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恋と生存 〜誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた〜  作者: α


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第五話 あたたかいもの

次の日、シンは朝から落ち着かなかった。


薪を割る。

水を汲む。

米を炊く。


やることは同じだった。

同じなのに、頭だけが駅前にあった。

メモ帳には、買うものが書いてある。


塩。

味噌。

乾麺。

絆創膏。


どれも、今日でなくてもよかった。

それでも、買いに行く理由にはなった。

シンはリュックを背負った。

昨日より、言い訳が少し上手くなっていた。


山道を下りる。

空は薄く曇っていた。

湿った土の匂いがする。

葉の裏に残った雫が、時々、首筋に落ちた。


冷たい。。。


それで少しだけ目が覚める。

引き返すなら、今だった。

シンは足を止めなかった。


街の端に着くと、昨日と同じように信号が動いていた。


店は開いている。

人は歩いている。

誰も急いでいない。


形だけなら、何も変わらない。


シンは先にスーパーへ向かった。

かごに入れたのは、塩と味噌と乾麺だった。

絆創膏は、ドラッグストアで買えばいい。

それだけで、また駅前へ行く理由ができる。

そう考えている自分に気づいて、シンは少し嫌になった。


会いに行くわけではない。

昨日もそう思った。

今日も、同じことを思っている。


レジを済ませ、店を出る。


駅前の広場に着いたのは、午後四時より少し前だった。

噴水は今日も止まっていた。

ベンチには老人が二人座っている。

どちらも話していない。

時計の針だけが、当たり前みたいに動いていた。


奈々香は、広場の端にいた。


白いワンピース。

黒い髪。

細い首。


シンに気づくと、奈々香は小さく手を上げた。

それだけだった。

けれどシンは、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。


「来た」

奈々香は言った。


「買い物です」


「うん」


「本当?」


「うん。そういうことにしておく」

奈々香は笑っていた。


信じているのか、信じていないのか分からない。


「今日は、何を買ったの?」


「塩と味噌と乾麺です」


「山っぽいね」


「山っぽいですか」


「うん。長く生きられそう」


変な言い方だった。

けれど、声が楽しそうだったので、シンは聞き返さなかった。


「絆創膏も買う予定です」


「指?」


「念のためです」


「えらい」


「またそれですか」


「うん」

奈々香は少し得意そうに言った。


「シン、それ嫌じゃないみたいだから」


シンは視線を逸らした。


「分析しないでください」


「分析じゃないよ」


「じゃあ何ですか」


「覚えてるだけ」

奈々香は当たり前のように言った。


「シンが嫌そうにすることは、あまりしたくないし」


シンは何も返せなかった。

覚えてるだけ。

その言い方は、ずるかった。


「昨日の話」

奈々香が言った。


「覚えてる?」


「何の話ですか」


「私が好きな場所」


シンは少しだけ黙った。

覚えていた。

忘れるはずがなかった。


「あたたかいものがある場所ですか」

奈々香は嬉しそうに頷いた。


「そう。ちゃんと覚えてた」


「今日、行くんですか」

「嫌なら、やめる」

奈々香はすぐに言った。


「無理に連れていきたいわけじゃないよ。ただ、シンにも知ってほしかっただけ」


すぐにそう言われると、断りにくかった。

無理に誘われているわけではない。

行かなくても責められない。

だから、断る理由が自分の中にしか残らない。


「……少しだけなら」


「うん」

奈々香は笑った。


「少しだけ。ありがとう」


奈々香は駅前の通りを外れ、細い路地へ入った。

シンは少し遅れてついていく。

路地は狭かった。

古い店の裏側のような場所だった。


室外機が低い音を立てている。

壁には剥がれかけたポスターが貼られている。

小さな排水溝から、薄い湯気が上がっていた。


甘い匂いがした。


果物が傷んだ時の匂いに似ていた。

そこに、蒸れた葉のような青臭さが混じっている。


