第四話 また会いに行ってしまう
朝は、いつも通りだった。
薪を割る。
水を汲む。
米を炊く。
山の朝は、順番を間違えなければ何とかなる。
火が弱ければ薪を足す。
水が足りなければ汲みに行く。
腹が減れば米を食べる。
当たり前のことだった。
シンは茶碗によそった米に、魚の缶詰を乗せた。
箸で身を崩すと、油が白い米に染みた。
それを見て、昨日の肉売り場を思い出した。
赤身の色。
脂の量。
筋の入り方。
表面の乾き具合。
人々は、ラベルではなく、そこを見ていた。
シンは箸を止めた。
喉。
手首。
リュックで擦れた首筋。
街で向けられた視線を、遅れて思い出す。
「……考えすぎだ」
声に出すと、少しだけ楽になった。
山にいると、自分の声がよく聞こえる。
それも、分かりやすくてよかった。
食器を洗っている時、指の傷が目に入った。
昨日、薪を積んだ時に引っかけたものだ。
大した傷ではない。
けれど、奈々香の声が浮かんだ。
自分で自分を直せる人は、えらいよ。
シンは棚から消毒液を取った。
傷口に垂らす。
少ししみた。
「えらい、か」
馬鹿らしいと思った。
二十を過ぎた男が、女にそう言われたくらいで、何を気にしているのか。
消毒液の蓋を閉める。
棚に戻そうとして、手が止まった。
残りが少なかった。
まだ使える。
すぐに必要になるわけでもない。
それでも、買いに行く理由にはなった。
午前中、シンは小屋の周りを片づけた。
手は動いた。
頭だけが、別の場所に行った。
駅前の白いワンピース。
午後四時の光。
米袋を抱えた細い腕。
重いよ。
でも、持てる。
シンは斧を振り下ろした。
丸太が割れる。
乾いた音が山に返る。
いつもなら、その音だけで十分だった。
でも今日は、足りなかった。
昼過ぎ。
シンは小屋の中を見回した。
消毒液。
乾電池。
塩。
絆創膏。
買わなくても困らないものばかりだった。
けれど、買ってもおかしくないものではあった。
シンはリュックを取った。
財布を入れ、空の水筒を入れる。
念のために古いメモ帳も入れる。
そして街へ行く。それだけだ。
昨日も行った。必要なものを買い、無事に帰ってきた。
いや、何もなかったわけではない。
吉澤奈々香に会った。
シンはリュックの紐を握った。
会いに行くわけではない。
消毒液を買いに行くだけだ。
そう思った。
思うことにした。
山道を下りる。
昨日より荷物は軽い。そのせいか、足も軽かった。
風で木の葉を揺れ、空から鳥のさえずり、遠くで沢の音がする。
いつもの山だった。
ただ、昨日までより少し静かに感じた。
静かなのではない。
自分が、別の音を探している。
そう気づいて、シンは眉を寄せた。
「馬鹿か」
呟いても、足は止まらなかった。
街の端に着いたのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
信号は動いている。
店は開いている。
人は歩いている。
形だけなら、昨日と同じだった。
シンは駅前とは反対側のドラッグストアへ向かった。
まっすぐ駅前へ行くのは、あまりにも分かりやすすぎる気がした。
消毒液を買う。
それが目的だ。
店内には、昨日と同じ匂いがした。
消毒液。
樹脂。
甘い香料。
棚には商品が並んでいた。
『皮膚補修液』
『咽喉保湿膜』
『睡眠誘導香』
シンは、できるだけ普通の消毒液を探し、一本をかごに入れた。
乾電池も入れる。
レジの店員は笑っていた。
口だけで。
「袋はご利用ですか」
「大丈夫です」
言ってから、奈々香の声が浮かんだ。
すぐ言うね。
シンは少しだけ息を止めた。
「……いえ、お願いします」
店を出る。まだ帰れる。
買うものは買った。山へ戻ればいい。
シンは袋を持ったまま、駅前の方を見た。
人の流れがある。
自分の帰るべき場所に向かう様に歩いている。
その中に、白い服は見えなかった。
