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恋と生存 〜誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた〜  作者: α


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第二話 形だけの街

街へ入ってすぐ、シンは自分が浮いていることに気づいた。


髪は伸び、髭も残っている。

服には山の土がついている。

それだけなら、まだいい。

問題は匂いだった。


湿った土。

薪。

古い木の匂い。


山では気にならなかったものが、アスファルトの上では急に目立った。

通りを歩く人々は、きれいだった。


スーツの男。

ブラウスの女。

学生服の少年たち。

ベビーカーを押す若い母親。


誰もシンを見ていない。

そう思った。

けれど、すれ違うたび、視線が一瞬だけ落ちた。


喉。

手首。

指先。

リュックの肩紐で擦れた首筋。


そこだけを確認するように。

シンは足を止めかけた。

気のせいだ。

久しぶりの街で、少し過敏になっている。


まずは薬だった。

駅前のドラッグストアは開いていた。

自動ドアの前に立つと、乾いた電子音が鳴った。

冷たい空気が流れてくる。

入口近くには日用品と化粧品。

奥には薬の棚があった。


「いらっしゃいませ」


レジの方から声がした。

若い女の店員だった。


整えられた髪。

薄い化粧。

白いマスク。


名札には「吉岡」とあった。

シンは軽く会釈した。

店員は笑っていた。


マスクをしているので、口元は見えない。

けれど目だけが、笑顔の形になっている。

その目が、シンの顔から少し下へ落ちる。


喉。


すぐに戻る。


「お探しのものはございますか」


「大丈夫です」


言ってから、シンは少し嫌になった。

また出た。大丈夫です。


店員は首を小さく傾けた。


「そうですか」


それだけ言って、笑顔の形に戻った。


シンは薬の棚へ向かった。


胃薬。

消毒液。

絆創膏。

風邪薬。


必要なものを籠に入れていく。

知らない商品がいくつかあった。

パッケージに書かれた文字は日本語なのに、商品名だけ妙に読みにくい。


『皮膚補修液』

『咽喉保湿膜』

『睡眠誘導香』


シンは手に取らなかった。

必要なものだけでいい。


レジへ向かう。

店員は同じ目で待っていた。

商品を一つずつ読み取る。


ピッ。

ピッ。

ピッ。


音の間隔が揃っていた。


「ポイントカードはお持ちですか」


「ないです」


「お作りしますか」


「いえ、大丈夫です」


「そうですか」


店員は商品を袋に詰めた。

指の動きがきれいだった。

同じ動きを、間違えずに繰り返している。


「またお越しください」


シンは袋を受け取った。


「あ、はい」


店を出る。


自動ドアが閉まる直前、店員がまだこちらを見ているのが分かった。


シンは振り返らなかった。


次はスーパーだった。


駅前通りを抜ける。

人はいた。それなりに。

けれど、やはり静かだった。


向こうから、学生服の少年たちが歩いてくる。

三人組だった。

肩を揺らしながら笑っている。


笑い声はある。

近づく。笑い声が止まる。

三人とも、同じタイミングだった。


一人がシンの横を通る時、ちらりと見た。

顔ではない。

左手だった。


シンは無意識に、手をポケットへ入れた。


少年たちはそのまま通り過ぎた。

背中から、また笑い声が聞こえた。


同じタイミングで。


スーパーは開いていた。

入口には特売の旗が立っている。

自動ドアの横には、アルコール消毒液。

かご。

カート。

床に貼られた矢印。


シンはかごを取った。店内には客がいた。


老夫婦。

子ども連れの女。

作業着の男。

制服姿の高校生。


客たちは、迷わず棚の前に立っていた。


シンは米の棚へ向かった。

米はあった。

五キロの袋を持ち上げる。重い。


その重さに、少し安心する。

重いものは分かりやすい。


缶詰。

水。

乾物。


必要なものをかごに入れる。


肉売り場の前を通った。

パックは整然と並んでいた。

値段も、内容量も、消費期限もある。


人々が見ているのは、ラベルではなかった。


赤身の色。

脂の量。

筋の入り方。

表面の乾き具合。


シンは少しだけ立ち止まり、すぐに歩き出した。

肉を買いに来たわけではない。


総菜売り場には、見慣れない揚げ物があった。

丸く、薄い衣が何枚も重なっている。


『羽衣揚げ』


食欲がそそられたが、シンは手に取らなかった。

缶詰と米と水だけでいい。


鼻の奥に、甘い匂いが残っていた。