「こっち」

奈々香は振り返った。


「大丈夫?」


シンは答えかけて、止まった。


「……少し、不安です」


奈々香は目を丸くした。

それから、嬉しそうに笑った。


「今、大丈夫って言わなかった」


「言った方がよかったですか」


「ううん」

奈々香はゆっくり首を振った。


「そっちの方がいい」


「不安な方が?」


「本当っぽい方が」


本当っぽい。

シンは、その言葉の意味を考えながら歩いた。


路地の奥に、小さな暖簾があった。

店名は出ていない。

ただ、薄い灰色の布がかかっているだけだった。

奈々香がそれを指で持ち上げる。


「ここ」


中は、店のようだった。


カウンターがある。

椅子がある。

奥で湯気が上がっている。


ただ、店内は静かだった。

カウンターの端に、男が一人座っている。

器を両手で抱え、背中を丸めていた。

湯気の向こうで、店主らしき人影が動く。

白い前掛けをしている。

顔はよく見えない。


「二つ」

奈々香が言った。


店主は頷いた。声はない。

シンは椅子に座る。奈々香は隣に座った。


近い。

肩は触れない。

けれど、少し動けば触れる距離だった。


「ここ、よく来るんですか」


「うん」


「何の店なんですか」


奈々香は少し考えた。


「あたたかいものを食べるところ」


「そのままですね」


「そのままがいい時もあるよ」

奈々香は楽しそうに笑った。


「説明が上手じゃなくても、食べたら少し分かるから」


奥から、湯気が流れてきた。


甘い。

酸っぱい。


その下に、湿った土のような匂いがある。


シンは無意識に喉を動かした。

空腹ではない。

けれど、身体の奥がその匂いに反応した。

腹が減った時とは、違う動きだった。


白い小皿が二つ置かれた。

器の上に、透明な蒸し物のようなものが乗っている。

表面は薄く光っていた。

柔らかそうだった。


中に、小さな黒い点がいくつも沈んでいる。


点の周りだけ、少し濁っていた。

シンは箸を持たないまま、それを見た。


「これが、あたたかいものですか」


「うん」

奈々香は嬉しそうに頷いた。


「熱いうちがいいよ」


「何ですか、これ」


「甘いもの」


「甘いもの?」


「うん。果物を使ってる」


嘘ではなさそうだった。

匂いは確かに、果物に近い。

だが、食べ頃を少し過ぎている。


潰れかけて、皮の下で熱を持った果物。

それを蒸したような匂い。


「苦手だったら、食べなくていいよ」

奈々香が言った。


その声は、本当に優しかった。


「でも、私が好きなものを、少しだけでも知ってくれたら嬉しい」


シンは箸を持った。

断れる。

今なら、断れる。

奈々香は責めないだろう。

残念そうにもしないかもしれない。

それなら、なおさら断りにくかった。


「少しだけ」

シンは言った。


奈々香が小さく笑う。


「うん。少しだけでいいよ」


シンは透明な部分を箸で切った。


思ったより柔らかい。箸の先が沈む。

表面の膜が、薄く裂けた。

中から、湯気と一緒に濃い匂いが上がった。

小さな黒い点が、断面にいくつか見えた。


種。


そう思った。

果物なら、種があってもおかしくない。

シンはそれを口に入れた。


熱い。


舌の上で、薄い膜が破れた。


甘い。

酸っぱい。

柔らかい。


その奥で、何かが舌に触れた。


細いもの。


一本ではない。束になった細い繊維のようなものが、舌の横を撫でた。


シンは噛むのを止めた。

口の中に、熱が残っている。


奈々香がこちらを見ていた。

不安そうではなかった。期待している顔だ。


シンは飲み込んだ。

喉を通る時、小さな違和感が残った。

引っかかったわけではない。痛くもない。


ただ、何かが通った。

そう分かった。


奈々香は、自分の小皿にはまだ箸をつけていなかった。

シンの口元を見ている。


その指先が、皿の縁をゆっくりとなぞった。


白い指が、一周する前に止まる。


「どう?」

奈々香が聞いた。


シンは水を探した。

カウンターの上に、透明な水が置かれている。

手を伸ばしかけて、やめた。


「……甘いです」


「うん」


「少し、酸っぱい」


「うん」


「熱い」


奈々香は笑った。


「それは、あたたかいものだから」


シンは、少しだけ笑った。

笑えたことに、自分で驚いた。


「嫌い?」

