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恋と生存 〜誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた〜  作者: α


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第三話 重いもの

「また会える?」


吉澤奈々香は、そう言った。


白いワンピースが、午後四時の光の中で揺れていた。


シンは返事をした後で、すぐに後悔した。


「……たぶん」


便利な言葉だった。


約束ではない。

拒絶でもない。

相手を傷つけず、自分も逃げられる。


奈々香は嬉しそうに笑った。


「よかった」


その言い方が、妙に自然だった。

街の人間たちは、少しずつずれている。


笑い声。

視線。

言葉の間。


けれど奈々香だけは、シンの顔を見て話していた。

それだけで、少し楽だった。


「あの」


シンは袋を持ち直した。


「俺、もう帰らないと」


「山へ?」


「はい」


「それ、全部持って?」


奈々香はシンの荷物を見た。


米。

水。

缶詰。

薬の袋。


言われるまでもなく、重かった。


「大丈夫です」


口にしてから、少し嫌になった。

また出た。


奈々香は小さく笑った。


「すぐ言うね」


「え?」


「大丈夫ですって」


責める声ではない。

聞こえたものを、そのまま口にしたような声だった。


「癖です」


「そうなんだ」


奈々香は頷いた。


「本当に大丈夫じゃない時も?」


シンは返事に詰まる。

信号が赤に変わる。


通行人たちは足を止める。

誰も急いでいない。

その中で、奈々香だけがシンの返事を待っていた。


「……言うかもしれません」


「便利だから?」


シンは顔を上げた。


中澤若菜の声が、胸の奥で少しだけ動いた。


私のこと好きなんじゃなくて、嫌われないようにしてるだけでしょ。


「そうかもしれないです」


奈々香は笑わなかった。

かわいそうとも言わなかった。

ただ、シンを見ていた。


それが少し、落ち着かなかった。


「少し持とうか」


奈々香が手を伸ばした。


「いや、いいです」


「遠慮?」


「初対面の人に米を持たせるのは、さすがに」


「じゃあ、初対面じゃなくなればいい?」


シンは言葉に詰まった。


奈々香は楽しそうに笑った。


「冗談。半分だけ」


「半分」


「半分は本気」


その返しに、シンは少しだけ息を抜いた。

この街で初めて、会話らしい会話をしている気がした。


「でも、本当に大丈夫です」


「それは、どっち?」


「どっち?」


「本当に大丈夫なのか、そう言った方が楽なのか」


シンは黙った。

踏み込み方は近い。

けれど、乱暴ではない。

奈々香の声は、扉を蹴るのではなく、指先で軽く叩くようだった。


「……少しだけなら」


シンは米袋を差し出した。


「お願いします」


「うん」


奈々香は両手で受け取った。

五キロの米袋だった。

それなりに重いはずなのに、奈々香の腕はあまり沈まなかった。


「重くないですか」


「重いよ」


奈々香は言った。


「でも、持てる」


その返事が妙に気に入った。

大丈夫です、ではない。

重い。でも、持てる。


それだけだった。


二人は通りの端を歩き出した。

奈々香は近すぎず、遠すぎない場所を歩いた。

肩は触れない。

声は届く。

その距離が、妙にうまかった。


「山まで、歩いてどれくらい?」


「一時間くらいです」


「一時間」


奈々香は少し目を丸くした。


「その荷物で?」


「帰りは、だいたいこうです」


「毎回?」


「買い物に来る時は」


「大変だね」


「慣れました」


「慣れても、重いものは重いよ」


シンは返事に困った。

確かにそうだった。


「……まあ、重いです」


「うん。そう見える」


奈々香は米袋を抱え直した。


「山って、買い物もまとめてするんだね」


「毎日は来られないので」


「一人分?」


軽い調子だった。

夕飯の量を聞くような、何でもない声。

それでもシンは、少しだけ間を置いた。


「一人分です」


「そっか」


奈々香はすぐには次を聞かなかった。

その沈黙があったから、シンは警戒しきれなかった。


「一人で暮らすの、好き?」


「好きというか、楽です」


「人といるのは?」


「疲れます」


「私と話すのも?」


シンは奈々香を見た。

奈々香は、試すような顔をしていなかった。