腐りかけた果物のような匂い。

朝、街へ入った時にも嗅いだ匂いだった。


売り場全体に薄く沈んでいる。


レジに並ぶ。

前の客は老人だった。

かごの中には、肉のパックが三つ入っている。

老人は背を丸め、じっとレジの店員を見ていた。

店員は無表情に商品を読み取る。


ピッ。

ピッ。

ピッ。


老人が袋を受け取る。

その時、老人の首が少しだけ動いた。


シンの方へ。目は合わない。

老人はシンの顔ではなく、リュックの肩紐で擦れた首筋を見ていた。


シンは息を止めた。


老人は何も言わず、歩いていった。

次はシンの番だった。


レジの店員は若い男だった。

顔立ちは整っている。

整いすぎていて、印象が残らない。


「いらっしゃいませ」


声は丁寧だった。


米。

缶詰。

水。

乾物。


商品が読み取られていく。


ピッ。

ピッ。

ピッ。


シンは財布を出した。


「袋はご利用ですか」


「お願いします」


「お箸はお付けしますか」


「いえ、大丈夫です」


店員は一瞬だけ手を止めた。

本当に一瞬だった。


「大丈夫な方は、少なくなりましたね」


シンは顔を上げた。


「……何ですか?」


店員は商品を袋へ入れていた。


「失礼しました」


表情は変わらない。


「聞き間違いです」


その言い方が、妙に残った。

普通は、こちらが聞き間違えたのかと思う。

けれど店員は、自分でそう決めたように言った。


シンは何も言わなかった。早く出たかった。


会計を済ませ、袋を持つ。


米が重い。

水も重い。


店を出る頃には、腕が少し痛くなっていた。

外の空気を吸う。

まだ、午後四時を少し過ぎたくらいだった。

街の光は橙色に変わり始めている。


ビルの隙間から落ちる光が、道路の一部だけを明るくしていた。

人の影が長く伸びる。

信号機の赤が、やけにはっきり見えた。


シンは帰ろうと思った。


薬も買った。

米も買った。

缶詰もある。


もう十分だ。

これ以上、ここにいる理由はない。

そう思った時だった。

通りの向こうに、白い服の女がいた。

朝に見た女だ。


白いワンピース。

黒く長い髪。

細い首。


女がこちらを見る。

初めて、正面から目が合った。


通行人たちは、誰もシンの顔を見なかった。

喉や手首や、リュックで擦れた首筋ばかりを見ていた。

けれど女だけは、目を見ていた。


シンは動けなかった。

女はゆっくり歩いてくる。

歩き方は静かだった。

靴音がほとんどしない。


白いワンピースの裾が、夕方の光を受けて揺れている。

女はシンの前で止まった。

ほんの少しだけ、首を傾ける。


「山から来たの?」


声は柔らかかった。

シンは返事に詰まった。


「……分かるんですか」


「ええ」


女は微笑んだ。


「いい匂いがするから」


シンの指が、袋の持ち手を強く握った。


「匂い」


「土と、薪の匂い」


女はそこで一度言葉を切った。

そして、少しだけ目を細めた。


「ここでは、あまりしない匂い」


シンは何も言えなかった。

変なことを言われている。

そう思うのに、女の声は不快ではなかった。


街の音が遠くなった。

帰らなければ。


日が沈む前に山へ戻る。

そのために来た。

用は済んだ。


なのに足は動かなかった。


「名前を聞いてもいい?」


女が言った。

シンは一拍遅れて答えた。


「神倉、シンです」


女はその名前を、口の中で確かめるように繰り返した。


「神倉シン」


久しぶりに、自分の名前を誰かの声で聞いた。

それだけで、胸の奥が少し緩んだ。

女は微笑んだ。


「吉澤奈々香です」


奈々香はシンを見ていた。

他の誰とも違って、ちゃんと目を見ていた。

その視線が怖かった。

同じくらい、離れがたかった。


「また会える?」


奈々香は言った。

白いワンピースが、午後四時の光の中で揺れていた。


シンは、返事をするべきではないと思った。

この街はおかしい。


人の視線も。

店員の言葉も。

売り場に沈んだ甘い匂いも。


何も分かっていない。

分からないものに、近づくべきではない。

それなのに、奈々香だけはシンの目を見ていた。

久しぶりに、名前を呼ばれた。

それだけで、返事をしてしまいそうになる。


「……たぶん」


声は小さかった。

奈々香は、少しだけ嬉しそうに笑った。


「たぶん」


繰り返すように言う。


「うん。たぶんでいいよ」


シンは袋を持ち直した。


米が重い。

水が重い。


重いものは分かりやすい。


なのに今は、その重さだけでは足りなかった。

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