見えないなら、帰ればいい。
シンは駅前へ向かって歩き出した。
用があるわけではない。
ただ、昨日言われた。
私は、駅前の方にいることが多いよ。
だから、用がなくても来られるよ。
それは約束ではない。
誘いでもない。
ただの情報だ。
駅前の広場に出た。
ベンチが並び、噴水は止まっている。
時計は午後三時四十七分を指していた。
奈々香はいなかった。
シンは広場の端に立つ。
何をしているのか分からなかった。
人を待つのは苦手だ。
待っている間、自分の気持ちが相手に見える気がする。
期待していること。
少し楽しみにしていること。
来なければ落ち込むこと。
そういうものが、全部、顔に出る気がする。
シンはベンチには座らなかった。
立ったまま、駅の入口を見た。
五分。
十分。
人は通る。
誰もシンの顔を見ない。
喉。
手首。
袋を持つ指。
視線が一瞬ずつ触れては、離れる。
慣れない。
昨日より慣れない。
奈々香がいないからだ。
そう思って、シンは自分で嫌になった。
帰ろう。
足を動かそうとした時、後ろから声がした。
「来たんだ」
シンは振り返った。
奈々香がいた。
昨日と同じ白いワンピースだった。
黒い髪が肩のあたりで揺れている。
いつからいたのか分からなかった。
「……たまたまです」
「たまたま駅前に?」
「買い物のついでに」
シンは袋を少し持ち上げた。
奈々香はそれを見て、小さく笑った。
「じゃあ、私はついでなんだ」
「そういう意味じゃ…」
「違うの?」
責めている顔ではなかった。
面白がっている顔だった。
シンは返事に困った。
「……全部がついでではないです」
言ってから、失敗したと思った。
奈々香は目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「そっか」
「今のは忘れてください」
「やだ」
「やだって」
「忘れたくない」
奈々香は当たり前みたいに言った。
シンは視線を逸らした。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「本当に買い物?」
奈々香が聞いた。
「本当です」
「何を買ったの」
「消毒液と乾電池です」
「消毒液」
奈々香は袋を見た。
それから、シンの右手に視線を落とした。
「指、切った?」
シンは右手を見た。
小さな傷。
今朝、消毒したばかりの場所。
「少しだけ」
「ちゃんと消毒した?」
「しました」
「えらい」
昨日と同じ言葉だった。
シンは少しだけ視線を落とした。
「子どもじゃないんですけど」
「知ってる」
「じゃあ、えらいは変でしょう」
「変かな」
「変です」
「でも、嫌そうじゃない」
シンは何も言えなかった。
否定すれば嘘になる。
奈々香は、そこで少しだけ目を細めた。
勝った、という顔ではなかった。
ただ、見つけたものを大事にしまうような顔だった。
「今日は荷物、軽いね」
「昨日が重かっただけです」
「うん。今日は持たなくてもよさそう」
「持たせません」
「残念」
「残念なんですか」
「うん」
奈々香は笑った。
「シンの荷物を持つの、少し好きだった」
その言葉に、シンは返事を間違えそうになった。
ありがとう。
すみません。
変わってますね。
どれも違う気がした。
「……変な人ですね」
口にしてから、まずいと思った。
けれど奈々香は、嬉しそうにした。
「そう言われたの、初めてかも」
「嘘でしょう」
「どうして?」
「奈々香さん、変なので」
言ってから、シンはまた少し後悔した。
言いすぎた。
けれど奈々香は笑っていた。
「今日は、昨日より話してくれるね」
シンは黙った。
たしかにそうだった。
昨日より、言葉が出る。
なぜかは分からない。
たぶん、奈々香が怒らないからだ。
言葉を少し間違えても、すぐに嫌われる感じがしない。
それが楽だった。
「怒らないんですね」
「怒ってほしかった?」