ただ答えを待っている。


「……今のところは、大丈夫です」


言ってから、シンは眉を寄せた。


奈々香が小さく笑う。


「また大丈夫って言った」


「すみません」


「謝らなくていいよ」


その言葉は、妙に静かに届いた。

謝らなくていい。

言われ慣れていない言葉だった。

シンは何も返せなかった。


しばらく、二人は黙って歩いた。

沈黙が続いても、奈々香は急かさなかった。

それが余計に、シンを落ち着かなくさせた。

何か話さなければと思った。

けれど、何を話せばいいのか分からない。

いつもなら、相手の話しやすそうな話題を探す。


天気。

仕事。

最近のニュース。


無難で、角の立たないもの。

でも奈々香には、そういうものが浮かばなかった。


「奈々香さんは」


気づくと、シンは自分から聞いていた。


「この辺に、よくいるんですか」


奈々香は少しだけ目を開いた。

それから、嬉しそうに笑った。


「私のこと、聞いてくれるんだ」


「いや、変な意味じゃ」


「変な意味でもいいよ」


「よくないです」


奈々香は楽しそうだった。


シンは少しだけ視線を逸らした。


「……すみません」


「だから、謝らなくていいって」


奈々香は米袋を抱えたまま、駅前の方を見た。


「この辺には、よくいるよ」


「仕事ですか」


「似たようなもの」


「似たようなもの?」


「うん」


奈々香は少し考えた。


「人と話すことが多いから」


「それが仕事なんですか」


「どうかな」


奈々香はシンを見た。


「でも、今は話したいから話してる」


シンは返事ができなかった。

ただの言葉かもしれない。

初対面の女が、何となく言っただけかもしれない。

それでも、胸の奥が少しだけ動いた。

奈々香はシンの買い物袋を見た。


「日持ちするものばかりだね」


「山だと、その方が楽なので」


「料理はする?」


「簡単なものなら」


「米を炊いて、缶詰を開ける?」


「だいたい、そんな感じです」


「魚は?」


「小さいのなら、たまに」


「自分で?」


「はい」


「すごいね」


「慣れれば普通です」


「普通が多いね、シンは」


「そうですか」


「うん。大丈夫とか、慣れたとか、普通とか」


奈々香は指で数えるように言った。


「そう言うと、話がそこで終わる」


シンは黙った。

若菜にも、似たようなことを言われた気がした。

言葉は便利だ。

便利なものほど、何かを隠す。


「嫌だったら、答えなくていいけど」


奈々香は少し声を落とした。


「山で怪我したら、困らない?」


「たまには切ります」


「手?」


「指とか」


「じゃあ、ちゃんと消毒するんだ」


「します。だから今日、買いに来ました」


シンは薬の袋を軽く持ち上げた。


「えらい」


「えらいって」


「自分で自分を直せる人は、えらいよ」


奈々香はまじめに言った。


その言い方が少しおかしくて、シンは視線を落とした。


「直せる範囲なら、です」


「直せない時は?」


風が吹いた。

どこかから、腐りかけた果物のような甘い匂いがした。

シンは答えるのが遅れた。


「……そうならないようにします」


「それも、大丈夫と似てる」


「そうですね」


奈々香は責めなかった。

ただ、困ったように少しだけ笑った。


「でも、ちゃんと自分を直そうとしてるんだね」


シンは返事に困った。

そんなふうに言われることは、ほとんどなかった。


信号が青に変わった。

二人はゆっくり歩き出した。

通行人たちは、同じ速度で横断歩道を渡っていく。


奈々香はその流れから少し外れていた。


誰も彼女にぶつからない。

誰も彼女を見ない。

それに気づいて、シンは少しだけ足を速めた。


「どうしたの?」


「いえ」


「帰りたい?」


「帰らないと」


「山の方がいい?」


シンは街を見た。


動いている信号。

開いている店。

整った歩幅で流れる人。


誰もこちらを見ていない。

いや、見ている。

顔以外を。


「山の方が、分かりやすいので」


奈々香は、その答えをすぐには笑わなかった。


「分かりやすいものが好き?」


「たぶん」


「私は?」


シンは返事に詰まった。


「分かりにくい?」


「……まだ、分かりません」


奈々香は嬉しそうに笑った。


「それ、いいね」


「何がですか」


「分からないって言ったところ」


「普通じゃないですか」


「分からないのに、分かったふりをする人もいるでしょう」


シンは黙った。

また若菜の声が戻りそうになった。


