにした。


街に着いたのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。


信号は動いている。

店は開いている。

人は歩いている。


形だけなら、いつもと同じだった。

シンはドラッグストアへ向かった。


絆創膏を一箱取る。

それから、包帯も取った。

必要かどうかは分からない。

けれど、あれば困らない。


会計を済ませて店を出る。

もう帰れる。今日の用事は終わった。


シンは袋を持ったまま、駅前の方を見た。

白い服は見えなかった。

見えないなら、帰ればいい。

そう思ったのに、足は駅前へ向いていた。

広場に出る。噴水は止まっている。

ベンチには誰も座っていない。

時計は午後四時三十八分を指していた。


奈々香はいなかった。

シンは広場の端に立った。

昨日のことを思い出す。


白い小皿。

湯気。

黒い点。

舌の横を撫でた、細いもの。


腹の奥が、じんわりと熱くなる。

シンは軽く息を吐いた。


帰ろう。


そう思った時、横から声がした。


「今日は、遅かったね」


シンは振り向いた。

奈々香がいた。


白いワンピース。

黒い髪。

昨日と同じ顔。


けれど、今日は少し距離が近かった。


「……買い物に時間がかかりました」


「絆創膏?」

奈々香は袋を見た。


「はい」


「ちゃんと買えたんだ」


「買えました」


「えらい」


「それ、何回言うんですか」


「何回でも」

奈々香は少し笑った。


「シンがちゃんと自分を直すたびに言う」


シンは返事に困った。


馬鹿にされているわけではない。

子ども扱いされているわけでもない。

だから余計に、返しにくかった。


「昨日」

奈々香が言った。


「お腹、大丈夫だった?」


シンは一瞬だけ言葉を失った。


「大丈夫です」


口が先に動いた。

奈々香は少しだけ目を細めた。


「出た」


「癖です」


「知ってる」


奈々香は責めなかった。

ただ、シンの腹のあたりを一度見て、それから顔を見た。


「でも、今日は少しだけ違うね」


「何がですか」


「匂い」


シンは黙った。

奈々香は一歩近づいた。

近い。昨日より、近い。


「昨日の匂いが、少し残ってる」


「昨日の?」


「あたたかいもの」

奈々香は、嬉しそうに言った。


「嫌だった?」


シンは答えられなかった。

嫌だった。

たぶん。けれど、全部が嫌だったわけではない。


奈々香が嬉しそうだったこと。

食べてくれてありがとうと言ったこと。

帰り道、機嫌よさそうに笑っていたこと。


そういうものまで一緒に思い出すから、嫌だったと言い切れない。


「……分かりません」


奈々香は小さく笑った。


「また、分からない」


「便利なので」


「便利?」


「嘘ではないので」


奈々香は少し考えた。

それから、嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、それでいいね。嘘じゃないなら」


二人は広場の端を歩き出した。

昨日と同じように、近すぎず、遠すぎない距離だった。


けれど今日は、奈々香が少しだけ近い。


肩が触れそうになる。触れない。

また近づく。それでも触れない。


シンは歩幅を調整しようとした。


少し離れる。


奈々香も少し離れた。


少し近づく。

奈々香も近づいた。


「合わせてます?」


「うん」


「またですか…」


「今日は、手の距離」


シンは足を止めかけた。

奈々香は前を向いたまま歩いている。


「手の距離って、何ですか」


「すぐ届く距離」


奈々香はそう言って、自分の右手を少しだけ持ち上げた。


昨日、山道の入口で動いた指。

シンはそれを思い出した。


「嫌なら、離れるよ」

奈々香は言った。

声は柔らかかった。


「無理に近くにいたいわけじゃない。でも、昨日より少し近くても平気か、知りたかった」


シンは返事に困った。


嫌なら離れる。


そう言われると、嫌だとは言いにくい。

でも、嫌ではなかった。


それが一番困る。


「……平気です」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんでもいいよ」

奈々香は笑った。


「シンのたぶんは、嫌じゃない時のたぶんだから」


「決めつけないでください」


「決めつけてないよ」


「今、決めつけました」


「じゃあ、覚えておく」

奈々香は少しだけ楽しそうだった。


横断歩道の前で、二人は止まった。

信号は赤だった。人々が横に並ぶ。

顔は前を向いている。目だけが、少しずつ動く。


喉。

手首。

指先。


いつもの視線だった。

シンは無意識に手を引いた。

袋を持っていない右手。

空いている手。


その手に、奈々香の指が触れた。


軽く。確かめるように。


シンは息を止めた。


奈々香はシンを見ていた。


「嫌?」


短い声だった。

いつもより、少しだけ小さい。


シンは手を引けた。

引こうと思えば、引けた。

奈々香の指は強くなかった。

逃げられるように触れている。

だから、逃げなかった。