「そういうわけじゃ」
「じゃあ、怒らない」
奈々香は簡単に言った。
その簡単さが、少し羨ましかった。
二人は広場の端を歩き出した。
昨日と同じように、近すぎず、遠すぎない距離だった。
奈々香はシンの歩幅に合わせている。
「合わせてます?」
「うん」
「歩く速さを?」
「話しにくいから」
「それだけですか」
「それだけじゃ、だめ?」
シンは首を横に振った。
「だめではないです」
奈々香は少し前へ出た。
すぐに振り返る。
「これだと話しにくい?」
「少し」
「じゃあ、戻る」
奈々香はシンの横に戻った。
その動きが妙に素直で、シンは少しだけ笑いそうになった。
「何?」
「いえ」
「笑った?」
「笑ってません」
「じゃあ、そういうことにしておく」
奈々香は楽しそうに言った。
横断歩道の手前で、二人は止まった。
信号は赤だった。
人々が同じように止まる。
顔は前を向いている。
目だけが、少しずつ動く。
奈々香の周りだけ、人の視線が少し薄い気がした。
昨日も、そうだった気がする。
シンは気になった。
けれど、聞けなかった。
代わりに別のことを聞いた。
「奈々香さんは」
「うん」
「昨日、どうして俺に話しかけたんですか」
奈々香はすぐには答えなかった。
信号の音が鳴る。
青になって、人々が歩き出す。
奈々香は一歩遅れて歩いた。
「匂いがしたから」
「山の匂いですか」
「うん」
「それだけ?」
奈々香はシンを見た。
「それだけじゃない気もした」
シンは足を止めかけた。
奈々香は前を向いたまま歩いている。
「どういう意味ですか」
「分からない」
「分からない?」
「うん。だから、話してみたかった」
シンは黙った。
それは答えになっていない。
でも、嘘にも聞こえなかった。
「シンは?」
「俺?」
「どうして今日、ここに来たの」
「買い物です」
「消毒液?」
「はい」
「それだけ?」
今度は、奈々香が同じ言葉を返した。
シンは答えられなかった。
それだけではない。
でも、それを言うには早すぎた。
早すぎるということは、言う気は少しあるということだった。それに気づいて、シンは困った。
「……昨日、駅前にいることが多いって言ってたので」
奈々香は立ち止まった。
シンも止まる。
「覚えてたんだ」
「覚えてますよ、それくらい」
「嬉しい」
奈々香は本当に嬉しそうに言った。
シンは視線を逸らした。
「大げさです」
「大げさでも、嬉しいよ」
また、返しに困る言葉だった。
正しい返事が見つからない。
けれど、無理に探さなくても、奈々香は急かさなかった。
シンはその沈黙に、少しだけ慣れ始めていた。
広場の脇に、小さな花壇があった。
花は咲いていない。土だけが均されている。
奈々香はそこを見て、少しだけ足を止めた。
「山には、花ある?」
「あります」
「名前、知ってる?」
「ほとんど知らないです」
「覚えないの?」
「必要ないので」
「必要ないと、覚えない?」
シンは少し考えた。
「たぶん」
「じゃあ、私の名前は?」
「覚えてます」
「必要?」
奈々香はさらりと聞いた。
シンは、言葉に詰まった。
昨日聞いたから。
名前くらい普通に覚える。
忘れる方が失礼だから。
逃げる言葉なら、いくらでもあった。
「必要かどうかは、分かりません」
奈々香は黙って待っていた。
「でも、忘れたくはないです」
言ってから、後悔した。
重い。
奈々香はしばらく黙っていた。
「……それ、もう一回言って」
「嫌です」
「けち」
「けちって」
「だって、嬉しかったのに」
その言い方が妙に普通で、シンは困った。
怖い街の中で、その普通さだけが浮いていた。
「シン」
奈々香が名前を呼んだ。
今度はフルネームではなかった。
「また来てくれる?」
シンはすぐには答えなかった。
昨日と似た言葉だ。
けれど、昨日とは違って聞こえた。
また会える?
また来てくれる?