奈々香は、そこで米袋を差し出した。


「ここまででいい?」


「あ、はい。ありがとうございます」


受け取ると、重さが腕に戻る。

さっきまでより、少しだけ重く感じた。


「山へ戻るなら、暗くなる前がいいよ」


「そうですね」


「道は分かる?」


「分かります」


「じゃあ、大丈夫?」


奈々香は少し笑って言った。

シンも、ほんの少しだけ笑った。


「それは、たぶん本当に大丈夫です」


「たぶんなんだ」


「癖です」


「知ってる」


会話がそこで途切れた。

けれど、気まずくはなかった。


「神倉シン」


奈々香が名前を呼んだ。

フルネームだった。

シンは顔を上げる。


「また、街に来る?」


「用があれば」


「用がなければ?」


シンは答えなかった。

用はない。

米も薬も買った。

しばらく街へ下りる理由はない。


それなのに、もう一度会う理由を探している自分がいた。


「私は、駅前の方にいることが多いよ」


奈々香は言った。


「だから、用がなくても来られるよ」


シンは何も言えなかった。

逃げ道を塞がれたわけではない。

むしろ、用がなくてもいいと言われただけだった。

それが少し怖かった。

同じくらい、嬉しかった。


シンは質問する。


「奈々香さんは、この街の人なんですか」


奈々香は一瞬だけ黙った。

それから微笑んだ。


「今はね」


今は。


その言い方が、少し引っかかった。

けれどシンは聞き返さなかった。

聞いてはいけない気がした。


「それじゃあ」


シンは米袋を持ち直した。


「帰ります」


「うん」


奈々香は頷いた。


「気をつけて」


ありふれた言葉だった。

だが、奈々香が言うと、少し違って聞こえた。


山道に気をつけて。

荷物に気をつけて。

怪我に気をつけて。


それだけではない何かが、薄く混じっている。

シンは軽く頭を下げた。


歩き出す。

数歩進んで、振り返った。


奈々香はまだそこにいた。


白いワンピースのまま、午後四時の光の中に立っている。


通行人たちは、彼女を避けるように歩いていた。

誰も肩をぶつけない。

誰も見ない。

奈々香だけが、シンを見ていた。


シンは目を逸らし、歩き出した。

街の端を抜ける頃には、腕が痛くなっていた。


米が重い。

水が重い。

薬の袋が手首に食い込む。


それでも、足は止まらなかった。


舗装道路を抜け、山道へ入る。


木々の匂いが戻ってくる。


土。

葉。

沢の水。


分かりやすい匂いだった。

シンはようやく息を吐いた。


山の中は、もう薄暗かった。

鳥の声が遠くで鳴っている。


枝が揺れる。

虫が鳴く。

落ち葉が靴の下で潰れる。


中身のある静けさ。


そのはずだった。


しばらく歩いたところで、シンは足を止めた。


後ろから、甘い匂いがした。


柔軟剤のような。

花のような。

熟れすぎた果物のような。


街の匂いだった。


振り返る。


道には誰もいない。

木々の間に、夕方の光が細く残っているだけだった。


気のせいだ。


そう思った。


思うことにした。


小屋へ戻る頃には、空は暗くなっていた。


扉を開け、荷物を床に置く。


米袋が、どさりと音を立てた。


シンはしばらく、その場に立っていた。


誰もいない小屋。


古い木の匂い。

冷えた空気。

黒い窓。


いつもの場所だった。

いつものはずだった。


シンは薬の袋を棚にしまい、米を保存箱に移した。


手を洗う。


水は冷たかった。


指先をこすりながら、奈々香の声を思い出した。


大丈夫じゃない時も?


シンは蛇口を止めた。


水滴が、ポチャ、と落ちた。


小屋の中に、その音だけが響いた。


しばらくして、シンは笑った。


馬鹿らしい。


街で少し変な女に会っただけだ。


たまたま目を見て話す女だった。

たまたま山の匂いに気づいた。

たまたま、少し会話が続いただけだ。


それだけだ。


シンは窓の外を見た。


山の闇が、ガラスの向こうに広がっている。


そこに自分の顔が映っていた。


少しだけ、笑っていた。


シンはその顔を見て、すぐに目を逸らした。


その夜、久しぶりに人の声を思い出しながら眠った。

ご覧いただきありがとうございます。


第4話は、6月19日 深夜に投稿予定です。


次回は、シンと奈々香の会話がもう少しだけ増えます。

二人の距離がどう変わるのか、見守っていただけると嬉しいです。

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