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恋と生存 〜誰も僕の顔を見ない街で、彼女だけが目を見てくれた〜  作者: α


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第一話 嫌われないように

「私のこと好きなんじゃなくて、嫌われないようにしてるだけでしょ」


中澤若菜は、ため息を吐きながら話す。


シンは否定できなかった。


雨が窓を滴り流れていた。

壁の時計だけが、当たり前に進んでいる。

シンと若菜は、切れた電池の様だった。


喫茶店の窓際の席


隣では、若い女がパフェの写真を撮っている。

カウンターの奥では、店員がカップを洗っていた。

ジャズが小さく流れている。


隣の席で、シャッター音が鳴った。


「何でも私に合わせてくれるよね」


若菜はカップの縁を指でなぞった。

考え事をする時の癖だった。


髪を耳にかける時は、いつも左手を使う。

笑う前には、ほんの少しだけ目を伏せる。


そういう細かいことばかり、シンは覚えていた。


「最初は優しいと思った。でも、だんだん分からなくなった」


「何が」


「シンが、どこにいるのか」


シンは黙った。


好きだ、と言えばよかった。

けれど、それは若菜を引き止めるための言葉に聞こえた。

嫌われないための言葉に。

だから言えなかった。


「怒ってくれた方が、まだよかった」

若菜は笑った。


その笑い方に、もう感情は入っていなかった。


「何でもいいよって言われるたび、まるで私だけがわがままみたいだった」


「そんなつもりじゃ」

「分かってる」

若菜はすぐに言った。


「分かってるから、しんどかった」


シンはカップに手を伸ばした。


コーヒーは冷めていた。

苦味だけが舌に残る。


「俺は、若菜に嫌な思いをさせたくなかっただけで」


「うん」

「だから、それ」

若菜は頷いた。


静かな声だった。

責められた方が楽だった。

泣かれた方が、怒鳴られた方が、まだ何か返せたかもしれない。

けれど若菜は、もうシンに何も求めていなかった。


「私のこと好きなんじゃなくて、嫌われないようにしてるだけでしょ」


もう一度、同じ言葉が落ちた。

シンはやっぱり、否定できなかった。

若菜を嫌いになったことはない。

大切にしていたつもりだ。

けれど、好きだったのかと聞かれると、すぐには答えられない。


若菜が喜ぶ答え。

若菜が傷つかない答え。

若菜がこれ以上、自分を嫌いにならない答え。


そればかり探していた。


若菜が席を立った。


「元気でね」


別れの言葉にしては、ありふれていた。

シンは笑った。


「うん。若菜も」


最後まで、正しい返事を選んだ。


若菜は一瞬だけ、何かを言いたそうにした。

けれど何も言わなかった。


左手で髪を耳にかける。

鞄を持つ。

店を出る。


ガラス越しに、傘を開く背中が見えた。

それが、神倉シンが最後に見た中澤若菜だった。


それからも、日常は当たり前に続いた。


仕事へ行く。

人と話す。

飯を食う。

眠る。


眠れない日もあった。

朝になっても、疲れが取れない日もあった。


誰かに「大丈夫?」と聞かれるたび、シンは笑った。


「大丈夫です」


そう答えると、相手は安心した。

安心した顔を見ると、シンも少しだけ安心できた。


だから、何度も言った。


大丈夫です。

平気です。

気にしないでください。

何でもいいです。

合わせます。


言葉は便利だった。

本心を隠すためではない。

自分でも分からない時、周りを安心させるのに便利だった。


そのうち、シンは自分が何を嫌がっているのか分からなくなった。


飲み会に誘われれば行った。

頼まれれば引き受けた。

断った後の空気を考える方が、面倒だった。


女と知り合うこともあった。

けれど相手の機嫌を探し始めた瞬間、若菜の声が脳裏に浮かぶ。


私のこと好きなんじゃなくて、嫌われないようにしてるだけでしょ。


呪いではない。

たぶん、診断だった。


街が嫌いだったわけではない。

人間が嫌いだったわけでもない。


人間の前にいる自分が、嫌になった。


若菜と別れて半年ほど経った頃、父方の祖父が死んだ。


葬式の日、親戚の誰かが言った。


「山の小屋、どうするんだろうな」


祖父が昔使っていた小屋だった。


山の中腹にある古い小屋。

井戸と畑があり、薪ストーブがある。

電波はほとんど入らない。


誰も使う予定はなかった。

管理するにも面倒だ。

売るほどの価値もない。

シンは、その話を聞いていた。

そして、久しぶりに自分から言った。


「俺が使ってもいいですか」


親戚たちは驚いた。


母には反対された。

父には「何を考えてるんだ」と言われた。

シンはうまく説明できなかった。


仕事を辞めたい。

人と距離を取りたい。

少し休みたい。


言葉はいくつか浮かんだ。

でも、どれも違った。


誰にも見られない場所で、自分がどんな顔をしているのか確かめたかった。


それだけだった。


山での暮らしは、思っていたよりシンに合っていた。


薪は割れば割れる。

水は汲めば溜まる。

火は薪を入れれば燃える。


山は、人間のように言葉の裏を読ませない。


雨が降る前には、土の匂いが濃くなる。

獣が近くを通れば、落ち葉の踏み方で分かる。

怪我をすれば痛む。

寒ければ震える。


分かりやすい。

少なくとも山では、嫌なものを嫌だと思ってよかった。