奈々香が聞いた。


シンは小皿を見た。


透明な膜。

黒い点。

湯気。


舌の端に、まだ細い感触が残っている気がした。


「……分かりません」


奈々香は嬉しそうにした。


「分からないって、また言った」


「好きでは、ないかもしれません」


「うん」


「でも」


シンは箸を置いた。


「奈々香さんが好きなのは、少し分かりました」


奈々香は黙った。


それから、ゆっくり笑った。

今までで一番、嬉しそうだった。


「それ、嬉しい…」


「食べ物の感想としては、どうなんですか」


「いいよ」


「いいんですか」


「うん」


奈々香は自分の小皿を見た。


「好きって言われるより、少し分かったって言われる方が嬉しい時もあるよ」


シンは返事に困った。

奈々香は続けた。


「同じものを知ったから」


シンはその言葉に、少しだけ引っかかった。

同じものを食べたから、ではない。

同じものを知ったから。


「知ったら、何か変わるんですか」


「少し」


「少し?」


「うん。知らないものは、遠いから」


奈々香は箸を持った。

透明な蒸し物を口に入れる。

目を伏せて、ゆっくり飲み込んだ。

その仕草は綺麗だった。

綺麗だったから、余計に嫌だった。


シンは自分の小皿を見た。まだ半分以上残っている。


「無理しなくていいよ」

奈々香が言った。


「本当に」


優しい声だった。


だからシンは、もう一口だけ食べた。

二口目は、一口目より熱くなかった。

甘さも、酸味も、少し分かる。

分かってしまうのが嫌だった。


小さな黒い点を噛んだ。

ぷつ、と何かが潰れた。

果物の種にしては、柔らかかった。

歯の間に、薄い皮のようなものが残る。


シンは飲み込んだ。

今度はすぐに水を飲んだ。

水は冷たかった。

けれど、腹の奥に残った熱は消えなかった。


「ありがとう」

奈々香が言った。


シンは顔を上げた。


「何がですか」


「食べてくれて」


「少しだけです」


「少しだけでも」


奈々香は笑った。


「ちゃんと、分かったから」


「何がですか」


「シンが食べてくれたこと」


奈々香は小皿を見て、それからシンを見た。


「それだけで、嬉しかった」


その顔を見ると、吐き出さなくてよかったと思った。

そう思ってしまった。


店を出る頃には、外の空気が少し冷たくなっていた。

路地の匂いは薄くなっている。

それでも、鼻の奥に甘酸っぱい匂いが残っていた。

さっきの湯気の匂いだった。


シンは軽く息を吐いた。

腹の奥が、あたたかい。


食べたからだ。そう思った。


思うことにした。


街の端まで歩く間、奈々香はずっと機嫌がよさそうだった。何かを話すわけではない。

ただ、時々シンを見て、少し笑う。

そのたびに、シンは口の中の違和感を忘れそうになった。


山道の入口で、奈々香が立ち止まった。


「今日は、ここまで」


「はい」


シンも足を止めた。

奈々香はシンの手元を見た。

袋を持っていない方の手。

空いている右手。


一瞬だけ、奈々香の指が動いた。

触れようとしたように見えた。

けれど、奈々香は手を伸ばさなかった。


「気をつけて」


「はい」


「今日は、お腹も」


シンは奈々香を見た。

奈々香はいつもの顔で笑っていた。


「熱かったから」


「ああ」


シンは少しだけ息を吐いた。


「大丈夫です」


言ってから、しまったと思った。

奈々香は嬉しそうに笑う。


「出た」


「癖です」


「知ってる」


そこで会話は終わった。


シンは山道へ入った。

数歩進んで、振り返る。

奈々香はまだそこにいた。


白いワンピースのまま、街と山の境目に立っている。

手は、身体の横に下ろされていた。

さっき動いた指だけが、なぜか目に残った。


シンは前を向いた。


木々の匂いが近づく。


土。

葉。

湿った幹。


けれど今日は、その奥に甘酸っぱい匂いが混じっていた。


シンは足を止めた。


腹の奥が、じんわりとあたたかい。

気持ち悪いほどではない。

痛くもない。

ただ、そこにある。


シンはリュックの紐を握り直した。


食べたからだ。

そう思った。


思うことにした。


山の静けさの中で、腹の奥だけが、いつまでも冷えなかった…

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