会えるかどうかではなく、来るかどうか。
選ぶのは、自分だった。
「……たぶん」
いつもの便利な返事が出た。
奈々香は小さく笑った。
「たぶん」
「癖です」
「知ってる」
それから、少しだけ声を落とした。
「でも、たぶんでも嬉しいよ」
シンは返事ができなかった。
奈々香は続けた。
「来ないって言われるより、ずっといい」
そう言われると、ずるいと思った。
断る言葉が、急に重くなる。
それなのに、嫌ではなかった。
風が吹いた。
白いワンピースの裾が揺れる。
甘い匂いがした。
昨日より少し近い。
柔軟剤のような。
花のような。
熟れすぎた果物のような。
シンは、その匂いを嫌だと思わなかった。
それに気づいて、少しだけ怖くなった。
「そろそろ帰らないと」
シンは言った。
「暗くなるから?」
「はい」
「道は分かる?」
「分かります」
「じゃあ、大丈夫?」
奈々香がまた言った。
昨日と同じやり取りだった。
シンは少しだけ笑った。
「たぶん、本当に」
「たぶんが残った」
「完全に大丈夫とは言えないので」
「その方がいいね」
「何がですか」
「本当っぽい」
奈々香はそう言った。
シンは返事ができなかった。
本当っぽい。
それは、なぜか強く残った。
山へ戻る道の入口まで、奈々香はついてきた。
シンは途中で何度か断ろうとした。
けれど奈々香は、近すぎない距離で歩いているだけだった。
送っているとも、ついてきているとも言えない。
ただ、同じ方向へ歩いている。それだけ。
街の端に着いた。
ここから先は、山道になる。
舗装が途切れ、木々の影が濃くなる。
奈々香はそこで立ち止まった。
「今日は、ここまで」
「ありがとうございます」
「お礼を言われること、してないよ」
「話してくれたので」
奈々香は少しだけ目を開いた。
それから、静かに笑った。
「シンも、話してくれたよ」
「そうですか」
「うん。昨日より」
シンはリュックの紐を握った。
昨日より。
その言葉が、なぜか嬉しかった。
「次に来たら」
奈々香が言った。
「少し、寄っていかない?」
「どこにですか」
「私が好きな場所」
「店ですか」
「店みたいなところ」
「何があるんですか」
奈々香は少し考えた。
「あたたかいもの」
「あたたかいもの?」
「うん」
奈々香は小さく笑った。
「シンにも、少しだけ知ってほしい」
シンはすぐには返事をしなかった。
行かない方がいい。そう思ってしまった。
この街はおかしい。
奈々香も、まだ分からない。
分からないものには、近づかない方がいい。
それは山で暮らすうえで、当たり前のことだ。
けれど、奈々香はシンの名前を覚えていた。
指の傷を見ていた。
昨日の話を覚えていた。
怒らなかった。
急かさなかった。
「……考えておきます」
「うん、それでいい」
奈々香は頷いた。
責められなかった。
残念そうにもされなかった。
だから余計に、行ってもいい気がした。
「気をつけて」
奈々香は言った。
「はい」
シンは山道へ入った。数歩進んで、振り返る。
奈々香はまだそこにいた。
街と山の境目に、白く立っている。
その向こうを、人々が通り過ぎていく。
誰も奈々香を見ていなかった。
けれど、街の奥から、いくつかの視線がこちらを向いていた。
喉。
手首。
指先。
そういう場所を撫でるような視線。
シンは早足で山へ入った。
木々の匂いが近づく。
土。
葉。
湿った幹。
昨日より、山の匂いが弱く感じた。
小屋へ戻る頃には、空が暗くなり始めていた。
買ってきた消毒液を棚に並べる。
昨日の瓶の隣に、新しい瓶。
それだけで、今日街へ行った理由が形になった。
それでも、頭の中には奈々香の声が残っていた。
来たんだ。忘れたくない。けち。
たぶんでも嬉しいよ。
シンは椅子に座った。
窓の外は暗い。
山の輪郭が、黒く沈んでいる。
昨日より、静かだった。
静かすぎると思った。
しばらくして、シンはメモ帳を開いた。
買うものを書き出す。
塩。
味噌。
乾麺。
絆創膏。
どれも、すぐには必要ない。
最後に、少し迷ってから書いた。
駅前。
買い物ではない。用事でもない。
それでも、書いてしまった。
シンはその文字を見つめた。
消そうと思えば消せた。
けれど、消さなかった。
その夜、シンはなかなか眠れなかった。
目を閉じると、白いワンピースが浮かぶ。
午後四時の光。
黒い髪。
甘い匂い。
来たんだ。
その言葉だけで、自分が少し救われたことを、シンは認めたくなかった。
けれど、否定もできなかった。
小屋の外で、虫が鳴いていた。
小さく、細く、途切れずに。
シンは布団の中で寝返りを打った。
明日、行くとは決めていない。
ただ、必要なものを思い出しただけだ。
そう思った。
思うことにした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
次回投稿は6月20日となります。
これからも是非本書をお楽しみくださいませ。