誰かに「大丈夫?」と聞かれることもない。

だから、大丈夫なふりをする必要もなかった。


小屋は古かった。


雨の日には北側の壁から湿った木の匂いがした。

床板は何枚か沈む。

冬の朝は、布団から出るだけで覚悟がいった。


それでも、街にいるより息がしやすかった。

シンはそこで何かを取り戻したわけではない。

ただ、これ以上減らない場所を見つけた。

そう思った。


季節が変わった。


カレンダーをめくるのを忘れるようになった。

スマホを見る時間が減った。

ニュースは開かなくなった。


ラジオは、砂を噛むような雑音ばかりだった。

たまに混じる人の声も、言葉にはならなかった。


春が終わりかけた頃、米が尽きかけた。


保存箱の底が見えている。

缶詰も少ない。

豆はまだあるが、豆だけで何日も過ごすのはきつい。


薬箱も開けた。


胃薬がない。

消毒液も底に少しだけ。

絆創膏は残り三枚。

風邪薬は使用期限が怪しい。


すぐに死ぬような問題ではない。

だが山で暮らしていると、小さな不足があとで大きくなる。


指を切る。

傷が汚れる。

熱が出る。

動けなくなる。


動けなければ、水も汲めない。

薪も運べない。

シンは薬箱を閉じた。

街へ下りるしかない。


そう思った瞬間、喉の奥が少し詰まった。


数か月ぶりだった。

最後に街へ行ったのがいつだったか、はっきり覚えていない。

冬の前だった気もする。

年が明けてから一度行った気もする。


スマホを窓際に置いた。

電波は一本だけ立った。

天気予報を開く。

今日と明日は晴れ。

ニュースを開こうとすると、読み込みの輪が回り続けた。


シンは少し待った。

それから画面を閉じた。


知らなくても、世界は勝手に進む。


財布。

水筒。

布袋。

古い折り畳みナイフ。


絆創膏を一枚だけポケットに入れる。

小屋を出る前に、シンは小さな鏡を見た。


髪は伸びていた。

髭も少し残っている。

肌は日に焼け、目の下には薄い影がある。


人に会う顔ではない。

そう思ってから、少し笑った。


また、人にどう見えるかを考えている。

山に来ても、消えないものはあるらしい。

玄関を出ると、朝の空気は冷たかった。


山道を下りる。


湿った落ち葉が靴底に貼りつく。

沢の音が近づき、遠ざかる。

木々の隙間から差す光が、足元にまだら模様を作る。


一時間ほど歩くと、舗装道路に出た。

アスファルトを踏む。

足の裏に硬さが返ってきた。

山道とは違う。逃げ場のない、人間が作った硬さ。


道路脇の草は記憶より伸びていた。

ガードレールには蔓が絡んでいる。

カーブミラーは曇り、自分の顔がぼやけて映った。


車は通らなかった。

一台も、というわけではない。

ずっと遠くで、白い軽トラックのようなものが横切るのを一度見た。


それだけだった。


いつも、こんなに静かだっただろうか。


シンは道の端で足を止めた。


風。

草。

鳥。

自分の呼吸。


エンジン音はない。


山の静けさには、中身がある。

虫も、水も、獣もいる。


今の道路の静けさは、もっと平らだった。

音を置き忘れたような静けさだった。


引き返そうかと思った。

けれど、リュックの中は軽い。

米も薬も足りない。

戻っても、数日後にはまた同じことになる。


シンは歩き出した。

坂を下るにつれて、空が広くなる。

山の匂いが薄くなり、乾いた道路と古い排水溝の匂いが混ざり始めた。

やがて、街の端が見えた。


ビルの影。

駅前の看板。

動いている信号。


赤から青へ。

青から黄色へ。

黄色から赤へ。


街は、形だけなら記憶のままだった。


シンは息を吐いた。


その時、交差点の向こう側を、白い服の女が歩いているのが見えた。


距離はあった。

顔までは分からない。

女は信号待ちの途中で、左手を上げた。

髪を耳にかける。


ただ、それだけだった。


それだけで、シンの胸が変な音を立てた。


若菜。


そう思った。ありえない。


中澤若菜がこんな場所にいるはずがない。

彼女が今どこで何をしているのか、シンは知らない。

知る資格もない。


白い服の女は、こちらを見なかった。

信号が変わる。

女は歩き出し、ビルの隙間へ消えた。

シンはしばらく、その場所を見ていた。


違う。似ていただけだ。


人間の仕草なんて、いくらでも似る。

髪を耳にかける女など、街に何人でもいる。

左手だったから何だというのか。


それでも、足は少し速くなった。


米を買う。

薬を買う。

余裕があれば缶詰も買う。


それだけ済ませて、日が沈む前に山へ戻る。

ただそれだけ。


誰かに会いに来たわけではない。

誰かに見つけてほしいわけでもない。


シンはそう自分に言い聞かせながら、街へ入った。

どこか遠くで、チャイムが鳴った。

夕方を知らせるような、懐かしい音だった。


腕時計を見る。

針は、午後四時を指していた。

そんなに歩いただろうか。


シンは首を傾げた。


山では、時間の流れがよく分からなくなる。

きっと思っていたより遅く出たのだろう。

そう考えることにした。


チャイムは一度だけ鳴って、すぐに消えた。

その余韻の中で、街の方から風が吹いた。


柔軟剤。

油。

湿ったコンクリート。


人の暮らしの匂い。

それから、ほんのわずかに。


腐りかけた果物のような、甘い匂いがした。

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