サバとチョコレート
「とにかくぬしは黙っておれ」
「シャアアッ」
「はっ。その通りでございます。願いと引きかえに、珍味をご用意しております」
サバオがしっしと手をふった。準備しろということらしい。
あわててパントリーに走り、持ってきたサバチョコレートを取り出す。
急いだ方がいいのであれば、そのまま出すのが一番いい。でも、パティシエのはしくれとして、盛りつけはちゃんとしたかった。
一緒に持ってきた皿を出す。先輩と行った赤レンガ倉庫で買ったものだ。
横浜の海を模した器。海の表情をとらえた器。
横浜の海神にそなえるのに、これよりふさわしい器はないだろう。
その皿に、サバチョコレートを盛り付ける。手がふるえ、ソースがぱっとはねてしまった。
それをふきながら、ふと思う。
これは、俺の最後の調理になるのだろうか。嫌な予感が頭をかすめる。
最後にはならない。そうさせない。
もし最後だったとしても、ちゃんとやる。
きっちり作った。言い訳もない。悔いもない。
できるだけのことはやった。
食べる人のことを考えて作った品ができた。
深呼吸して、扉を開ける。
「お持ちしました」
海を模したガラス皿の上には、黄色かかった白いサバがひときれ置かれている。
上からは、濃い茶色のソースがかかり、つけあわせの漬物の赤さと、鮮やかなコントラストを描いている。
焦らないようにゆっくりと、海神の前の床に皿を置く。
だれもしゃべらない。
だれも動かない。
部屋に、なんの音もない。
俺はこのまま一生、この部屋に突っ立ったままなのだろうかと思い始めたおころ、海神の手元がわずかに動いた。
フォークでちょんとサバをつつき、またしばらく動かなくなる。もう一度ちょんとつつき、動かなくなる。
それを何度か繰り返し、最後に爪ほどの小さいかけらを、器用にフォークですくい上げると口に入れた。
(食べてくれた......)
祈る。
俺がおいしいと思っても。他の誰かがおいしいと思っても。
食べる人が、あなたがおいしいと思わないなら、意味がない。
海神が口を動かすのをやめた。ごくり、と飲み込む音が響く。
白い目が、すっとこちらを向いた。
「シャ、シャアア」
訳されなくても意味がわかった。
「あ......」
海神が俺の口元に手を伸ばす。舌を出せという動作をされる。言われたとおりに舌を出すと、海神が自分のブロンズの小指を俺の舌に押し当てた。
人肌を押し当てられたようなあたたかさがあった。
血ではない、なにかが舌から全身へとめぐり始める。
ふわふわと浮かぶような感覚のあと、海神が俺の舌から指をはなした。
糸が切れたように、その場にふっと座り込む。
なにがおきたのかわかっていた。
俺の舌が、戻ってきた。