「……嫌では、ないです」


奈々香は、少しだけ目を開いた。


それから、ゆっくり笑った。


「そっか」


指が、もう少し深く絡んだ。


手を繋がれた。


奈々香の手は冷たくなかった。

思っていたより、あたたかかった。

指の間から、ゆっくり熱が移ってくる。


シンは手を見なかった。

見たら、何かが変わる気がした。


信号が青になる。

人々が歩き出す。

奈々香も歩き出した。

手は離れなかった。

シンは半歩遅れて歩いた。


「歩きにくい?」

奈々香が聞いた。


「少し」


「離す?」


シンはすぐには答えなかった。


指の間に、奈々香の体温がある。


昨日、口の中に残った熱。

腹の奥に残った熱。


それとは違う。


違うはずだった。


「……このままで」


言ってから、失敗したと思った。


奈々香は前を向いたまま、少しだけ指に力を込めた。


「うん」


その一音が妙に嬉しそうで、シンは視線を逸らした。


駅前の通りを歩く。昨日の路地とは反対側だった。

奈々香は急がない。

ただ、手を繋いだまま、ゆっくり歩く。


「シンの手、少し硬いね」


「薪を割ってるので」


「うん。ちゃんと使ってる手」


奈々香はシンの手を軽く握り直した。


「傷もあるし、土の匂いもする」


「汚いですか」


「汚くないよ」

奈々香はすぐに言った。


「シンの手って感じがする」


シンは黙った。

そう言われると、手を引きたくなる。

でも、引きたくない。


どちらも本当だった。


広場を一周する頃には、夕方の光が少し弱くなっていた。

店の看板に明かりが入る。

ガラスに二人の姿が映った。


男と女が手を繋いで歩いている。


ガラスに映る姿はただの二人に見えた。

シンはその反射を見て、少しだけ息を詰めた。


恋人みたいだ。。


そう思った。

思ってすぐに、打ち消した。

そんなはずはない。まだ数回会っただけだ。

奈々香のことも、街のことも、何も分かっていない。

それなのに、手だけが繋がっている。


「どうしたの?」

奈々香が聞いた。


「いえ」


「今、何か考えた」


「考えてません」


「…嘘」


奈々香は短く言った。

責める声ではなかった。

少し楽しそうだった。


「シンは、考えてない時の顔じゃなかった」


「顔で分かるんですか」


「少しだけ」


「じゃあ、何を考えていたと思いますか」


奈々香は少し考えた。

繋いだ手の親指が、シンの指の付け根を一度だけ撫でた。


「この手を、いつ離せばいいか」


シンは何も言えなかった。

外れていなかった。

奈々香は、答えを待たなかった。


「私は、もう少し繋いでいたい。でも、シンが離したくなったら、離していいよ」


その言い方がずるかった。

離せる。いつでも離せる。


だから、離さない理由が自分の中に生まれる。


「……もう少しなら」


「うん。もう少し」


二人は駅前を離れ、街の端へ向う。

途中、奈々香はほとんど話さない。

ただ、手だけが繋がっていた。

それだけで、会話が続いているようだった。


山道の入口に着いた。

いつもの場所だ。

舗装が途切れ、木々の影が濃くなる。

奈々香はそこで立ち止まった。

手はまだ繋がっている。


「今日は、ここまで」

奈々香が言った。


「はい」

シンは頷いた。


それでも、すぐには手が離れなかった。

どちらから離すのか。

それだけのことが、妙に難しかった。

奈々香が先に指を緩めた。


ゆっくり。


一本ずつ、シンの指から離れていく。


最後に、指先だけが触れた。

それも、すぐに離れた。

手が軽くなった。

そのはずなのに、少し足りない感じがした。


「気をつけて」

奈々香は言った。


「はい」


「手、冷やさないでね」


「手ですか」


「うん」


奈々香は自分の手を見た。


「今日は、少し覚えたから」


「何を」


「シンの手」

奈々香は小さく笑った。


「次に繋いだら、たぶん分かる」


シンは返事に困った。

奈々香は、それ以上言わなかった。

ただ、いつものように笑っていた。


シンは山道へ入った。

数歩進んで、振り返る。奈々香はまだそこにいた。


白いワンピースのまま、街と山の境目に立っている。

手は、身体の横に下ろされていた。

その手を、シンは見てしまった。

さっきまで自分の手を包んでいた手。


綺麗な手。

あたたかった手。


シンは前を向いた。

木々の匂いが近づく。


土。

葉。

湿った幹。


けれど、右手にはまだ奈々香の温度が残っていた。

腹の奥に残った熱とは違う。

これは、嫌なものではなかった。

だから余計に、扱い方が分からなかった。


小屋へ戻る頃には、空は暗くなっていた。

シンは荷物を置き、買ってきた絆創膏を棚に入れた。

それから、右手を見た。

何もついていない。跡もない。


けれど、指の間にまだ温度が残っている気がした。

シンは手を洗おうとして、やめた。


洗うほどのものではない。

そういうことにして、布団に入った。


その夜、右手だけがなかなか冷えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