モップで
「関係者用だぞ!入っていいのか!?」
「わしは神じゃ。問題なかろう」
「お前、俺は人間なんだってことすぐ忘れるよな」
「そもそもそれが発端だからの」
神と一緒だから大丈夫だというサバオの言葉を信じ、どきどきしながらサバオのあとをついていく。
これは、大丈夫なのか?
なんだかいま、とんでもないことをしているのでは?
「毎度とはいえ、面倒じゃの」
俺の緊張をよそに、サバオは迷わず非常階段へと向かう。下に行くのかと思いきや、どんどん上に登っていく。
「おいここ最上階だろ? 上になにかあるのか?」
「上というより外じゃ。そう焦るな」
無骨な鉄のドアを開けると、びゅうびゅうと風が吹いてきた。初夏の暑さを吹き飛ばすほど、冷たくて強い風。
はっきり言えば寒い。
「おい......風が.......」
口を開くと、強風が口のなかに飛び込んでくる。すべてが風の音でかき消される。
唯一聞こえるのはこの小さな屋上で、俺たちが鉄板を踏むカツーンカツーンという耳障りな音だけだ。
声を出すのも難しいなか、サバオがこちらに向かって口をぱくぱくさせた。指さしたさきに、ビルの窓を外から拭くためのゴンドラがある。
あ・れ・に・の・る。
サバオの口が確かにそう動いた。
な・ん・で・だ・よ。
こちらも口をぱくぱく動かす。サバオは怪訝な顔をして、首をふった。伝わらなかったらしい。
屋上から突き出たアームに、ゴンドラが吊り下げられている。サバオがささっとゴンドラに乗る。俺があとから乗り込むと、こなれた操作でゴンドラを下にさげ始めた。
ゴンドラに乗り、距離が近くなったことで、サバオと話しやすくなった。腹からの大声で呼びかける。
「どこ行くんだ!?」
「起こしに行く!」
起こし行くって、どうやって?と思ったとき、ふと気づいた。
横浜にある程度住んでいる人なら、インターコンチネンタルホテルの「女神」について、一度は聞いたことがある。
三十一階立てのこのホテルの最上階には、羽根のはえた巨大な女神像がある。
人が到底立ち入れない、壁のくぼみにある銅像だがあまりに巨大で、地上からでもはっきりその姿がわかるほどだ。
海を見守る守護神の像だと聞いたことがあるが、それはつまり......。
「おい、海神ってもしかしてここの女神像のことか!?」
「ぬし、いまごろ気づいたのか!?」
「わかるかよ!あとなんでそんなに毎回説明があとなんだよ!」
「横浜の海神といえばこれしかなかろう!この像に宿っておられるんじゃ!」
ゴンドラがするすると降りていく。何気なく下を見ると、色とりどりに光る観覧車、オレンジにライトアップされた赤レンガ倉庫、少し離れた場所で格式高くたたずむ清風亭までがはっきり見えた。
夜景とは、安全な場所で見るからきれいなのであって、足元ゆれるゴンドラに乗って降りるときには、むしろ恐怖の対象となる。
俺はこのとき発症した重度の高所恐怖症を、その後も持ち続けることになった。
足をガクガクさせながら、必死に手すりにつかまる。ゴンドラはさらにくだり、女神像の顔面の前で止まった。
雨風を受けながら、横浜の海を見守り続けてきたブロンズ像は、体中をまだらに汚しながらも、きりっとした表情で太平洋の向こうを見つめている。
下から見たことはあったが、間近で見ると畏れを感じるほど大きかった。身の丈だけでも三メートル、いや四メートルはあるだろうか。
いつの間にか、サバオが大きなモップを手にしていた。業務用で使う、柄の長いモップだ。それを竹槍のように両手でかまえる。
「えいやああ!」
奇声をあげて、サバオが女神像の鼻の穴にモップをつっこんだ。
神をも恐れぬ所業だと思ったが、こいつもまた残念ながら神である。
「シャアアアアア、シャアアアアア」
女神の口がゆっくり開き、この世のものとは思われぬ声が漏れ出した。
小さな音を無数に重ねた、耳に心地がよい音。しかし、わずかな恐ろしさも感じさせる音。これは.......。
「波の音?」
「そうじゃ!生まれたときより神である海神殿は、人語を介さぬ!いまのは『まだねむい』という意味じゃ!」
女神がまだねむいと咆哮するたび、サバオが鼻にモップをつっこんだ。それを五回ほど繰り返すと、女神がけだるそうに目を開けた。
白目しかないブロンズの目が細くなり、俺たちをじっと見下ろした。威厳という言葉がぴったり当てはまる恐ろしさがある。
「急げ!ゴンドラをあげるぞ!」
女神が両目をかっと開いた瞬間、サバオが大急ぎでゴンドラを上昇させた。
ゴンドラがあがると、下から突風がふいた。
立っていられないほどの風は、女神のはばたく両翼から吹いてきたものだった。ふたつのブロンズの翼を力強く動かしながら、女神が夜空に飛び立っていく。




